『徳川家康』で知られる山岡荘八(やまおかそうはち)。戦後に家康ブームを起こした山岡は家康の他、多数の戦国武将を描きました。そこには戦中戦後を生きた山岡の日本刀を通した自身の想いが秘められています。
徳川家康
山岡荘八は、『サンデー毎日』大衆文芸賞の入選を機に文筆で身を立てる決意をし、長谷川伸門下になります。戦時中は志願して従軍作家活動に従事し、戦後、公職追放を受けました。
追放解除の年、『徳川家康』(1950~1967年『北海道新聞』『中日新聞』『西日本新聞』『東京新聞』などの合同紙連載)を執筆します。徳川家康の70年余りの生涯を描いたこの歴史小説は、連載が17年に及び、山岡の戦争体験も反映されたライフワークとなりました。連載中、北大路欣也主演でテレビドラマ化・映画化もされ、連載終了時、第2回長谷川伸賞、第2回吉川英治文学賞を受賞しました。
戦国の世を泰平の世におき替えるためには、新しい秩序の必要なことは云うまでもなく、そのよりどころを示す「法度(ほっと)――」はきびしく守らせてゆかなければならなかったが、しかし、法度があるから人間がある……というものではなかった。
法度も又、どうしてよりよく人間を活かすかの工夫にすぎず、その上にもう一つより大切な天地自然の「法(のり)――」がある。
『徳川家康』より
徳川家康の生母・於大の方(おだいのかた)の縁談から始まる『徳川家康』では、織田信長、豊臣秀吉ら多くの戦国武将が登場します。山岡は、秀吉が武将への褒賞となる土地の替わりに、日本刀を作り上げるよう本阿弥光悦に申し付ける場面を描きます。本阿弥家は足利尊氏に仕えたと言い、秀吉より刀の鑑定所を免許された家系で、本阿弥光徳は秀吉が集めた刀剣を記した『光徳刀絵図』『紙本墨書刀絵図』も残しています。
「――それそれ、その自信は思いあがっておるぞ。そちの日本一は、刀剣では本阿弥光悦が日本一! と、この秀吉が決めてやったゆえそれで世間を通るのじゃ」
「――すると、その日本一の光悦に、無銘の刀をあつめて正宗に造り変えよと……」
「――無銘の刀ではない! 無銘の名刀じゃ! かくれた豪傑、かくれた名将を世に出してやれと申しておるのがわからぬか。よし、今日は忙しい。よく考えて返事に参れッ」
『徳川家康』
織田信長
山岡は『徳川家康』の連載と並行して、多くの戦国武将の歴史小説を執筆します。『織田信長』(1954~1960年『小説倶楽部』連載)、現在『豊臣秀吉』と改題されている『異本太閤記』(1960~1969年『小説倶楽部』連載)、『毛利元就』(1962~1964年『潮』連載)などです。
連載中に中村(のち萬屋)錦之助主演で映画化された『織田信長』では、室町幕府第13代将軍・足利義輝と信長上洛時のやりとりを描きます。塚原卜伝や上泉信綱から剣を学んだと言われ、剣聖将軍とも謳われた義輝に対し、信長は新しい時代の到来を告げます。
「そこで鉄砲を四百挺手に入れたら、もはや将軍の剣技など、小児の玩具になり下る。この御所をおっとり巻いて、土居の上からダダーンと四百挺の鉄砲に火を吐かせたら、これで、もはや剣技も、将軍も、生命も地位も千切れ飛びましょう。この信長ならばそういたしまする」
『織田信長』
伊達正宗
その後、山岡の歴史小説は、NHK大河ドラマの原作の常連となっていきます。中村錦之助主演の第9作目『春の坂道』(1971年)、滝田栄主演による第21作目『徳川家康』(1983年)、渡辺謙主演による第25作目『独眼竜政宗』(1987年)です。
『春の坂道』は同名の書き下ろし小説(1972年 講談社)を経て現在『柳生宗矩』と改題され、『独眼竜政宗』は『伊達政宗』(1969~1973年『サンデー毎日』連載)が原作です。
晩年に『徳川慶喜』、『徳川家光』も執筆した山岡は、信長・秀吉・家康だけでなく、戦国時代から江戸幕府の滅亡までを描くと同時に、日本刀の役割の変化も描き続けました。