幕末、14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)のもとに降嫁する「皇女和宮」(こうじょかずのみや)の嫁入り行列が通り、新撰組の前身の浪士隊が江戸から京の都をめざした中山道。69次ある宿場のうち、江戸から数えて43番目にあたるのが、岐阜県中津川市の「馬籠宿」(まごめじゅく)です。ここは、文豪「島崎藤村」ゆかりの地としても知られ、自伝的小説【夜明け前】の舞台になった宿場町でもあります。
江戸時代は多くの人が行き交う街道として利用され、明治以降は忘れ去られた道となっていましたが、多くの文化人が刻んだ歴史と文化はしっかりと受け継がれ、馬籠は世界の旅人が訪れる場所になりました。旅人を惹き付けてやまない馬籠宿、その特徴と人気スポットを、島崎藤村の作品と共にご紹介します。
馬籠宿
妻籠宿(つまごじゅく)を過ぎ、馬籠峠を越えると、中山道は長野県から岐阜県に入ります。
中山道、木曽十一宿の最も南の宿場が「馬籠宿」(まごめじゅく)です。
標高801mの馬籠峠から馬籠宿に向かって少し歩くと、南に木曽山脈の高峰・恵那山、西に濃尾平野が一望できる展望台があります。ここから先は、雄大な自然と眼下に馬籠宿を望みながらの下り坂。
島崎藤村の名著【夜明け前】の書き出しに、「木曽路はすべて山の中である」という言葉があります。この一文の通り、馬籠宿は山里の村にありますが、他にはない風光明媚な宿場町であることも間違いありません。
一方で、急な山の尾根に沿っていることから水に恵まれず、昔は火災が多かったという記録もあります。実際に明治、大正の火災によって殆どの建物が焼失しましたが、その後復元されました。
町並みは比較的新しい印象もありますが、急斜面に石垣を築いて建てられた屋敷、石畳の通り沿いには格子のある旅館や民宿、茶屋、民芸品店などが軒を連ね、現代でも古人の見た風景を垣間見ることができます。
馬籠宿の下入り口から少し坂を上ると、急な坂道が2度直角に折れ曲がっていますが、これは江戸時代、徳川幕府が敵の侵入を阻むために設置した「桝形」(ますがた)という造り。
城郭建築の際にも使われる様式で、道に角度を付け石垣を組んで囲ったところをそう呼びます。
極端に曲げられた街道は、賊などが押し入った際はそこに追い込み、先回りしていた援軍と挟み撃ちにするという仕組みです。防御施設の役割を果たしていた桝形は、どの宿場町にもありましたが、このような傾斜地に設けられたのは馬籠宿だけでした。
1880年(明治13年)、明治天皇の行幸に随行した岩倉具視の乗った人力車がここの桝形を曲がりきれず、民家に追突したという逸話も。なお、桝形の脇には水車があり、美しい水と水車が回るときの音色、心安らぐ光景は馬籠宿のシンボルとなっています。
藤村記念館
「藤村記念館」は、明治から昭和にかけて日本文学を支えた文豪・島崎藤村の生家の跡地に建てられた文学館です。
歴史や国語の教科書にも登場する島崎藤村は、1872年(明治5年)に本陣、庄屋、問屋を務める島崎家の4男として生まれ、学問のため9歳で上京するまで暮らしていました。
生家は、馬籠宿の本陣としても機能していましたが、1895年(明治28年)の大火により焼失。
1947年(昭和22年)には、「馬籠に地元出身の文豪を記念する物を」という地元民達の熱意によって、藤村記念館を建設。
その後、1950年(昭和25年)には、博物館運営のための財団法人「藤村記念郷」を設立し、展示施設「藤村記念文庫」が完成。1952年(昭和27年)に、島崎藤村の長男より多数の資料の寄贈を受け、文学館がオープンしました。
藤村記念堂や、島崎藤村の祖父母が暮らした隠居所などの建物からなる館内の見所は、処女詩集【若葉集】をはじめ、自伝的小説【夜明け前】、【嵐】といった名作の直筆原稿。作家の体温や情熱が伝わり、書籍で読んだことのある作品でも、ひと味違う印象を受けます。
他にも、島崎藤村の愛用品など、約6,000点を所蔵展示。再現された本陣の佇まいと共に、島崎藤村が育った風景の中で想像力が掻き立てられます。
大火で焼けてしまった島崎藤村の生家ですが、唯一消失を免れたのが敷地内にある祖父母の隠居所。その2階は島崎藤村が幼少期を過ごした部屋で、ここで父から「四書五径」(ししょごきょう)の素読を受けたことが【夜明け前】の中で描かれています。
永昌寺
島崎藤村の【夜明け前】に登場する「万福寺」のモデルとしても知られる「永昌寺」(えいしょうじ)の創建は、1558年(永禄元年)。
島崎家の歴代の菩提寺として開かれたのが始まりと言われています。
1943年(昭和18年)に、島崎藤村が大磯の自宅で亡くなったのち、遺髪と遺爪の一部がここに納められ、墓碑が建立されました。
また、本堂横の観音堂に安置されている一体の木造の阿弥陀如来は、桧の一木造りで平安末期の物と推定されています。土地の古老の話によると、この像は本来、永昌寺の物ではなく、ここから少し離れた原野の荒れ果てた小堂に祀られていました。
しかし、世話をする人もなく、手入れもされないまま放置されていた仏像を見かねた住民が、永昌寺へと運び込み、祀るようになったと言われています。
また、同じく観音堂に安置されている木造聖観音立像は、江戸時代前期に円空上人が彫り込んだと言われており、1988年(昭和63年)に、どちらの仏像も中津川市の指定文化財に指定されました。
脇本陣資料館
本陣同様、脇本陣も1895年(明治28年)の大火で焼失しましたが、1964年(昭和39年)に脇本陣の最高位の部屋、江戸時代の大名が利用した「上段の間」を同じ場所に忠実に再現。馬籠脇本陣資料館として生まれ変わりました。
館内には、武士や公家といった身分の高い人々が利用した宿泊施設の様子、実際に使われていた家財や什器など、貴重な道具類を展示。当時の暮らしと文化、制度なども紹介しています。
その中でも「蜂谷源十郎覚書」は、馬籠脇本陣・蜂谷家当主が4代、およそ100年間に亘って馬籠宿の出来事を詳しく書き留めた貴重な日記。
島崎藤村は【夜明け前】執筆の際、本日記を資料として利用しており、蜂谷家を【夜明け前】に登場する「枡田家」のモデルとして起用しました。
清水屋は、島崎藤村の作品【嵐】に登場する「森さん」のモデルになった「原一平」の家。代々馬籠宿の役人を務め、島崎家と親交が深かった原家(屋号:清水屋)は、島崎藤村が長男「楠雄」を馬籠で帰農させる際、息子を託した家でした。
そのため、ここには島崎藤村の書簡、掛け軸、写真などがあり、【夜明け前】の構想を練ったと言われる部屋も残っています。また、ここでは宿場として栄えた当時の文書、書画をはじめ、九谷、伊万里、唐津といった陶磁器、輪島漆器など過ぎし日の文化史、生活史とも言える貴重な品を展示。
中山道と共に歩んできた馬籠宿は山深い場所でしたが、街道筋だったことで、各地との交流が盛んだったことが窺えます。
正岡子規の句碑
中山道が機能していた江戸時代に馬籠を訪れた文化人達は、馬籠宿や周辺の情景をそれぞれの作品に遺しており、それを物語る文学碑に巡り合えるのも馬籠宿の魅力です。
島崎藤村の筆による「是より北 木曽路」の碑をはじめ、松尾芭蕉の句碑、正岡子規の句碑、馬籠脇本陣資料館前の「山口誓子」(やまぐちせいし)の句碑、また、思わず笑ってしまう傑作は、峠の集落辺りにある「十辺舎一九」(じっぺんしゃいっく)の狂歌碑など、様々な歌碑や句碑が点在しています。
他には「渓斎英泉」(けいさいえいせん)によって往時の様子が描かれるなど、歴史に名を残す多くの偉人達が訪れた馬籠宿。馬籠から眺める恵那山の雄大で美しい風景は、江戸時代に芭蕉派の俳人達によって多くの歌に詠まれ、また終の住み処として、多くの俳人が界隈に居住していたとも言われています。
毎年11月は、月間を通して「馬籠宿場まつり」を開催。馬籠宿が幻想的な雰囲気に包まれる「あかり街道」は、夕暮れの馬籠宿を行燈の暖かな光が照らし出すロマンチックなイベント。
また、水面に映し出された紅葉が美しい、島田公園の「紅葉のライトアップ」などもあります。
中山道は、山間部を通る険しい道ですが、東海道のように海難事故や川止めの心配はありません。そのため江戸時代、良家の子女の輿入れに利用されることが多かったとの記録が残っています。
特に天皇家との外戚関係を作り、より強固な基盤を築こうとする徳川家に嫁ぐため、京都から江戸に輿入れする皇族や公家の姫君達、その殆どが中山道を通ったと言われ、別名「姫街道」とも呼ばれました。
皇女が皇族以外の男性に嫁ぐことを「降嫁」(こうか)と言いますが、日本史上唯一武家に降嫁したのが、第120代天皇「仁孝天皇」(にんこうてんのう)の娘「和宮」(かずのみや)。江戸時代に朝廷と幕府を結ぶ異例の結婚でした。その相手は時の将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)で、総勢10,000人以上という前代未聞の嫁入り行列が、この馬籠の坂道を通り過ぎて行ったのです。
馬籠宿では、この結婚にちなみ、毎年秋に開催される馬籠宿場まつりで歴史イベント「皇女和宮降嫁行列」が行なわれます。紅葉が映える秋、皇女和宮が住み慣れた京から、ここ馬籠宿を通って、江戸の徳川家に嫁いだ絢爛豪華な行列を再現。煌びやかな着物に身を包んだ和宮はもちろん、裃や野袴を身に付けた侍の他、鮮やかな着物の女官など、雅な行列は当時を彷彿とさせます。
しかし、当時の和宮は15歳。決して自ら望んで故郷を離れた訳ではありません。大河ドラマや小説などに何度も登場した和宮が、どんな思いでこの石畳の上を通り過ぎて行ったのか、馬籠宿ならではのセンチメンタルな気分にも浸れそうです。