「清洲同盟/清須同盟」(きよすどうめい)は、尾張国(現在の愛知県西部)の戦国大名「織田信長」と、同じく三河国(現在の愛知県東部)の「徳川家康」(当時の名は[松平元康][まつだいらもとやす])の間で、1562年(永禄5年)に締結されたと伝わる軍事同盟です。本同盟が成立したのは、美濃国(現在の岐阜県南部)侵攻を企んでいた織田信長と、三河国(現在の愛知県東部)統一のために「今川氏」対策を講じなければならない徳川家康の利害が一致したことが背景にあります。また清洲同盟は、織田信長が1582年(天正10年)の「本能寺の変」で倒れるまで維持されましたが、当初対等であった2人の関係は、その約20年の間に織田信長を主君、徳川家康を家臣と見なすかのような主従関係へと変化していきました。
岡崎城
織田信長と徳川家康が同盟を結ぶことになる発端は、1560年(永禄3年)に勃発した「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)です。
徳川家康は、従属していた駿河国(現在の静岡県中部、及び北東部)の戦国大名「今川義元」(いまがわよしもと)が同合戦で織田信長に討たれたことにより、今川氏からの離反を決意します。
その足掛かりとして徳川家康は、父祖「松平氏」伝来の居城でありながら、今川氏の支配下に置かれていた「岡崎城」(愛知県岡崎市)を奪還。以降、徳川家康は、同城を拠点として三河国(現在の愛知県東部)の統一事業に乗り出し、同国の名族で今川氏の本家である「吉良氏」(きらし)など、今川氏の支持勢力を攻め始めます。
これに激怒した今川義元の嫡男「今川氏真」(いまがわうじざね)が、1561年(永禄4年)に松平氏側の人質を殺害。これを受けて徳川家康は本格的に今川氏と敵対していくこととなったため、伯父の「水野信元」(みずののぶもと)の説得により、西の織田信長との同盟を模索することにしたのです。
尾張・三河・駿河国の位置関係
一方でこの頃の織田信長は、美濃国(現在の岐阜県南部)の「斎藤氏」と交戦中。同国の攻略を遂行するためには、背後となる三河からの徳川家康による侵攻を防ぎ、安全を確保する必要がありました。このような背景から織田信長も、徳川家康との同盟を思案していたのです。
ところが織田氏と松平氏は、織田信長の父「織田信秀」(おだのぶひで)と徳川家康の祖父「松平清康」(まつだいらきよやす)・父「松平広忠」(まつだいらひろただ)親子らの時代から激しく対立していたこともあって、すぐには同盟の締結に至りませんでした。実際に、1561年(永禄4年)には織田氏と松平氏の間で、小競り合い程度の戦が繰り広げられたと伝えられています。
清洲城
しかし、両氏の利害関係を考えた末に、桶狭間の戦いから約2年後の1562年(永禄5年)、ようやく正式に同盟が結ばれることになりました。
このときに、徳川家康が織田信長の居城であった「清洲城」(愛知県清須市)を訪問し、両者が会見して同盟関係が成立したことが由来となり、清洲同盟と称されることになったのです。
戦国時代には、武将達の間で数多くの同盟が結ばれていました。しかし、当時は裏切りや下剋上が当たり前だった時代であったため、実際にはそのほとんどが「口約束」程度にとどまり、締結と破棄を繰り返すのが日常茶飯事。そんななかで、織田信長が亡くなるまでの約20年間に亘って清洲同盟が維持されたのは、やはり異例のことであったと言えるのです。
同盟を結ぶため、清洲城にて織田信長と徳川家康が会見の場を持った詳細な日付は諸説ありますが、江戸幕府の幕臣「木村高敦」(きむらたかあつ)が著した徳川家康の伝記「武徳編年集成」(ぶとくへんねんしゅうせい)には、1562年(永禄5年)正月15日と記されています。この当時、織田信長と徳川家康がどのような関係にあったのかが分かるのが、清洲同盟の締結時に取り交わされたと伝わる、次のような内容の「起請文」(きしょうもん)です。
起請文とは江戸時代以前の日本で用いられていた、契約を結ぶ際にそれを破らないと神仏に誓う文書のこと。戦国時代には、清洲同盟のような大名間における軍事同盟の締結や、合戦での和睦条件を記した外交文書、家臣へ領地を安堵する際の証文などに多数の戦国大名が用いていました。
松平信康
そんな神仏の名のもとに取り交わされた清洲同盟の起請文から窺えるのは、本同盟があくまでも対等な関係の上に結ばれたものであったということ。そしてこれは、織田信長が娘の「徳姫」(とくひめ:別称[五徳])を、徳川家康の嫡男「松平信康」(まつだいらのぶやす)のもとへ嫁がせている事実によっても示されています。
清洲同盟は徳川家康のほうから清洲城へわざわざ赴いていることを理由に、最初から織田信長を主とした従属同盟であったとする見方もありますが、当時、別の大名家に娘を輿入れ(こしいれ)させることは、人質に取られるのと等しい行為でした。同盟関係を強固にするためとはいえ、織田信長がそれほどまでの覚悟を持って娘に政略結婚させたことを踏まえると、締結時の清洲同盟は、やはり対等であったと推測できるのです。
今川氏真
桶狭間の戦い後、徳川家康が今川氏からの離反を決意したのは、今川義元の「弔い合戦」を主君・今川氏真に再三促していたのにもかかわらず、居館のある駿府(すんぷ:現在の静岡市葵区)から、なぜか一向に動こうとしなかったことが理由のひとつだと言われています。
このときの徳川家康は、主君の支援を得ることなく織田氏との弔い合戦を行っており、今川氏当主としての自覚のない今川氏真の器量不足に対して、大いに失望してしまったのです。
そのような経緯もあって1561年(永禄4年)2月に、織田信長と徳川家康は「鳴海城」(なるみじょう:名古屋市緑区)にて双方の領土における境界線、すなわち国境を明確にして和睦を成立。その翌1562年(永禄5年)正月に、清洲同盟を締結したのです。
ここまでご説明した通り、清洲同盟は徳川家康自ら清洲城を訪れ、織田信長と会見したことで正式に締結されたとする伝承が通説となっていました。しかし、近年の歴史研究では、この会見自体が行われなかったとする見方が有力となりつつあります。
それは会見にまつわる記述が、江戸時代中期に編纂された前述の「武徳編年集成」や、同じく江戸時代後期における江戸幕府の公式史書「徳川実紀」(とくがわじっき)などには見られるものの、より戦国期に近い江戸時代初期に成立した「徳川氏」の創業史、「三河物語」などでは一切触れられていないことが理由のひとつ。
加えて、今川氏との交戦中であったこの時期の徳川家康が、拠点としていた岡崎城を留守にしてまで清洲城へ赴く余裕はなかったはず。このような状況から推察すると、織田信長と徳川家康が直接顔を合わせての同盟締結は、事実として存在しなかったと考えられます。
織田信長
徳川家康
会見の有無の他に、清洲同盟においてもうひとつ新説が唱えられているのは、本同盟の内容が「どちらかが攻められたら必ず助けに行く」ことを条件とする、「攻守同盟」であったか否かについてです。
実は、清洲城にて会見の場が持たれたとされてきた1562年(永禄5年)正月以降、織田信長は美濃の斎藤氏(美濃一色氏[みのいっしきし])、徳川家康は今川氏と戦を行っていましたが、お互いに軍事的支援を行った形跡が史実として見られません。つまり、この時期にはまだ、織田信長と徳川家康は明確な軍事協力を目的とした同盟関係にはなく、1561年(永禄4年)2月に成立した和睦協定の域を出ていなかったと言えるのです。
足利義昭
また、この新説では、織田氏と徳川氏の和睦協定が攻守同盟へ発展したのが、前述の松平信康と徳姫の政略結婚が成立した、1567年(永禄10年)5月頃であると指摘されています。
この当時、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)が殺害された「永禄の変」(えいろくのへん)をきっかけに、同幕府内で政治的混乱が続いていました。
そんななかで、越前国(現在の福井県北東部)に逃亡していた足利義輝の弟「足利義昭」(あしかがよしあき)が次期将軍への就任意思を示し、「天下再興」(てんかさいこう)と称して全国の諸大名に支援を呼びかけます。
これに賛同した織田信長と徳川家康は、足利義昭の上洛を滞りなく成功させるために、和睦協定を攻守同盟にまで引き上げて協力し合うことを約束。その証として実施されたのが、松平信康・徳姫の政略結婚だったのです。
実際に古文書などでは、1569年(永禄12年)の徳川家康による今川領の遠江(現在の静岡県西部)侵攻、及び1571年(元亀2年)の織田信長による「長島一向一揆」(ながしまいっこういっき)討伐に援軍を送り合った例が確認でき、これが両者による軍事協力の事実として最古だとされています。
新説ではこうしたことを根拠に、松平信康・徳姫の政略結婚以前に織田氏・徳川氏間の攻守同盟はなかったとしているのです。
攻守同盟に格上げされた織田信長と徳川家康の同盟関係は、締結された当初は対等であったと考えられています。しかし、美濃攻略を完了したあと、15代将軍となる足利義昭を奉じて(ほうじて:高貴な人物を祭り上げること)上洛し、実質的な覇権を手中に収めた織田信長が、さらなる勢力基盤を破竹の勢いで構築。
武田信玄
一方で徳川家康は、三河統一から遠江侵攻へと駒を進めていきますが、1572年(元亀3年)に甲斐国(現在の山梨県)の猛将「武田信玄」と対峙した「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)で惨敗を喫し、徳川家康の勢力拡大は足踏み状態に陥ります。
そんな状況下で織田信長は、足利義昭に見限られたことから敵対関係となり、1573年(元亀4年/天正元年)には足利義昭を京都から追放。これにより織田信長の勢力がさらに拡大したため、徐々に徳川家康が、織田信長に従属する立場となっていったのです。
安土城 天主閣跡
そのことが窺える具体例はいくつかありますが、その最たる出来事のひとつが、1582年(天正10年)3月に織田、徳川、そして相模国(現在の神奈川県)の「北条氏」(ほうじょうし:別称「後北条氏」[ごほうじょうし])から成る連合軍により、「武田氏」が滅亡させられた「甲州征伐」。
同合戦後に織田信長は、各参加諸将に論功行賞(ろんこうこうしょう:功績を論じ、その程度に合った賞を与えること)として武田遺領を分割していますが、徳川家康に与えられたのは駿河一国のみ。加えて徳川家康はこの論功行賞を、織田信長がいる「安土城」(滋賀県近江八幡市)にまで直接赴いて賜り、礼を述べたと伝えられています。
これが意味しているのは、徳川家康が織田氏の一家臣と同じ扱いを受けていたということ。つまりこのときには、織田信長と徳川家康が結んだ同盟者同士の対等な関係は完全に崩れており、実質的には、徳川家康が織田信長に従属する関係へと変化していたのです。
本能寺の変
1582年(天正10年)6月、「明智光秀」(あけちみつひで)が起こした本能寺の変により、織田信長が横死します。
このときの徳川家康は、畿内に滞在中。少数の兵しか伴っていないところを明智光秀に攻められる危険性があったため、急遽河内国(現在の大阪府東部)を出発して伊賀国(現在の三重県伊賀地方)を通過し、無事に岡崎城へ帰還しました(神君伊賀越え[しんくんいがごえ])。
その後、織田信長が治めていた旧武田領を巡り、徳川氏、北条氏、越後国(現在の新潟県)の「上杉氏」の間で「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)と称する争乱が発生します。徳川家康はこれを有利に終結させ、①甲斐国と②信濃国(現在の長野県)を得ることに成功。既存の領地であった③三河国・④遠江国・⑤駿河国を加えて、計5ヵ国を支配する大大名へと飛躍を遂げたのです。
豊臣秀吉
その一方で、織田信長に仕えていた「羽柴秀吉」(はしばひでよし:のちの[豊臣秀吉])が、「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)で織田氏の筆頭家老「柴田勝家」(しばたかついえ)を破り、頭角を現し始めていました。
そんななかで徳川家康は、織田信長の次男であり後継者を自称する「織田信雄」(おだのぶかつ/おだのぶお)より、対羽柴秀吉のための共闘を呼びかけられ、これを承諾。1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)において徳川家康は、織田信雄に援軍を派遣したのです。
この一連の合戦では、羽柴軍は途中壊滅状態に陥りつつも、織田信雄の領地であった伊勢国(現在の三重県北中部)まで侵攻。その猛攻に耐えられなくなった織田信雄は、羽柴秀吉と独断で和睦を結んでしまいました。これにより、戦う大義名分を失った徳川家康も羽柴秀吉と和睦。
その後、羽柴秀吉は関白(かんぱく)にまで上り詰め、その勢威に抗えなくなった徳川家康は、1586年(天正14年)10月27日に「大坂城/大阪城」(大阪市中央区)にて羽柴秀吉と謁見し、従属の意志を示したのです。こうして、約20年間に亘って続いた織田氏と徳川氏の同盟関係は、自然消滅することとなりました。
「刀剣ワールド財団」が所蔵する浮世絵には、清洲同盟締結の舞台である清洲城を描いた作品がいくつかあります。
その中から今回ご紹介する、①「歌川芳藤 作『織田信長公清洲城修繕御覧之図』」(うたがわよしふじ さく[おだのぶながこうきよすじょうしゅうぜんごらんのず])、②「歌川国芳 作『大多春永 城塀改修之図』」(うたがわくによし さく[おおたはるなが じょうへきかいしゅうのず])の2作品が共通の話題として取り上げているのは、織田信長に命じられた豊臣秀吉が、清洲城の塀の修繕工事をたった3日で完了させたという逸話です。
歌川国芳
しかし、両者を比較してみると、①の画面右側で白馬に乗っている人物の名は「織田信長公」と書かれているのに対し、同じく白馬に乗っている②の人物は、「大田春長」と歴史上に存在しない名前で表記されています。
この大田春長の名は織田信長をもじっていることが分かりますが、このような「偽名絵」(にせなえ)と呼ばれる手法がわざわざ用いられた背景となっているのは、作者の「歌川国芳」(うたがわくによし)が活躍した江戸時代後期にあたる1804年(文化元年)に、江戸幕府が発した「文化元年の触書」(ぶんかがんねんのふれがき)と称される法令です。
同法令により江戸幕府は、徳川氏、及び天正年間(1573~1592年)以降の大名家を題材にした美術品や芸術作品の制作を禁止します。そのもともとの理由は、「下剋上」と評される豊臣秀吉の生涯を描いた読本(よみほん)の「絵本太閤記」(えほんたいこうき)が、当時庶民の間で大流行していたことにありました。天正年間と言えば、徳川家康が織田信長に代わって従属した、豊臣秀吉が活躍した時代です。
江戸幕府は豊臣秀吉をはじめとして、徳川氏が覇権を握る以前の武将や出来事を描いた浮世絵などの制作を禁じることで、将軍の威厳を保とうとしていたのです。偽名絵は、この禁令をくぐり抜けるために編み出された手法でした。
江戸幕府がこのような禁令を発して庶民の娯楽まで制限できたのは、将軍の権力があればこそ。徳川氏がそれほどまでに絶大な権力を持てたのは、徳川家康が戦国時代という乱世を生き抜くために、織田信長に従属する立場となっても清洲同盟を維持していたことが、その要因のひとつであったと言えるのです。