本短刀の号である「伏見貞宗」の由来は定かにはなっていませんが、「豊臣秀吉」に仕えて重用され、1583年(天正11年)に勃発した「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)において武功を挙げ、「賤ヶ岳の七本槍」のひとりとして高く評価されている「加藤嘉明」(かとうよしあき)の所持刀であったと伝えられています。
その後、加藤嘉明が始祖となった近江国「水口藩」(現在の滋賀県甲賀市)の歴代藩主「加藤家」に伝来。「本阿弥家」の系譜を継いで、明治時代から昭和時代にかけて活動した刀剣鑑定家「本阿弥光遜」(ほんあみこうそん)に譲渡されたあと、「黒川古文化研究所」の「黒川福三郎」(くろかわふくさぶろう:3代「黒川幸七」)の手に渡りました。
本短刀を手掛けた刀工は、刀剣の代名詞とも称される「相州正宗」の養子であり、その門人として、「藤四郎吉光」(とうしろうよしみつ)や「郷義弘」(ごうのよしひろ)、そして師である正宗と共に、「名工四工」のひとりに数えられる「貞宗」です。本短刀は、小互の目(ぐのめ)を交えて匂口(においぐち)が冴えるなど、父である相州正宗を彷彿とさせる作風を示しています。 本短刀は、貞宗の作刀の中でも屈指の出来と評され、同工の代表作としても名高い名刀です。