服部半蔵
服部半蔵(はっとりはんぞう)は、「鬼の半蔵」の異名を持つ戦国時代から江戸時代にかけての武将。
ただし、服部半蔵の名は、服部家に代々伝わる通称であり、特定の人物を指すわけではありませんでした。なかでも最も有名なのが、同家の2代当主である服部正成(はっとりまさなり/まさしげ)です。
徳川家康に仕え、三河一向一揆や姉川の戦いなど、数多くの合戦に同行しています。
徳川家康が九死に一生を得た伊賀越えでは、服部半蔵が伊賀の地侍や土豪と交渉したことで、徳川家康一行は無事に帰還。
こういった活躍もあって服部半蔵は、最終的に「徳川十六神将」のひとりにも選ばれています。
また、東京にある「半蔵門」(東京都千代田区)の地名は、服部半蔵の屋敷があったことが由来。
半蔵門は、江戸城に直結する唯一の街道、甲州街道へと抜ける門となっていました。半蔵門が軍事的にも重要な役割を担っていたことからも、服部半蔵が徳川家康に重用されていたことが分かります。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1542年(天文11年) | 1歳 | |
1548年(天文17年) | 7歳 |
大樹寺(だいじゅじ/だいじゅうじ)に預けられる。
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1551年(天文20年) | 10歳 |
大樹寺への出家を拒否して失踪。そのあと、初陣を飾るまでの7年間消息を絶つ。
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1557年(弘治3年) | 16歳 |
三河宇土城(愛知県蒲郡市:別称[上ノ郷城])に夜襲をかけ、武功を立てる。
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1563年(永禄6年) | 22歳 |
三河一向一揆が勃発。一向宗を信仰していたが、徳川家康への忠誠を誓い、一揆勢と戦う。
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1569年(永禄12年) | 28歳 | |
1570年(永禄13年/ 元亀元年) |
29歳 |
姉川の戦いに参戦。
姉川堤において一番槍の武勲を立てる。 |
1572年(元亀3年) | 31歳 |
三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)に参戦。大須賀康高(おおすがやすたか)の部隊に属し、一番槍の武功を挙げるが、徳川軍は大敗を喫する。
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1575年(天正3年) | 34歳 |
長坂信政(ながさかのぶまさ)の娘を正室に迎える。
高天神城の戦いに参戦。 |
1576年(天正4年) | 35歳 |
長男である服部正就(はっとりまさなり:のちの三代服部半蔵)が誕生。
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1579年(天正7年) | 38歳 | |
1580年(天正8年) | 39歳 |
次男・服部正重(はっとりまさしげ:のちの四代服部半蔵)が誕生。三男・服部正廣(はっとりまさひろ)が誕生。
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1582年(天正10年) | 41歳 | |
1584年(天正12年) | 43歳 |
小牧・長久手の戦いに参戦。伊賀、甲賀の忍者約100人を引き連れ、鉄砲で豊臣軍を撃退。
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1590年(天正18年) | 49歳 |
小田原征伐に従軍。鉄砲奉行として戦い、首級を18級挙げた。この武功により徳川家康の関東入国後、8,000石を与えられる。
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1592年(天正20年/ 文禄元年) |
51歳 | |
1597年(慶長2年) | 56歳 |
病に伏して死去。
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