「正宗」(まさむね)の弟子のひとり「貞宗」(さだむね)もまた、日本刀史上に多大な影響を与えた人物として知られています。相州伝を目指した後代の刀匠たちは、貞宗を模した「貞宗写し」に取り組みました。この貞宗の下にも技術力の高い3人の弟子がおり、それが「貞宗三哲」(さだむねさんてつ)です。 貞宗の日本刀とは?そして、3人の弟子たちの作品はどのような物なのでしょうか?
1608年(慶長13年)、豊臣秀吉の子「秀頼」が、岳父(がくふ:妻の父)である「徳川秀忠」に贈った日本刀が「奈良屋貞宗」(ならやさだむね)です。当時の豊臣家と徳川家は、官位では秀頼の方が上であるものの、権力では秀忠が勝っているという非常に複雑な関係。秀頼を差し置いて秀忠が将軍の座に就いたことは、徳川家が天下に君臨することを世に知らしめる行為でした。
豊臣家から見れば、家臣だった徳川家の台頭は認めたくないことであったでしょうが、65万石の一大名でしかなくなっていた豊臣家に対し、徳川家は400万石の領地と金銀の産地、貿易港などを所有するほどの力を持っていたので、滅ぼされないように両家の関係を改善していくのが得策と考えたのではないでしょうか。
1611年(慶長16年)、京都の二条城にて、秀頼と徳川家康は対面します。このとき家康から秀頼に贈られたのが「鍋通貞宗」(なべとおしさだむね)です。立派に成長した若い秀頼と、いまだ豊臣家のために奔走する加藤清正や福島正則らの大名たち。これを見て年老いた家康は、自分が生きているうちに、本格的に豊臣家を取り潰す決意を固めたのではないかと言われています。
貞宗作は、将軍家や大名家蔵の無銘極めの名物が多いのですが、総体に落ち着いた品格と貫禄のある日本刀は、位の高い人達にとって、ここぞという大切な場面での贈り物に適していたのではないでしょうか。
沸
正宗の弟子であり、養子であるとも伝えられ、後世にその名を伝えている貞宗。国宝4点・重要文化財12点・重要美術品3点といった国の指定・認定を数多く受けている貞宗は、名匠の中の名匠と言えるでしょう。
作品の特徴として、沸(にえ)の強さは師匠である正宗と共通していますが、正宗の日本刀は実戦的で華美な作柄であるのに対し、貞宗の日本刀には豪壮さが加わり、穏健な印象を与えます。それは刃文の穏やかさと、正宗以上によく詰んだ美しい鍛え肌によるものです。
しかし、なんといっても貞宗の最大の特徴は彫刻。正宗の彫刻の多くは彫師によるものと考えられていますが、貞宗は彫刻も自身で行ない、特に梵字の美しさが冴えています。刀身彫刻の題材は密教との関係が深く、彼が儀軌(ぎき:密教での儀式の規則)に精通した教養豊かな人物であることを物語っているのです。
貞宗の弟子とされている3人の刀匠。「信国」(のぶくに)は、相州伝を色濃く受け継ぎ、「元重」(もとしげ)は、備前伝と相州伝の特徴を合わせ持ち、「国光」(くにみつ)は、相州伝とは異なる作風を持っていると言います。
では、三者三様の貞宗三哲をご紹介しましょう。
薙刀
法城寺一派は、国光を中心に南北朝時代から室町時代に但馬国で活躍しました。法城寺と言えば、薙刀(なぎなた)。しかし、磨上げ無銘で日本刀か脇差しに直された物がほとんどなので、薙刀の形状をとどめている作品は少ないようです。
薙刀と言えば、備前片山一文字も、同じように広く名前が知られており、法城寺と類似性を比較されますが、沸出来で刃中に砂流し(すながし)が目立つ物は法城寺の物と鑑定します。
ちなみに、江戸時代に入ると、薙刀術は武家に嫁ぐ婦女のたしなみになりました。元々は護身用としての意味合いが強かったのですが、武士の位を示す飾りとして、そして嫁入り道具のひとつとして、玄関の床の間に飾られていたということです。