三日月兼光とは、鎌倉時代末期から南北朝時代に活動した備前長船派の刀工「兼光」(かねみつ)の手による太刀で、「上杉家御手選三十五腰」(うえすぎけおてえらびさんじゅうごよう)の1振です。
上杉家御手選三十五腰とは「景勝公御手選三十五腰」とも呼ばれ、「上杉謙信」の佩刀に、米沢藩(現在の山形県)初代藩主「上杉景勝」の佩刀を加えた計35振の名刀のこと。以降、上杉家の家宝として伝来しました。なかでも三日月兼光は「上ひざう[秘蔵]」として上杉景勝が自筆で書き上げた目録28振のうちに含まれています。
三日月兼光の刃長はやや長めで、80.6cmもあり、大鋒/大切先(おおきっさき)となっているところが姿の特徴です。南北朝時代に作刀された刀剣はその大きさから、戦国時代に磨上げ(すりあげ)られたものも多くあるなかで、三日月兼光の茎(なかご)はうぶの状態を保っています。
兼光は、備州長船の出身でありながら相州伝を確立させた名匠「正宗」に師事した経歴を持つことから、備前伝に相州伝を取り入れた「相伝備前」と呼ばれる作風が特徴的。特に本太刀が作刀された延文年間には相伝備前の特色がよく表れており、三日月兼光も、小板目肌(こいためはだ)がよく詰んだ地鉄(じがね)に乱れ映り(みだれうつり)が立つなど備前物の特徴を持ちながら、地刃ともに強く沸づき、号の由来にもなった豪奢な湯走り(ゆばしり)があるなど、相州伝の特徴もよく表しています。
刃文はゆったりとした湾れを基調に、小互の目、小丁子を交え、帽子は乱れ込んで尖りごころに短く返るなど、兼光独自の作風を見ることができる他、佩表(はきおもて)には倶利伽羅龍(くりからりゅう)の彫刻が華麗に施されているのも見どころです。
「三日月」という号の由来は、刀身に現れる働き「湯走り」の形状が三日月のように見えたためとされます。
湯走りとは、刃文を形作るきらめく微粒子・沸(にえ)や匂(におい)が刃文のふち、いわゆる刃縁(はぶち)から地鉄部分まで流れ込むように現れる働き。刃縁からつながったものもありますが、「飛焼き」(とびやき)のように、刃縁から離れてポツンと島のように現れる場合もあり、本太刀にも見ることができます。
なお、太刀 銘 備州長船兼光 延文五年六月日(三日月兼光)の鑑定ランクは「特別重要刀剣」となっていますが、これは文部省から上杉家に対し「国宝」指定の打診があったものの、上杉家が断ったためで、本来であれば国宝になっていた名刀です。長らくアメリカに流出していましたが、日本に帰還し、刀剣ワールド財団で所蔵することとなりました。
三日月兼光の刃文と彫刻

刃文

倶利伽羅龍の彫刻