「どうする家康ツアーズ 紀行巡礼」についてご紹介します。大河ドラマには「紀行」コーナーがあり、ドラマ本編後にゆかりの場所を映像とともに解説してきました。このコーナーは、1990年(平成2年)より放送された大河ドラマ「太平記」より始まったとされています。名博メーハクでは、大河ドラマ第62作「どうする家康」の紀行コーナー「どうする家康ツアーズ 紀行潤礼」を詳しくまとめました。今回のコーナーの特徴をはじめ、「どうする家康ツアーズ」で紹介された場所も一部掲載しています。
徳川家康
「どうする家康ツアーズ 紀行巡礼」では、大河ドラマ「どうする家康」の本編後、約90~120秒で、「徳川家康」や「織田信長」などのゆかりの地を紹介しています。
これまでの紀行コーナーはNHKのアナウンサーがナレーションを務めていましたが、「どうする家康」の紀行コーナーでは、徳川家康家臣の「石川数正」を演じる松重豊さんがナレーションを担当。
また、これまで通りに物語にかかわる場所を映像と語りで紹介する回の他、キャスト自らがゆかりの地を訪れる回も登場します。第1話の「どうする家康ツアーズ 紀行巡礼」では、さっそく主役の松本潤さんが「久能山東照宮」(静岡県静岡市駿河区)を訪問する様子が放送されました。
久能山東照宮
「どうする家康ツアーズ 紀行巡礼」の最初に登場した久能山東照宮は、徳川家康を祀った最初の神社です。
徳川家康は1616年(元和2年)4月に亡くなりましたが、生前、「遺体は久能山に葬れ」と家臣に伝えていました。そしてその遺言通り、遺体は久能山に埋葬され、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」によって、久能山東照宮が作られたのです。
御社殿は、徳川家康から高く評価されていた「中井正清」(なかいまさきよ)が手がけ、1616年(元和2年)5月から1年7ヵ月間で作られました。 2010年(平成22年)には国宝指定も受けている建物は極彩色が美しく、要所に彫刻が施されているのが特徴。また、「権現造」(ごんげんづくり)と呼ばれる形式となっており、全国の東照宮のひな型にもなりました。
なお、本殿の後方には、徳川家康の遺体を埋葬した場所とされる「神廟」(しんびょう)が立地しています。
この他にも、御社殿のまわりにある「玉垣」の彫刻、徳川家ゆかりの刀剣や甲冑(鎧兜)、調度品などを所蔵する「久能山東照宮博物館」も見どころです。
静岡浅間神社
「静岡浅間神社」(しずおかせんげんじんじゃ:静岡県静岡市葵区)は、「神部神社」(かんべじんじゃ)、「浅間神社」(あさまじんじゃ)、「大歳御祖神社」(おおとしみおやじんじゃ)3社の総称。「おせんげんさん」「おせんげんさま」とも呼ばれています。
駿河国(現在の静岡県中部・北東部)の総社として古くから信仰を集めていた静岡浅間神社は、徳川家康が人質となっていた今川家の氏神として庇護されていました。徳川家康の元服(げんぷく:12~16歳頃に行われた男子成人の儀式)はこの神社で行われており、その際、「今川義元」が烏帽子親(えぼしおや:元服時に立てられる仮親)を務めたと言われています。
また、徳川家康は武田家攻略にあたって、戦勝祈願ののち火を放ち、後方にあった武田方の城を滅ぼしました。この際、徳川家康は「必ず再建する」と誓っており、実際社殿を作っています。その後、火災の被害にもあった静岡浅間神社ですが、19世紀初めより60年以上かけて再建されました。
なお、境内にある7社すべてを参拝する「浅間の7社参り」を行うと、願いが何でも叶うと言われています。また、神社内には2024年(令和6年)1月28日まで、大河ドラマ館が立地。「どうする家康」の世界に浸れます。
※2034年(令和16年)まで塗替え工事が行われる予定です。
郵便ポストプラモニュメント
静岡県静岡市は、プラモデルの出荷額日本一の「ホビーの街」。市内には組み立て前のプラモデルがイメージされたモニュメントが4基置かれています。
そのなかでも、静岡市役所静岡庁舎の前にある「郵便ポストプラモニュメント」は、組み立て前のような見た目をしていながら、通常のポストと同じく郵便物を投函することが可能です。もちろん、ランナーと呼ばれる枠や、パーツとランナーをつなぐ軸・ゲートも表現されています。
「どうする家康ツアーズ 紀行巡礼」によると、静岡市がホビーの街となったのは、徳川家康ゆかりの久能山東照宮や静岡浅間神社などのために、全国から職人が集められたから。特に静岡浅間神社の工事は長きにわたって行われ、職人達は地元の職人に技術を伝授しました。これにより伝統工芸が発展し、そのなかの模型が現代のプラモデル産業につながったとされています。
駿府城 巽櫓
徳川家康は8歳から19歳まで、駿府の今川氏のもとで生活を送りました。そして40代のときに駿府を支配下に置き、居城として「駿府城」(静岡県静岡市葵区)の築城を始めます。しかし、「豊臣秀吉」によって国替えされ、関東地方を治めることになりました。
その後、「征夷大将軍」に任命された徳川家康ですが、2年で将軍職を息子・徳川秀忠に譲って駿府に戻り、駿府城の大修築や駿府の町の改造を実施。徳川家康はこの駿府で大御所政治を行い、駿府は江戸を超えるほどの中心地として栄えました。
「駿府城公園」には、復元された「巽櫓」(たつみやぐら)、「東御門」(ひがしごもん)、「坤櫓」(ひつじさるやぐら)が建っており、往時の姿を今に伝えています。また、天守台発掘調査の様子、晩年の徳川家康の銅像なども見ることができ、歴史を感じられるスポットです。
ちなみに、駿府城公園の近くには「静岡市歴史博物館」が立地。こちらの博物館では、徳川家康や今川氏に関する展示が行われており、駿府城公園と合わせて行っておきたい場所となっています。
岡崎公園
「岡崎公園」は、岡崎のシンボル「岡崎城」を中心にした公園です。岡崎城は徳川家康が生まれた城。
江戸時代には「神君出生の城」として、家格の高い譜代大名(ふだいだいみょう:[関ヶ原の戦い]前より徳川家に従っていた大名)が城主を務めました。
天守は明治時代に破却されましたが、1959年(昭和34年)に再建され、岡崎城や城下町について学べるような施設になっています。
なお、岡崎公園内は、徳川家康の銅像・騎馬像やベンチ、徳川家康が生まれた際に産湯に使われた井戸、徳川家康の「えな」(へその緒・胎盤)を埋めたと伝わる場所といった、徳川家康関連のスポットがあります。
龍城神社
「龍城神社」(たつきじんじゃ)は、岡崎公園内の岡崎城天守に隣接する神社。御祭神は、徳川家康や本多忠勝などです。
岡崎城には龍にまつわる伝説があり、15世紀の中頃に西郷氏が築城した際、龍神が現れて、城中の井戸水が噴き出し龍神に注いだと伝わる他、徳川家康が生まれたときは、まるで誕生を待っていたかのように城の上に金色の龍が出現したと言われています。
神社内には龍にまつわる場所が立地。「龍の井」は、龍神が現れた際に水が噴き出たとされている井戸で、出世や厄除け、安産のご利益があると伝わります。また、拝殿には、木彫りの昇竜があり、その大きさは国内最大級です。
なお、徳川家康や徳川四天王などが練り歩く岡崎の春の風物詩「家康行列」は、もともと龍城神社(当時は映世神社)の祭りでした。戦争によって一時行われなくなりましたが、1959年(昭和34年)より復活しています。
大樹寺
「大樹寺」(だいじゅじ)は、松平家(徳川家の前身)・徳川将軍家の菩提寺。徳川家康と大樹寺には、以下のようなエピソードが残されています。
「桶狭間の戦い」において敗れた今川方だった徳川家康は大樹寺に逃れ、先祖の墓の前で自害しようとしました。しかしその際、住職だった「登譽上人」(とうよしょうにん)に「厭離穢土欣求浄土」(おん[えん]りえどごんぐじょうど:穢れたこの世を離れ、平和な世界を求める)という言葉をもらい、自害を思いとどまったのです。
境内には松平家8代の墓のほか、徳川家康の祖父にあたる「松平清康」が建立した「多宝塔」、徳川歴代将軍(15代将軍[徳川慶喜]除く)の等身大位牌のある「位牌堂」などがあり、見ごたえ十分。さらに、本堂の御本尊両脇には、登譽上人が徳川家康に言ったとされる「厭離穢土欣求浄土」の言葉が掲げられています。また、大樹寺本堂からは山門、総門を通して、岡崎城天守を眺めることが可能。この眺望・直線は「ビスタライン」と呼ばれています。