足利義輝
足利義輝(あしかがよしてる)は、わずか11歳で父・足利義晴(あしかがよしはる)から室町幕府の将軍職を引き継ぎ、13代将軍に就任した人物です。
足利義輝が生まれた時代は、8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)の跡継ぎ問題から発展し、11年にも亘って繰り広げられた応仁の乱の影響で京都は荒れ果て、幕府の権威も失墜していました。
さらにこの頃は、幕府の管領(かんれい:将軍に次ぐ最高職)職に就いていた細川家と足利家が対立。
のちに両家は和睦し、足利義輝の将軍就任も細川家より認められますが、今度は三好家や松永家らによって、その存在を脅かされ、京都を追われることになるのです。
将軍でありながら剣の道にも通じており、剣豪である塚原ト伝(つかはらぼくでん)から、奥義「一ノ太刀」(ひとつのたち)を伝授されたとも伝わる足利義輝の生涯は、力を失い、形骸化した将軍家の権威を復興させるための戦いに明け暮れ、若き将軍として、30年の短い生涯を駆け抜けました。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1536年(天文5年) | 1歳 | |
1546年(天文15年) | 11歳 | |
1547年(天文16年) | 12歳 |
105代天皇・後奈良天皇(ごならてんのう)に拝謁。
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1548年(天文17年) | 13歳 | |
1549年(天文18年) | 14歳 |
細川晴元が江口の戦いで家臣・三好長慶(みよしながよし)に敗れ、細川政権は崩壊し、三好政権が成立。足利義晴と足利義輝は、再び京都から近江国・坂本へ退避。
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1550年(天文19年) | 15歳 |
父・足利義晴が死去。父が築城した中尾城(京都市左京区)において、三好長慶軍と対峙。戦局は好転せず中尾城を焼き払い、堅田(かたた:現在の滋賀県大津市)へと逃れる。
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1551年(天文20年) | 16歳 | |
1552年(天文21年) | 17歳 |
六角定頼が急死したことにより、和解の空気が生まれて三好長慶と和睦。京都へ戻る。
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1553年(天文22年) | 18歳 |
閏1月、足利義輝の側近である上野信孝(うえののぶたか)ら奉公衆が、三好長慶を排除すべく細川晴元と通じる。
2月、伊勢貞孝が上野信孝らの追放を諌言。足利義晴や足利義輝に長年従ってきた、大舘晴光(おおだちはるみつ)や朽木稙綱(くつきたねつな)もそれに賛同。3月、足利義輝自身が三好長慶との和約を破棄。 |
1554年(天文23年) | 19歳 |
初名・義藤から義輝へ改名。
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1558年(弘治4年/ 永禄元年) |
23歳 |
5月、六角義賢(ろっかくよしかた)の支援を受け、細川晴元と共に坂本へ移住。6月、幕府軍は如意ヶ嶽(にょいがたけ:京都市左京区)に布陣。三好長慶の従叔父・三好長逸(みよしながやす)と北白川で討ち合う。
11月、六角義賢の仲介で三好長慶との和議を成立。5年ぶりの入洛が叶い、御所で幕政を再開。12月、近衛植家(このえたねいえ)の娘を正室に迎える。 |
1559年(永禄2年) | 24歳 |
大友義鎮(おおともよししげ:のちの大友宗麟[おおともそうりん])を九州探題に任命。
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1561年(永禄4年) | 26歳 | |
1564年(永禄7年) | 29歳 |
三好長慶が病没したことを機に、幕府権力を復活させるため、精力的に政治活動を行う。
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1565年(永禄8年) | 30歳 |
5月、松永久通(まつながひさみち)と三好三人衆が、主君・三好義継(みよしよしつぐ)と共に、約10,000人の軍勢を率いて二条御所に侵入。足利義輝は、自ら薙刀や刀を抜いて応戦するも討死。進士晴舎(しんじはるいえ)などの奉公衆も討死や自害。慶寿院や側室・小侍従殿(こじじゅうどの)も殺害される。
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