吟剣詩舞(ぎんけんしぶ)が開眼された初期には、藩政時代の大名、学者、江戸末期から明治初期にかけて活躍した学者や軍人の詠んだ漢詩が詞章とされ、吟詠(ぎんえい)、剣舞(けんぶ)で表現されました。水戸藩の2代目藩主「水戸光圀」の詠んだ漢詩「詠日本刀」や9代目水戸藩主「徳川斉昭」作の漢詩「大楠公」は、詩吟や吟剣詩舞の演目として有名です。
武士の嗜みから生み出された吟剣詩舞(ぎんけんしぶ)の本来の演目とは、詞章となる漢詩や和歌の題名がそのまま演目とされていました。吟剣詩舞が開眼された初期には、藩政時代の大名、学者、江戸末期から明治初期にかけて活躍した学者や軍人の詠んだ漢詩が詞章とされ、吟詠(ぎんえい)、剣舞(けんぶ)で表現されました。
詞章となる漢詩は、剣舞のみに使用されるものと、扇を使用する詩舞に使用されるもの、剣詩舞双方で使用されるものの三種に分けられていました。
剣舞において名作とされる作品をいくつかご紹介します。
水戸光圀
「水戸黄門」で知られる水戸藩の2代目藩主水戸光圀(みとみつくに)は、藩政だけではなく、文化、修史事業にも力を入れた大名でした。「徳川家康」の孫であり、幕政にも影響力をもつ御三家に生まれた光圀は、少年時代は素行不良で周囲を困らせます。しかし、18歳のときに「司馬遷」の「史記」を読んだ光圀は感銘を受け、以降態度を改めます。
光圀の詠んだ漢詩詠日本刀(えいにほんとう)は、吟剣詩舞の剣舞の演目として知られています。その名の通り、日本刀について詠んだ漢詩であり、簡単に人を斬り、大事な刀を汚してはならないと諌めています。武士にとって、いかに日本刀が重要な物であったのかが、この詩を通じて分かります。
光圀から7代を経た幕末、藩政改革に成功した名君で知られる9代目水戸藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)もまた、優れた漢詩を残しています。
楠木正成
斉昭作の漢詩大楠公(だいなんこう)は、詩吟や吟剣詩舞の演目として有名です。大楠公とは、14世紀初頭、鎌倉時代末期から室町時代にかけ、軍事に優れた武将として知られた「楠木正成」(くすのきまさしげ)のこと。
楠木は、「後醍醐天皇」の命を受けて鎌倉幕府打倒に貢献し、1333年(元弘3年)の建武の新政を「足利尊氏」らと支えた名将です。楠木の波乱に満ちた生涯は、斉昭の漢詩以外にも能、浄瑠璃といった古典芸能の他、現在も小説などの題材として取り上げられています。
斉昭の大楠公では、楠木公の忠義の精神を称え、その名声が今後も永遠に伝えられていくと詠んでいます。詩中には、中国の五代に作られた詩の一部「豹死留皮(豹は死して皮を留む)」が引用されています。五代とは、907年の唐の滅亡から960年まで、5つの王朝が君臨した時代です。豹死留皮(豹は死して皮を留む)とは、豹は死後に美しい毛皮を残す、獣でさえそうなのだから、人は死後に名声を残さなければならないという意味。しかし、楠木公のような立派な人物の名声は今も、そしてこれからも伝えられ続けられると称賛しているのです。
明治時代には、軍人が詠んだ漢詩が詞章となりました。
長州藩士の家に生まれた「乃木希典」(のぎまれすけ)は、幼少から武術や学芸の教育を受けた武士でした。しかし、少年期には学者になることを志したほど、学芸にも秀でた人物でした。優れた陸軍大将、教育者でもあった乃木は、漢詩作においても優れた才能を発揮し、名作を数多く残しています。そのなかでも、中国の戦場跡で戦死者に向けて詠んだ「金州城」(きんしゅうじょう)、「爾霊山」(にれいざん)は剣舞の詞章としても有名です。
剣舞と、刀剣ではなく扇を小道具とする詩舞の両方の詞章となる漢詩にも、有名な作品があります。
徳川斉昭の漢詩「弘道館賞梅花」(こうどうかんしょうばいか)は、剣舞、詩舞の両方の詞章として有名です。この題名は「弘道館に梅花を賞す」という意味であり、水戸藩の藩校、弘道館に数多く植樹されていた梅について詠んだものです。斉昭は満開に咲きほこる梅の美と芳香を楽しみつつ、3世紀の中国の故事を思い出します。晋王朝の武帝が、学問を止めると梅の花が咲かなくってしまったという故事に基づき、梅を好文木と称すことがある。しかし、寒中の雪を払いのけて咲きほこり、春を招く梅には、武の力もあると詠っています。
川中島の戦い
斉昭と同時期、江戸後期の学者「頼山陽」(らいさんよう)の漢詩「川中島」(かわなかじま)も、剣詩舞の詞章とされます。川中島は1553年(天文22年)に、甲斐国「武田信玄」と越後国「上杉謙信」の間で繰り広げられた川中島の戦いについて詠まれた漢詩です。
本来の題名は「不識庵機山(ふしきあんきざん)を撃つの図に題す」であり、不識庵とは謙信、機山は信玄のことです。川中島の戦いの最中、密かに近づき斬りかかった謙信の刀を、信玄は寸前に鉄扇で防ぎ、逃れました。そのことを思い出し、あと一歩というところで宿敵を逃がしてしまった謙信の悔しさを詠んだ詩なのです。
そして幕末、土佐藩の志士「吉村寅太郎」(よしむらとらたろう)が故郷へ護送される際に詠んだ詩「舟至由良港」(ふねゆらこうにいたる)も、剣詩舞で詞章とされます。
1837年(天保8年)、土佐藩の庄屋に生まれた寅太郎は、当時土佐藩で盛り上がっていた尊王攘夷の機運に乗り、土佐勤王党に入党。しかし、「平野国臣」(ひらのくにおみ)の浪士放棄計画へ参加すべく、脱藩して京都へ向かった寅太郎は、1862年(文久2年)の寺田屋事件に関与して捕縛されます。この詩は、投獄のために土佐に送還された際に詠んだ詩です。大阪港から出航し、淡路島の由良港に船は着岸。捕らわれの身ながら、京都の天皇への思いを詠んだものです。
吟剣詩舞では、漢詩が詞章とされることが多いのですが、和歌を詞章とする演目もあります。
現存する最古の和歌集「万葉集」に収められた作品も、剣舞の詞章とされています。なかでも有名なのは、編纂者とされている「大伴家持」(おおとものやかもち)の長歌「陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌」に基づく「海行かば」です。この長歌は、1937年(昭和12年)には軍歌の歌詞としても有名になりました。この歌の中で、家持は大伴家の天皇に対する忠誠を詠っています。
天智天皇の皇子「志貴皇子」(しきのみこ)の作とされる和歌「石走る、垂水の上のさわらびの、もえ出づる春になりにけるかも」も、剣舞の詞章とされています。雪解け水が流れる滝のほとり、芽吹いたわらびに春の訪れを感じた喜びを詠った和歌です。
また、1086年(応徳3年)に編纂された後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)に収められ、小倉百人一首にも選ばれている有名な和歌が詞章として選ばれています。「藤原義孝」(ふじわらのよしたか)の詠んだ和歌「君がため、惜しからざりし命さへ、ながくもがなと思ひけるかな」は、切なく強い恋心について詠われたものです。
学者が詠んだ和歌も、吟剣詩舞の詞章として選ばれています。江戸時代後期の国学者「本居宣長」(もとおりのりなが)は、古典文学の研究や医師としての一面も持つ多才な人物でした。宣長の和歌「敷島の」は、自身の肖像画に書き添えられた歌で、大和心についての考えを表した歌です。
吉田松陰
同じく江戸時代の長州藩士で思想家、さらに私塾「松下村塾」(しょうかそんじゅく)での教育者としての功績で知られる「吉田松陰」作の和歌も、剣舞の演目として取り上げられています。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」という和歌で、松陰は自身の考える大和魂について表しています。
様々な漢詩、和歌と、その詩情にふさわしい剣舞を通じて、吟剣詩舞の演者達は日本人の心を伝え、継承していこうとしたのです。