本打刀(うちがたな)は、福岡藩(現在の福岡県西部)を治めた「黒田官兵衛」(別名:黒田如水・黒田孝高)の嫡男「黒田長政」(くろだながまさ)が福岡藩主だった際に入手し、徳川2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)に献上。徳川秀忠はその刃文(はもん)を観て、五月雨とはうまく名付けたものだと感心したという話が残っています。
1639年(寛永16年)、徳川3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)の娘「千代姫」(ちよひめ)が尾張徳川家の「徳川光友」(とくがわみつとも)のもとへ輿入れする際、婿引き出物として贈られた五月雨江は、そのあとも尾張徳川家に伝来しました。現在は、「公益財団法人徳川黎明会」所有のもと、愛知県名古屋市東区の「徳川美術館」でその姿を観ることができます。
本打刀は、南北朝時代に越中国(現在の富山県)松倉の「江義弘」(ごうよしひろ)によって作られました。約71cmの刀身(とうしん)に特徴があります。刀剣鑑定家の「本阿弥光瑳」(ほんあみこうさ)が、五月雨の降る頃に江義弘の作であると認めたことで、五月雨江と呼ばれるようになったとする説がある一方、刀身にまるで霧がかかったように見えることから、名付けられたとする説が有力です。