鬼退治の物語は、子どもに読み聞かせる定番の昔話のひとつ。すでに室町時代には鬼退治の話が存在しましたが、そのうちのひとつが「酒呑童子」(しゅてんどうじ)です。今回は、物語に登場する、酒呑童子退治に佩刀した刀である「岩切」(いわきり)と、その持ち主「藤原保昌」(ふじわらのやすまさ)について紹介します。
藤原保昌
平安時代中期の貴族であった藤原保昌。のちに摂津国(大阪府北中部と兵庫県南東部)を治め、摂津国平井の地に居を構えたことから「平井保昌」(ひらいやすまさ)とも呼ばれています。
武勇に秀でていて、その実力は時の権力者であった、「藤原道長」(ふじわらのみちなが)が特別に取り立てたと言う「道長四天王」(みちながしてんのう)のひとりに名を連ねるほどでした。
その力量は「今昔物語集」(こんじゃくものがたりしゅう)にも説話として残されています。
優れた武人である一方、歌人でもあった藤原保昌は、「白河天皇」(しらかわてんのう)の勅命で編纂された「後拾遺和歌集」(ごしゅういわかしゅう)にも和歌が収録されるほどの実力者でした。またこの歌集には、女流歌人であった藤原保昌の妻「和泉式部」(いずみしきぶ)の作品も多数収められています。
「御伽草子」(おとぎぞうし)は、室町時代から江戸時代初期にかけて成立した短編物語です。
物語の数はおよそ300編にものぼり、写本や絵巻物など様々な形で伝わってきましたが、江戸時代に、大阪の「渋川清右衛門」(しぶかわせいえもん)がそのうちの23編を集めた物を「御伽文庫」と名付けて発行しました。
その作品を「御伽草子」と呼んだことから、この呼称が定着したのです。子ども向けの内容であり、教訓的、啓蒙的な空想の物語が多く残っています。
御伽文庫には、日本の昔話として有名な「浦島太郎」や「一寸法師」も収録されていますが、それらとともに収められているのが、藤原保昌が登場する「酒呑童子」の話です。「酒呑童子」は現代でも、日本を代表する鬼退治の物語として絵本になり語り継がれています。
物語の名前にある酒呑童子は、丹波国(京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)の大江山(京都府北西部)に住んでいた、大きく強い鬼の名前でした。
酒呑童子は、都にきては容姿端麗な若い女性をさらっていくので、人々は嘆き悲しむ日々を送ります。そんななか、帝の寵愛を受けている池田中納言国賢(いけだのちゅうなごんくにたか)の姫が、夜中に突然いなくなってしまいました。
池田中納言国賢が陰陽師(おんみょうじ)である「安倍晴明」(あべのせいめい)に依頼し、七日七晩祈祷を行なって占ってもらったところ、「姫は大江山にいます。今はまだ、命に別状はありません。姫はきっと帰ってくるでしょう」と言われました。池田中納言国賢は、鬼の所在を帝に報告しましたが、他の大臣達も集まり意見がまとまりません。
ある大臣がこう言いました。
「嵯峨天皇[さがてんのう]の御代にも、同じようなことがありました。当時は弘法大師[こうぼうだいし:空海]が祈願して鬼を封じましたが、今はそのように霊験[れいげん/れいけん:人の祈請に応じて神仏などが示す霊妙不可思議な力]あらたかな僧はいません。ここは、鬼も恐れる勇猛な武将である源頼光[みなもとのよりみつ]を遣わせて攻めるといいでしょう」。
そうして源頼光をはじめ、藤原保昌、「碓井貞光」(うすいさだみつ)、「卜部季武」(うらべのすえたけ)、「渡辺綱」(わたなべのつな)、「坂田公時」(さかたのきんとき)と言う6人の武将が集められました。
源頼光達は、鬼に気付かれないよう山伏(やまぶし:山野に寝起きする修行僧)に変装し、甲冑や刀剣は背中の笈(おい:山伏が背負う箱)に隠して大江山に向かいます。
道中、源頼光達は3人の老人に出会うのですが、その者達も酒呑童子に妻子をさらわれ、敵を取りたいと願っていたのです。
老人達は道案内を引き受け、さらに鬼を酔わせる毒酒を持たせてくれました。川にさしかかったところで、今度は血の付いた着物を洗うひとりの娘に出会いました。
それは酒呑童子に捕らえられた娘で、鬼に食べられた他の娘の服を洗いながら、明日は我が身と怯えていたのでした。源頼光達が鬼退治にきたことを伝えると、娘はみずから鬼のいる場所を教え、「酒呑童子はいつも酒を飲むので、酔って寝ているところを見計らえば、きっと鬼は討たれるでしょう」と言いました。
ついに門の前まで来た源頼光達は、道に迷った山伏のふりをして扉を叩きます。何も知らない酒呑童子とその子分は、「この山伏達を油断させて食べてやろう」と目論み、屋敷に招き入れて酒や肉を振る舞い、女達を従わせて、もてなしました。
源頼光はその厚意の礼にと、持参した毒酒を振る舞います。酒を酌み交わすうちに、酒呑童子はこの山伏達が都で名を馳せる源頼光達に似ていることに気が付きますが、源頼光は上手くごまかして、さらに酒を勧めたため、酒呑童子達は酔いつぶれて寝てしまいました。
源頼光達は、鉄の鎖で酒呑童子の手足を柱に繋ぎ止めて討ち取り、池田中納言国賢の姫も無事に都へ帰ることができました。
岩切
物語の中で「岩切」は、藤原保昌の佩刀として下記のように登場します。
源頼光は、笈の中に緋色の糸や革で札を綴った緋縅(ひおどし)の腹巻と、獅子王と言う兜(かぶと)、2尺1寸の刀・血吸(ちすい)を入れました。
藤原保昌は紫縅(むらさきおどし)の腹巻に同じ毛の兜を添え、岩切と言う2尺ほどの小長刀(こなぎなた)の柄を3束ほどに短くして打刀(うちがたな:目標物を断ち切ったり、刺し突きしたりするための道具)に変え、笈に入れました。
岩切の姿形は、比較的具体的に描写されていますが、酒呑童子を含め御伽草子の数々は作者不詳である物が多いため、本の編者によって手が加えられ、筋書きや表現にも違いがあります。
岩切も「石割」や「石はり」と記す物、表記が同じで「いはきり」と読む物、その姿形にはバリエーションがあり、文献によって記述は異なります。
祇園祭の山鉾「保昌山」
藤原保昌は、ユネスコ無形文化遺産でもある祇園祭(ぎおんまつり)にも登場します。
山鉾(やまぼこ)のひとつである「保昌山」(ほうしょうやま)は、藤原保昌が和泉式部への愛情を証明するために、京都御所の中にある紫宸殿(ししんでん)の紅梅を手折り、捧げるシーンがモチーフです。
和泉式部は恋多き女性だったとされていますが、最後に夫婦として連れ添ったのは藤原保昌でした。八坂神社には、恋愛成就を祈願する絵馬を下げていて、縁結びのご利益があると言われています。
残念ながら岩切は存在しませんが、御伽草子は挿絵の入った本で、酒呑童子は浮世絵の題材としてもよく取り上げられているため、その雄姿は絵の世界で堪能することができそうです。