今川義元
今川義元(いまがわよしもと)は、「海道一の弓取り」と呼ばれた駿河国(現在の静岡県中部、北東部)の大名。
「海道一の弓取り」とは、「東海道一の武将」を意味し、軍事にとても長けていた人物です。幼少期には、お寺に入門し勉学に励んでいたことから学識も豊か。
さらには、「寄親・寄子」(よりおや・よりこ)の制度を設けたり、周辺大名と交渉を行ったりするなど、政治・外交の才も有していました。
今川家は、もともと足利将軍家一門の吉良の分家で、今川義元の手腕によって大きく発展。今川義元が同家の当主となってからは、駿河国に加えて、遠江国(現在の静岡県西部)、三河国(現在の愛知県東部)などを治めるようになります。
その間、武田家、及び北条家と三国同盟を結びながら、たびたび尾張国(現在の愛知県西部)の織田家と戦いました。しかし最終的には、桶狭間の戦いにおいて、織田信長の強襲を受けて亡くなってしまいます。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1519年(永正16年) | 1歳 |
今川氏親の五男として、駿河国で誕生。
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1522年(大永2年) | 4歳 |
太原雪斎(たいげんせっさい)に預けられ、京都建仁寺、妙心寺で臨済禅を学ぶ。
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1536年(天文5年) | 18歳 |
兄・今川氏輝が急死し、その同日に弟・今川彦五郎も死去。
花倉の乱ののち、今川家当主となる。 |
1537年(天文6年) | 19歳 |
武田信虎の長女・定恵院を正室に迎えて、武田家と同盟を結ぶ。
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1540年(天文9年) | 22歳 |
三河に侵攻してきた織田信秀を迎え撃つため、援軍を送る。
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1542年(天文11年) | 24歳 |
第一次小豆坂の戦いで織田軍と衝突。
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1545年(天文14年) | 27歳 |
上杉憲政と同盟を結び、北条家を包囲。北条家が占領する富士川以東を返還する条件で和睦する。
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1548年(天文17年) | 30歳 | |
1550年(天文19年) | 32歳 |
正室・定恵院が亡くなり、武田家との婚姻関係が一時的に途切れる。
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1552年(天文21年) | 34歳 |
長女・嶺松院を武田晴信(のちの武田信玄)の子・武田義信に嫁がせる。
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1553年(天文22年) | 35歳 |
「仮名目録追加」を制定。「寄親・寄子」の制度を創設。
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1554年(天文23年) | 36歳 | |
1555年(天文24年/ 弘治元年) |
37歳 |
軍師・太原雪斎を失う。
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1560年(永禄3年) | 42歳 |