13人の合議制(鎌倉殿の13人)関連人物

土肥実平(どひさねひら)
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土肥実平(どひさねひら) 土肥実平(どひさねひら)
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「土肥実平」(どひさねひら)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて活躍した武将。鎌倉幕府初代鎌倉殿「源頼朝」から重用された人物であり、のちに「関ヶ原の戦い」で東軍勝利の決め手を作った「小早川秀秋」(こばやかわひであき)を輩出した「小早川氏」の祖として有名です。2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で土肥実平を演じたのは、人気俳優の「阿南健治」(あなんけんじ)さん。同作で土肥実平は「みんな仲良くしようよ」が口癖の温厚な人物として描かれました。では、史実における土肥実平とは、どのような人物だったのでしょう。土肥実平の生涯と、ゆかりの町・湯河原(神奈川県足柄下郡湯河原町)にある土肥実平とかかわりの深い施設をご紹介します。

土肥実平の生涯

土肥実平

土肥実平

「土肥実平」(どひさねひら)は、「源頼朝」に仕え、相模国(現在の神奈川県)、及び伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)における重鎮として活躍しましたが、正確な生年や生誕地は分かっていません。

土肥実平の名が史料に登場する時期は、各物語によって異なります。一例として、「曽我物語」(軍記物語風の英雄伝記物語)において土肥実平の名が登場したのは、1176年(安元2年)に日本三大仇討ちのひとつ「曽我兄弟の仇討ち」(そがきょうだいのあだうち)で登場する曽我兄弟の父「河津祐泰」(かわづすけやす)と、「俣野景久」(またのかげひさ:のちに源頼朝と対立する)が相撲の判定を巡って揉めたときのこと。このときに2人の仲裁に入ったのが土肥実平です。

土肥実平と中村党

1180年(治承4年)8月、「以仁王」(もちひとおう)が「平氏打倒の令旨」を発令。これに源頼朝が呼応して挙兵したときには、土肥実平も弟「土屋宗遠」(つちやむねとお)や自身の嫡男「土肥遠平」(どひとおひら)の他、「中村党」と呼ばれる有力な武士団を率いて参陣しています。

当時、相模・伊豆には中村党の他にも、「鎌倉党」や「工藤党」など有力な武士団がいくつか存在していました。しかし、それらの武士団では内部分裂などの問題が発生していたことから、源頼朝が挙兵した際に活躍したのは、土肥実平を中心とした中村党だけだったと言われています。

しとどの窟

しとどの窟

しとどの窟

平氏を倒すために挙兵した源頼朝でしたが、「石橋山の戦い」で敗走。このとき、源頼朝を助けたのが土肥実平です。

土肥実平は持ち前の土地勘を活かして、追っ手から逃れるために源頼朝達を椙山(すぎやま)へ先導。源頼朝達は「土肥椙山岩窟」(どいすぎやまがんくつ:現在の神奈川県足柄下郡湯河原町)、通称「しとどの窟」(しとどのいわや)と呼ばれる洞窟へと隠れるのです。

なお、源頼朝は敗走する際、平氏軍に捕まるリスクを減らすために各軍ばらばらに逃げていました。そのため、この時点で源頼朝とともにいたのは、源頼朝を含めてわずか8人。しかし、そんな状況でも源頼朝は諦めることなく再起を誓います。

土肥実平と七騎落

しとどの窟を抜け出して源頼朝一行が向かったのは、神奈川県足柄下郡真鶴町にある「岩海岸」。ここには現在、「源頼朝船出の浜」と書かれた石碑があります。源頼朝達はこの場所から安房国(現在の千葉県南部)へと出航しますが、このときに乗船したのは7人でした。

源頼朝達が7人で出航した理由は、源氏の「慣わし」が関係しています。じつは、源頼朝の祖父「源為義」(みなもとのためよし)や、源頼朝の父「源義朝」(みなもとのよしとも)は最期を迎える直前に、いずれも8騎で行動していたのです。そのため、源頼朝は「8」という数字に不吉さを感じ、ともに潜伏していた土肥遠平に、「我が妻である北条政子[ほうじょうまさこ]に、私達が安房国へ渡ることを伝えよ」と命じて7人で出航することにしたのだとか。

この逸話は「七騎落」(しちきおち)と呼ばれ、能楽の演目にもなっています。

土肥実平の最期

土肥実平はそのあとも、源頼朝に従って源平合戦(治承・寿永の乱)における数々の合戦へ参陣。その活躍ぶりは合戦だけに留まらず、武士達の取次役を務めたり軍政にかかわったりするなど、源頼朝のもとで着実に信頼を得ていきました。

ところが土肥実平の記録は、1191年(建久2年)7月「土肥実平は、岡崎義実[おかざきよしざね:土肥実平の姉、または妹の夫]とともに、新しい厠[かわや:トイレ]の建設を監督した」との記述を境に途絶。一説によると、土肥実平は「源義経」と仲が良かったことを理由に失脚させられたのではと言われています。

なお、土肥実平の没年は軍記物語「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ)の記述によって、ある程度推測することが可能です。吾妻鏡によると、1195年(建久6年)7月13日に「後家の尼[ごけのあま:出家した未亡人]である土肥実平の妻が、鎌倉へ酒を献上した」とあるため、土肥実平が亡くなったのは1191年(建久2年)から1195年(建久6年)の間と考えられます。

土肥実平にゆかりある施設

土肥実平が本拠としていたのは、現在の神奈川県足柄下郡湯河原町周辺。同地には現在でも土肥実平にゆかりある施設が多くあります。

土肥実平一族のお墓がある「城願寺」

城願寺

城願寺

神奈川県足柄下郡湯河原町にある曹洞宗の寺院「城願寺」(じょうがんじ)は、土肥実平が創建したと伝わる名刹。

もともとは密教のお寺でしたが、土肥実平が「萬年[万年]の世までも家が栄えるように」との願いを込めて「萬年山」(まねやま)と号を付け、持仏堂(じぶつどう:日常的に礼拝する仏像[念持仏]などを安置するためのお堂)を整えたのがはじまりとされています。

土肥実平一族のお墓

城願寺には、土肥実平一族のお墓66基が現存。また、境内には「1304年(嘉元2年)7月」と刻印された五層の塔や、「1375年(永和元年)6月」と刻まれた宝篋印塔(ほうきょういんとう:墓塔や供養塔に使用される仏塔の一種)など、いくつかの仏塔があります。

ひとつの墓所に各種形式・各年代にまたがる仏塔が立ち並ぶのは、関東地方において大変珍しい光景。墓所は神奈川県指定文化財に指定されており、関東有数の史跡として有名です。

七騎堂

七騎堂

七騎堂

城願寺には、七騎落にまつわるお堂「七騎堂」(しちきどう)があります。

このお堂で祀られているのは、安房国へと出航した①源頼朝、②土肥実平、③土屋宗遠、④「安達盛長」(あだちもりなが)、⑤岡崎義実、⑥「新開忠氏」(しんかいただうじ)、⑦「田代信綱」(たしろのぶつな)の7人。

このうち、安達盛長は鎌倉幕府で「13人の合議制」のひとりに抜擢された人物です。新開忠氏は土肥実平の息子で、土肥遠平とは兄弟の関係にありました。また、田代信綱は「田代冠者」(たしろかじゃ)と号され、源義経に従軍して「木曽義仲/源義仲」(きそよしなか/みなもとのよしなか)を追討したことで知られています。

土肥実平と土肥遠平の像

城願寺の境内には、土肥実平と土肥遠平の像が寺宝(じほう)として存在。このうち、土肥実平の像は衣冠束帯(いかんそくたい:貴族や高級官僚の正装)の姿で、腰には刀剣佩刀(はいとう)。一方で、土肥遠平の像は僧衣の姿。手に持っているのは笏(しゃく)で、頭部は差し込み式(首に差し込んで固定するタイプ)となっていますが、現在は脱落防止のために漆で固定してあります。

どちらの像も、制作されたのは鎌倉時代後期から室町時代前期。制作したのは土肥氏の子孫・小早川氏で、城願寺へ安置されたと伝わります。

土肥実平が植えた「ビャクシン」

願成寺のビャクシン

願成寺のビャクシン

願成寺にある「ビャクシン」(イブキ)は、土肥実平が持仏堂を建てた際に自ら植えたと伝わる大樹です。

高さは約20m、幹の太さは約6mもあり、関東有数の古木として国の天然記念物にも指定されています。

なお、「湯河原温泉観光協会」では土肥実平の活躍を描いた漫画のタイトルに「ビャクシン」の名を採用。この漫画冊子は、外国人や若い人達に土肥実平のことを知ってもらうために作られました。

土肥実平と妻の銅像がある「JR湯河原駅前」

土肥実平と妻の銅像

土肥実平と妻の銅像

JR東海道本線「湯河原駅」(神奈川県足柄下郡湯河原町)の駅前には、土肥実平とその妻の銅像が存在。

なぜ湯河原駅前に2人の銅像があるのかと言うと、土肥実平の館跡があったとされるのが湯河原駅前付近だからです。

土肥実平の妻に関する記述は、吾妻鏡にいくつかエピソードがあるのみで、正確な名前や、どのような生涯を送ったのかは分かっていません。

吾妻鏡には、土肥実平の妻が行ったこととして、源頼朝が伊豆で挙兵した際、夫・土肥実平へ「源頼朝にしたがうべきです」とアドバイスをしたことが書かれています。また、この他にも石橋山の戦いで敗走し、潜伏していた土肥実平達のもとへ食糧を届けたり、状況を報告したりしたとの記述が存在。このことから、土肥実平の妻は自身にできることを熟知し、夫のために行動することができる非常に聡明な女性だったことが分かります。

土肥実平が戦勝祈願のために刀剣を奉納した「五所神社」

五所神社

五所神社

「五所神社」(ごしょじんじゃ)は、神奈川県足柄下郡湯河原町にある神社。

社伝によれば、五所神社が創建されたのは668~672年の38代天皇「天智天皇」(てんじてんのう)の時代。加賀の住人「二見加賀之助重行」(ふたみかがのすけしげゆき)をはじめとする人びとが湯河原を開拓した際、土肥郷の総鎮守として創建したのが五所神社と伝わります。

1060年(康平3年)、源頼朝ら源氏の先祖にあたる「源義家」(みなもとのよしいえ)の配下にあった「荒井実継」(あらいさねつぐ)が五所神社の加護を受け、のちに行われた奥州征伐で戦功を挙げました。

そののち、1180年(治承4年)8月になると、土肥実平が源頼朝の挙兵に伴って五所神社へ佩刀を奉納したと言われており、このときに奉納された刀剣が社宝として伝わっています。

なお、神社の正面、鳥居をくぐって階段を上った右側には根回り15.6m、樹高17.5mもある、「明神の楠」(みょうじんのくすのき)と呼ばれる大樹が現存しています。幹の中には地蔵尊がありますが、これは中国より伝来した道教に由来する庚申信仰(こうしんしんこう)に基づいて作られた塔「庚申塔」(こうしんとう)です。明神の楠は現在でも、五所神社の御神木として大切にされています。

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