「天下五剣」(てんがごけん)の1振に数えられる、太刀「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)を作刀したのは、平安時代の刀工「大原安綱」(おおはらやすつな)です。「童子切」という号は、「源頼光」(みなもとのよりみつ)が「酒呑童子」(しゅてんどうじ)という鬼を切った伝説に由来しています。数ある日本刀の中でも特に名刀と言われた天下五剣の中でも最も古いことから、特別な地位を確立している名刀中の名刀。今回はそんな童子切安綱について、ご紹介していきます。
様々な「名刀」と謳われる刀剣を詳しくご紹介します。
源頼光
刀剣の魅力は、芸術性の高さや切れ味の鋭さはもちろんのこと、関連する逸話の面白さにもあります。童子切安綱にまつわる逸話は、剣豪や妖怪、神様の登場するロマンあふれる話ばかりです。
もっとも有名なのは、なんと言っても酒呑童子を討伐した逸話。「童子切」という号は、この鬼退治の伝説に由来しています。
平安時代、京では「酒呑童子」という名の鬼とその手下の鬼達が、人をさらうなどの悪事を働いていました。時の帝より酒呑童子討伐の命を受けたのが、化け物退治で名を馳せた武将「源頼光」(みなもとのよりみつ)です。
源頼光は、酒呑童子の根城に忍びこむと、持ってきた酒を鬼達に振る舞う宴会を始めました。酒には毒が仕込んであったため、それを飲んだ酒呑童子と鬼達は身動きができなくなってしまいます。
この隙に、源頼光は持っていた日本刀で酒呑童子と鬼達に次々ととどめを刺しました。ここで酒呑童子の首を切ったので、この刀は童子切と名付けられた訳です。なお、童子切と名付けられる前は、「血吸」(ちすい)という、まるで妖刀のような不吉な名前でした。
足利義輝
童子切安綱が実戦の場に持ち出されたという逸話があります。
1565年(永禄8年)、「永禄の変」(えいろくのへん)が起こり、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)は京の二条城で大軍に包囲されました。
足利義輝は、剣豪達に師事して剣術を修めたことから、「剣豪将軍」と呼ばれた豪傑。これまで集めた童子切安綱を含む数々の名刀を持ち出して、城内に侵入してくる敵を迎え討ったのです。
収集していた日本刀を畳に突き刺した足利義輝は、敵を斬って刀の切れ味が落ちるたび、刀を取り替えて応戦し、敵を30人以上も討ち取ったと言われています。しかし、多勢に無勢、足利義輝は最終的に大勢の敵に囲まれると、四方から槍で突かれて討ち取られてしまいました。
このとき、童子切安綱は実戦の場に持ち出されたと伝わっていますが、実際に使用されたかどうか、詳細は不明です。
童子切安綱は、不思議な存在と縁の深い日本刀で、鬼だけでなく狐にまつわる逸話もあります。
江戸時代、童子切安綱は津山藩(現在の岡山県津山市)の松平家で保管されていました。松平家から童子切安綱の錆落としを依頼されたのは、刀の鑑定や研磨などを家業とする一族「本阿弥家」(ほんあみけ)。すると、童子切安綱を預かっていた本阿弥家で、狐の行列や狐火といった狐にまつわる不思議な現象が次々と起きたのです。
あるとき、本阿弥家の屋根の上に白い狐があらわれました。本阿弥家の者が家の外でその狐を見付けると、狐は苦しそうに悶えてなにかを訴えかけているようです。
本阿弥家の者は「これはただごとではない」と察知して、童子切安綱を保管してある部屋に急いで向かうと、部屋は火事になっていました。童子切安綱を安全な場所へ移すと、白い狐は一鳴きして消え去ったとのこと。狐は、童子切安綱の守護者だったのかもしれません。
江戸時代、日本刀の切れ味を検証するために「試し切り」が行なわれていました。罪人の遺体を積み重ねて、何体を両断できるかで刀の切れ味を確かめたのです。
童子切安綱の試し切りは、津山藩の松平家で行なわれました。試し切り役「町田長太夫」(まちだちょうだゆう)が積み上げられた遺体に童子切安綱を振り下ろすと、その刃は6体の遺体を両断したうえに、遺体の下にあった台座まで切り裂いたと言われています。
童子切安綱は、これまで多くの所有者達のもとを渡ってきました。豊臣家、松平家、村山寛二、渡辺三郎などです。
所有者達と童子切安綱が、どうかかわったのかをご紹介していきます。
松平忠直
豊臣家滅亡後、童子切安綱は徳川家の所持物となりました。
2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)は、娘の「勝姫」(かつひめ)が越前国(現在の福井県)藩主「松平忠直」(まつだいらただなお)に嫁ぐ際、松平家に童子切安綱を贈っています。
松平家の所持物となった童子切安綱は、そこで不思議な力を発揮しました。勝姫の子「松平光長」(まつだいらみつなが)が生まれて間もないときのこと。夜泣きの収まらない松平光長の枕元に童子切安綱を置くと、夜泣きがぴたりと止んだというのです。童子安綱切が、松平光長に取り憑いた何かを、追い払ったのかもしれません。
1945年(昭和20年)頃、松平家は童子切安綱を手放しました。それから童子切安綱は、ある裁判に巻きこまれます。
ことの発端は、「村山寛二」(むらやまかんじ)という愛刀家が、せっかく手に入れた童子切安綱を担保にして借金をしたことです。村山寛二から担保として童子切安綱を預かったのは「渡辺三郎」(わたなべさぶろう)という愛刀家でしたが、預かった直後に渡辺三郎が亡くなります。その後、童子切安綱の所有権をめぐって村山寛二と渡辺三郎の遺族の間で争奪戦が起こり、裁判にまで発展したのです。
しかし、裁判は最高裁までもつれたのち、意外な結末を迎えました。現在の文化庁の前身である「文化財保護委員会」が介入し、村山寛二と渡辺三郎の遺族に2,600万円を払って童子切安綱を買い上げたのです。そして、童子切安綱は文化財保護委員会により、東京国立博物館に移されることになったのでした。
1951年(昭和26年)には、国宝に指定。現在、童子切安綱は東京国立博物館に収蔵されており、展示会があると多くの刀剣ファンが集うほど、その人気は高いのです。
東京国立博物館
童子切安綱が収蔵されている東京国立博物館は、1872年(明治5年)に創設された国内で最も古い博物館のひとつです。
東京の上野公園内にあり、童子切安綱の展示会がたびたび行なわれています。
刀剣展示をしている博物館・美術館についてご紹介!
童子切安綱の基本情報
刃長80.2cm、反り2.7cm、元幅2.9cm、先幅2.0cm、鋒/切先の長さ3.1cmで、強い反りと幅の広い刀身が童子切安綱の姿の特徴です。
短めの鋒/切先は、平安時代後期から鎌倉時代初期に作られた太刀の傾向が表れています。
鋒/切先の種類
刃文は、小さな波状の線が続く小乱れ。鋒/切先に向かって伸びており、金筋が刃の美しさを際立たせています。
「帽子」(ぼうし)は、表面が「小丸」(こまる)で、裏面が「掃掛」(はきかけ)。小丸とは鋒/切先で小さな弧を描く刃文のことで、掃掛とは焼刃の頭から地に向かって、ホウキで掃いたような筋が出ている刃文のことです。
刃文の種類
拵は、鞘(さや)の上部の紐と柄糸を巻き締めた「糸巻拵」(いとまきこしらえ)で、鞘部分は表面に漆を塗ったあとに金を蒔いた「金梨地」(きんなしじ)です。
拵は、安土桃山時代に作られた物。もとの拵がどんな物であったか、詳細は明らかではありません。