戦国武将の生涯

足利義輝の武将年表
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足利義輝の武将年表 足利義輝の武将年表
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足利義輝

足利義輝

足利義輝(あしかがよしてる)は、わずか11歳で父・足利義晴(あしかがよしはる)から室町幕府の将軍職を引き継ぎ、13代将軍に就任した人物です。

足利義輝が生まれた時代は、8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)の跡継ぎ問題から発展し、11年にも亘って繰り広げられた応仁の乱の影響で京都は荒れ果て、幕府の権威も失墜していました。

さらにこの頃は、幕府の管領(かんれい:将軍に次ぐ最高職)職に就いていた細川家と足利家が対立。

のちに両家は和睦し、足利義輝の将軍就任も細川家より認められますが、今度は三好家や松永家らによって、その存在を脅かされ、京都を追われることになるのです。

将軍でありながら剣の道にも通じており、剣豪である塚原ト伝(つかはらぼくでん)から、奥義「一ノ太刀」(ひとつのたち)を伝授されたとも伝わる足利義輝の生涯は、力を失い、形骸化した将軍家の権威を復興させるための戦いに明け暮れ、若き将軍として、30年の短い生涯を駆け抜けました。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1536年(天文5年) 1
12代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)の嫡男として、南禅寺(現在の京都市左京区)に誕生。母は近衛尚通(このえひさみち)の娘・慶寿院(けいじゅいん)。幼名・菊童丸(きくどうまる)。
生まれてすぐに外祖父・近衛尚通の猶子(ゆうし:親類や兄弟などの子を自分の子とすること)となり、摂政関白家出身の母を持つ、初の将軍家男子となる。
1546年(天文15年) 11
7月、朝廷より賜った初名・義藤(よしふじ)を名乗る。
12月、父から室町幕府の将軍職を譲られ、将軍任命式を挙行。足利義輝の13代将軍就任が、朝廷からも認められる。
1547年(天文16年) 12
105代天皇・後奈良天皇(ごならてんのう)に拝謁。
1548年(天文17年) 13
幕府の管領細川晴元により京都から追放される。
約10日後、逃亡先の近江国・坂本(現在の滋賀県大津市)で細川晴元と和睦。京都に戻り、足利義輝の将軍職就任を細川晴元も承認。
1549年(天文18年) 14
細川晴元が江口の戦いで家臣・三好長慶(みよしながよし)に敗れ、細川政権は崩壊し、三好政権が成立。足利義晴と足利義輝は、再び京都から近江国・坂本へ退避。
1550年(天文19年) 15
父・足利義晴が死去。父が築城した中尾城(京都市左京区)において、三好長慶軍と対峙。戦局は好転せず中尾城を焼き払い、堅田(かたた:現在の滋賀県大津市)へと逃れる。
1551年(天文20年) 16
政所(まんどころ)の頭人(とうにん)である伊勢貞親(いせさだちか)が、足利義輝を京都へ連れ戻し、三好方との和睦を執り計らうが失敗。
管領代・六角定頼(ろっかくさだより)の勧めに従い、足利義輝は朽木(くつき:滋賀県高島市)に移る。
奉公衆の進士賢光(しんじかたみつ)を伊勢家の邸宅に潜入させ、三好長慶の暗殺を企てるも失敗。三好長慶に抵抗していた、三好政勝(みよしまさかつ)ら幕府軍が京都奪回を図るも、松永久秀(まつながひさひで)と弟・松永長頼(まつながながより)によって討ち破られる。
1552年(天文21年) 17
六角定頼が急死したことにより、和解の空気が生まれて三好長慶と和睦。京都へ戻る。
1553年(天文22年) 18
閏1月、足利義輝の側近である上野信孝(うえののぶたか)ら奉公衆が、三好長慶を排除すべく細川晴元と通じる。
2月、伊勢貞孝が上野信孝らの追放を諌言。足利義晴や足利義輝に長年従ってきた、大舘晴光(おおだちはるみつ)や朽木稙綱(くつきたねつな)もそれに賛同。3月、足利義輝自身が三好長慶との和約を破棄。
1554年(天文23年) 19
初名・義藤から義輝へ改名。
1558年(弘治4年/
永禄元年)
23
5月、六角義賢(ろっかくよしかた)の支援を受け、細川晴元と共に坂本へ移住。6月、幕府軍は如意ヶ嶽(にょいがたけ:京都市左京区)に布陣。三好長慶の従叔父・三好長逸(みよしながやす)と北白川で討ち合う。
11月、六角義賢の仲介で三好長慶との和議を成立。5年ぶりの入洛が叶い、御所で幕政を再開。12月、近衛植家(このえたねいえ)の娘を正室に迎える。
1559年(永禄2年) 24
大友義鎮(おおともよししげ:のちの大友宗麟[おおともそうりん])を九州探題に任命。
1561年(永禄4年) 26
武田信玄に敗れ、上方へ亡命した信濃国(現在の長野県)の守護・小笠原長時(おがさわらながとき)に帰国を命じ、信濃出兵の支援に当たらせる。
上杉景虎(うえすぎかげとら:のちの上杉謙信)の関東管領就任を許可。拡充した御相伴衆(ごしょうばんしゅう)に、毛利元就(もうりもとなり)などを任命。
1564年(永禄7年) 29
三好長慶が病没したことを機に、幕府権力を復活させるため、精力的に政治活動を行う。
1565年(永禄8年) 30
5月、松永久通(まつながひさみち)と三好三人衆が、主君・三好義継(みよしよしつぐ)と共に、約10,000人の軍勢を率いて二条御所に侵入。足利義輝は、自ら薙刀や刀を抜いて応戦するも討死。進士晴舎(しんじはるいえ)などの奉公衆も討死や自害。慶寿院や側室・小侍従殿(こじじゅうどの)も殺害される。

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本多忠政の武将年表

本多忠政の武将年表
本多忠政 本多忠政は、江戸時代最強の武将「本多忠勝」の長男です。 本多忠政も勇猛で、名物「塩川来国光」や刀「桑名江」を愛刀とし、1614年(慶長19年)~1615年(慶長20年)にかけて行われた「大坂の陣」では、敵首292を獲るほど活躍。 桑名藩(現在の三重県)10万石、姫路藩(現在の兵庫県)15万石に移封して藩主を務めました。 子供は5人(三男、二女)。 長男はイケメンで有名な「本多忠刻」で、「千姫」と結婚した際に、父とは別途、姫路に10万石を受領。次男「本多政朝」(ほんだまさとも)も播磨龍野5万石を領し、娘婿「小笠原忠真」も明石10万石を領したため、本多忠政の時代には、本多宗家は実質40万石の大大名でした。 本多忠政は1631年(寛永8年)に56歳で病死。 長男・本多忠刻とその子「幸千代」も死去していたため、家督は次男・本多政朝が継いでいます。

本多忠政の武将年表

池田輝政の武将・歴史人年表

池田輝政の武将・歴史人年表
池田輝政 「池田輝政」(いけだてるまさ)は1564年(永禄7年)に、「織田信長」の重臣「池田恒興」(いけだつねおき)の次男として、尾張国・清洲(現在の愛知県清須市)で誕生。 元服後、池田輝政は、「織田信長」のもとで近習(きんじゅ:主君の側近くに仕える者)となって働いています。 1579年(天正7年)、織田信長の家臣を務めていた「荒木村重」(あらきむらしげ)が反旗を翻し、「有岡城の戦い」(ありおかじょうのたたかい)が勃発。同合戦に池田輝政は、父と共に参戦しています。 その翌年に、荒木村重が「花隈城」(はなくまじょう:神戸市中央区)に籠ったことで始まった「花隈城の戦い」において池田輝政は、荒木軍の武士5~6人を自身で討ち取ったことが高く評価され、織田信長より感状を授けられました。 そのあと、1582年(天正10年)の「本能寺の変」によって主君・織田信長が亡くなると、池田輝政は、「豊臣秀吉」に仕えることに。 「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)や「九州平定」(別称[九州征伐])、「小田原の役」(別称[小田原征伐])など、豊臣秀吉による主要な合戦の大半に参陣し、武功を重ねていったのです。 1600年(慶長5年)に起こった「関ヶ原の戦い」において池田輝政は、「徳川家康」率いる東軍に従軍。同合戦での活躍によって池田輝政は、播磨国・姫路(現在の兵庫県姫路市)52万石を賜り、姫路藩初代藩主となったのです。 そして池田輝政は、1601年(慶長6年)より8年の歳月を掛けて、姫路城の大規模な改修を行いました。現在観られる姫路城の姿は、この大改修によってできあがったと考えられています。こうして池田輝政は、姫路藩における藩政の基礎を築き上げ、「西国の将軍」と称されるようになったのです。

池田輝政の武将・歴史人年表

北条氏政の武将年表

北条氏政の武将年表
北条氏政 北条氏政は、相模国小田原(現在の神奈川県小田原市)を中心とした関東地方において、一大勢力を誇っていた戦国大名「後北条氏」(ごほうじょうし)の4代当主。 鎌倉時代に執権として実権を握っていた「北条氏」と区別するため、小田原の北条氏は後北条氏と呼ばれています。 北条氏政は、父「北条氏康」(ほうじょううじやす)の存命中に、その家督を相続。 父の補佐を受けながら、歴代の後北条氏当主の中で最大となる版図を広げる活躍を見せます。 しかし、天下統一を叶えるために奮起していた「豊臣秀吉」により、後北条氏の本拠であった「小田原城」(神奈川県小田原市)が攻め落とされたため、同氏は滅亡することとなりました。

北条氏政の武将年表

松永久秀の武将・歴史人年表

松永久秀の武将・歴史人年表
松永久秀 「松永久秀」(まつながひさひで)は、その出自に不明な点が多く、山城国(現在の京都府南部)、もしくは摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)出身であったと伝えられています。 当初は摂津国守護代「三好長慶」(みよしながよし)のもとで、右筆(ゆうひつ:文書や記録の作成を司った役職)として仕えていました。 そのあと、松永久秀は「弾正忠」(だんじょうちゅう)に任官し、和泉国(大阪府南西部)の堺代官を務めていたのです。 1559年(永禄2年)、大和国(現在の奈良県)に入った松永久秀は、「筒井順慶」(つついじゅんけい)が拠点としていた「筒井城」(奈良県大和郡山市)を陥落。翌年には「興福寺」(奈良県奈良市)勢力を破り、大和国を平定しました。 これ以降、同国において松永久秀は、「多聞山城」(たもんやまじょう:奈良県奈良市)や「信貴山城」(しぎさんじょう:奈良県生駒郡)などを築きます。 そして、松永久秀は「三好氏」の家老となって権勢を振るい、大和国を支配するようになったのです。 さらに松永久秀は、主君・三好長慶が1564年(永禄7年)に亡くなると、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)を殺害。 大和国を含む畿内にまで、その実権が及ぶ範囲を拡大しました。1567年(永禄10年)には、三好氏を主導していた「三好三人衆」、及び筒井順慶軍との間で「東大寺大仏殿の戦い」が勃発。 松永久秀は同合戦に勝利しますが、同寺の大仏殿は焼失してしまいました。そのあと、松永久秀は、上洛してきた織田信長の家臣となりますが、1572年(元亀3年)に謀反を起こし、15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)が統率していた「信長包囲網」に加わります。 しかし、1577年(天正5年)の「信貴山城の戦い」で、松永久秀は織田軍に追い詰められ、同城に火を放って自害。68歳で亡くなってしまったのです。

松永久秀の武将・歴史人年表

明智光秀の武将年表

明智光秀の武将年表
明智光秀の生涯を歴史年表でご紹介します。明智光秀の出自については、史実が残っておらず、諸説がいくつもあります。明智光秀の死後、江戸時代中期に書かれた「明智軍記」によれば、美濃の守護であった土岐氏(源氏)の一族であると記されていました。 また、「明智氏一族城家相伝系図書」では、明智光秀の母「牧」の妹は、斉藤道三に嫁いだ「小見の方」で、その娘、濃姫(織田信長の正室)と明智光秀は、いとこ同士ということとなっています。ただし、これも通説の域で、確かなものではありません。 明智光秀が主人公である大河ドラマ「麒麟がくる」では、この説を取り上げており、この歴史年表でも明智光秀が土岐一族の分家だという説を採用しました。生誕も1528年(享禄元年)として明智光秀の歴史年表をまとめております。

明智光秀の武将年表

朝倉義景の武将年表

朝倉義景の武将年表
朝倉義景 朝倉義景(あさくらよしかげ)は、越前国(現在の福井県北東部)の守護大名です。 朝倉家の最盛期に生まれ、父・朝倉孝景が没すると、わずか16歳の頃に同家の当主となります。 当初は朝倉家が代々頭を悩まされていた、加賀国(現在の石川県南部)における一向一揆(いっこういっき)の征伐に明け暮れていた朝倉義景。 そのあと一向一揆との和睦を結ぶと、室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の上洛が契機となり、やがて織田信長と対立するように。 反織田信長連合、いわゆる「信長包囲網」の一員として織田勢を相手に奮戦するも朝倉家の重臣・朝倉景鏡(あさくらかげあきら)が織田方に寝返ったことで、41歳の若さで非業の死を遂げました。 そんな朝倉義景は武将のみならず文化人の側面があったことでも知られていた人物。自身の居城・一乗谷城(いちじょうだにじょう:福井県福井市)の城下町に、洗練された京風文化を積極的に取り入れ、往時の繁栄ぶりから現在では「北陸の小京都」と称されています。

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土岐頼芸の武将年表

土岐頼芸の武将年表
土岐頼芸 「土岐頼芸」(ときよりのり)は、群雄割拠の戦国時代において、下剋上の世に翻弄された武将のひとりです。 美濃国(現在の岐阜県)守護「土岐政房」(ときまさふさ)の次男として生まれ、実兄の「土岐頼武」(ときよりたけ)と守護の座を争い、幾度も交戦。 兄に勝利し美濃国守護に就任するも束の間、家臣に裏切られやがて美濃国を追われます。裏切った家臣は、「美濃の蝮」と恐れられた「斎藤道三」(さいとうどうさん)です。 美濃国を追われた土岐頼芸は流浪の身となり、身を寄せていた甲斐国(現在の山梨県)で「織田信長」に捕らえられ、尾張国にて蟄居。 最後は旧臣「稲葉一鉄」(いなばいってつ)の計らいで、美濃国に戻り、81歳で生涯を終えました。土岐頼芸は、和歌や鷹の絵を得意とした文武両道の人物だったと伝えられています。

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那須与一の武将年表

那須与一の武将年表
那須与一 平安時代末期より活躍し鎌倉幕府の御家人(ごけにん)であった那須与一(なすのよいち)は、武勇に優れ、なかでも弓術において卓越した才能を持っていたことから、「弓の名手」として知られている武将です。 源氏と平氏が覇権争いを繰り広げた「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん:いわゆる[源平合戦])における戦いのひとつ、「屋島の戦い」(やしまのたたかい)では源氏軍に属し、平氏軍から仕掛けられた挑発とも言える「扇の的」(おうぎのまと)を、その弓術の才能を活かして矢で射落とした伝説が今もなお語り継がれています。 しかし、この伝説は鎌倉時代の軍記物語を代表する「平家物語」や「源平盛衰記」に記されているのみで、「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ)など、同時代に成立した歴史書には登場しておらず、その真偽は不明です。 同様に那須与一の生涯についても判然としない部分が多いため、こちらの年表には平家物語などから現在分かっている事柄のみ掲載しています。

那須与一の武将年表

島津豊久の武将年表

島津豊久の武将年表
島津豊久 島津豊久(しまづとよひさ)は、戦国大名であった島津家が、薩摩国(現在の鹿児島県西部)を統一した年に当たる1570年(永禄13年/元亀元年)に生まれました。 戦上手として知られた島津家久(しまづいえひさ)を父に持ち、元服前から武人として育てられ、かなりの美少年であったとも伝えられています。 豊臣秀吉が命じた朝鮮出兵で、出陣に二の足を踏んでいた島津家中における他の武士達をよそに、目覚ましい活躍を見せたのが島津豊久でした。いくつもの合戦において先陣を切り、誰よりも早く敵陣に旗を立てていたのです。 その一方で関ヶ原の戦いでは、のちに「島津の退き口」(しまづののきぐち)と称される作戦において、自軍の大将のみを戦場から脱出させる、「捨て奸」(すてがまり)と呼ばれる撤退戦術を考案するなど、前に出るだけではない作戦を遂行する武将でもありました。 関ヶ原の戦い後、徳川家康が西軍に属していた島津家を処罰しなかったのは、これら捨て身の戦を見て警戒したためだとも言われています。

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