「平維盛」(たいらのこれもり)は、平氏の棟梁である「平清盛」(たいらのきよもり)の嫡孫にあたる平安時代後期の武将です。「光源氏の再来」と言われるほどの美貌を持つ貴公子として知られ、2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、俳優の「濱正悟」(はましょうご)さんが演じています。「源平合戦」こと「治承・寿永の乱」においては、大将軍として出陣するものの、「富士川の戦い」で敗走し、「倶利伽羅峠の戦い」(くりからとうげのたたかい)では自軍が壊滅。平氏一門が都落ちしたのをきっかけに陣中から逃亡しました。容姿美麗と称えられる一方、敗軍の将としてのイメージが付きまとう平維盛の生涯を追っていきます。
平維盛
1159年(平治元年)、「平維盛」(たいらのこれもり)は「平清盛」(たいらのきよもり)の嫡男「平重盛」(たいらのしげもり)の長男として誕生。母については諸説あり不明となっています。
14歳のときに、公卿(くぎょう:国政を担う最高幹部職)である「藤原成親」(ふじわらのなりちか)の次女を正室に迎えました。
1176年(安元2年)3月4日に催された「後白河法皇」(ごしらかわほうおう)50歳の祝賀で、平維盛は烏帽子(えぼし)に桜と梅の枝を挿して「青海波」(せいがいは:雅楽の演目のひとつ)を舞い、その優美な姿から「桜梅少将」(おうばいしょうしょう)と呼ばれるようになります。さらに、平維盛の美貌は、「紫式部」(むらさきしきぶ)の小説「源氏物語」の主人公「光源氏」(ひかるげんじ)に例えられました。
1180年(治承4年)5月26日、平氏政権に不満を募らせた皇族の「以仁王」(もちひとおう)が挙兵。平維盛は、叔父「平重衡」(たいらのしげひら)と共に以仁王の軍を追討するため、宇治(現在の京都府宇治市)に派遣されます。同じく参陣した平維盛の乳母夫(めのとぶ:乳母の夫)で侍大将の「藤原忠清」(ふじわらのただきよ)ら平氏家人の尽力により以仁王の軍を鎮圧しました。しかし、1180年(治承4年)10月の「富士川の戦い」では、平維盛は総大将となるものの、歴史的な敗北を喫してしまいます。
以仁王の決起に呼応した「源頼朝」をはじめとする東国の源氏追討に向け、平維盛は平氏軍を率いて東海道を下りますが、夏の凶作により兵糧の調達が滞り、さらに源氏側が諸国で挙兵しているとの情報が広まっていたため、思うように兵員が集まりませんでした。
1181年(治承5年)閏2月、平清盛が病没。翌3月に「源行家」(みなもとのゆきいえ)の源氏軍と戦った「墨俣川の戦い」(すのまたがわのたたかい:現在の岐阜県・愛知県境付近の長良川)では、平維盛は大将軍として勝利を収めます。
1183年(寿永2年)4月、平維盛を総大将とする「源義仲」(みなもとのよしなか)別称「木曽義仲」(きそよしなか)追討軍が結成され、北陸へ向けて出発。その兵力は40,000とも100,000とも言われ、進軍の途上では兵糧調達のために強引な取り立ても行われました。
「倶利伽羅峠の戦い」(くりからとうげのたたかい)の戦場となった倶利伽羅峠(くりからとうげ:現在の富山県西部)では、平氏軍は源義仲の計略にはまり、夜間に轟音を立てて襲撃する源義仲軍に浮足立って、敵のいない方向へ敗走。ところがそこには倶利伽羅峠の断崖があり、兵士達は次々と谷底へ転落して源義仲追討軍の大半が失われたのです。
平維盛はほうほうの体で京へ逃げ帰り、源義仲は京へ向けて進撃すると、1183年(寿永2年)7月には上洛を果たします。平氏にはすでに京で対抗する力はなく、自分達が擁立した「安徳天皇」(あんとくてんのう)を連れ、西国へと逃れました。
平氏一門が都落ちする際、平維盛は都に残す妻子との別れを惜しんで出発が遅れてしまいます。この遅れに対して、平氏棟梁の平宗盛やその弟の「平知盛」(たいらのとももり)が平維盛の心変わりを疑ったと「平家物語」に記されました。平氏一門の中でも、平維盛の一族が不安定な立場にあることが、平氏の没落と共に露呈されたのです。
実際に、平維盛は平氏一門と運命を共にすることなく、1184年(寿永3年)2月に「一ノ谷の戦い」、そして「屋島の戦い」(やしまのたたかい)が起こった頃、屋島(現在の香川県高松市)の陣中から逃亡しました。
そのあとの足取りについては諸説あり、死亡した日や正式な死因は不明です。平家物語では、高野山(和歌山県伊都郡高野町)にて出家したのち、那智(和歌山県南東部)の海で入水したとされています。
平維盛の家系図