久能山東照宮は、徳川家康の息子で、2代将軍「徳川秀忠」が創建。これは、家康の以下の遺言によるものでした。
「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行ない、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎたのち、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守になろう」
この遺言の通り、家康の遺体は久能山に葬られ、その後一周忌を機に「日光東照宮」に分霊が行なわれました。久能山東照宮では、家康の「神廟」(しんびょう:墓のこと)である石塔が、西国の安定のため西を向いてにらみをきかせているとの説もあります。
久能山東照宮を創建するにあたって、家康が自らの遺体を葬る場所として久能山を指定したのには理由がありました。息子の秀忠に将軍職を譲ったあと江戸を離れ、駿府で「大御所」として二元政治を行なっていた家康は、以下の言葉を口にしていました。「久能山は駿府城(静岡城)の本丸だ」。これは、久能山には「武田信玄」が築いたとされる城砦「久能城」(久能山城)があり、守りの要である城砦の存在を抜きにして駿府の平和は語れないという思いからでした。まさに、この久能城の跡地に久能山東照宮が建立されているのです。
久能山東照宮に併設する「久能山東照宮博物館」では、家康の指料(さしりょう)だった「太刀 伝光世作」いわゆる「ソハヤノツルキ」をはじめとして40口以上の刀を収蔵・展示。この名称の由来は佩表裏に「妙純傳持 ソハヤノツルキ」「ウツスナリ」と切付銘があるからです。この太刀の作者は「三池典太光世」(みいけでんたみつよ)と伝えられています。
このソハヤノツルキには、こんな逸話があります。それは家康が死の直前に遺言をすると共に、側近(都築久太夫)に命じて、この太刀で試し斬りをさせたというものです。そして死後は豊臣家が滅亡し、徳川幕府が日本を統一するに至っても、まだ西においては不穏な動きがあったため、自らの枕元に、鋒/切先を西に向けて立てて置かせたとの言い伝えがあります。久能山に葬られた1年後、江戸城から北極星の位置(真北)にあることを理由として、日光東照宮に分霊を命じるなど、徳川の世の安泰を願いながら死んでいった家康らしい措置でした。