伝統の残る宿場町紹介

江戸時代の町並みが残る奈良井宿(長野県塩尻市)

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江戸の日本橋から京都の三条大橋までを結んだ中山道(なかせんどう)の中間にある「奈良井宿」(ならいじゅく:長野県塩尻市)は、江戸時代に多くの旅人や商人、大名行列、幕府の役人などの往来で栄えていた宿場町です。
奈良井宿の見どころは、京都の宇治から江戸城まで、徳川将軍家御用達のお茶を運んだ格式高い「お茶壺道中」の行列。「奈良井千軒」と呼ばれる、江戸時代の面影が残るノスタルジックな町並みを背景に行列が行く様子は、まるで時代絵巻です。
歴史ある建物に囲まれながら、当時の暮らしに思いを馳せ、奈良井宿の郷土料理やお菓子に舌鼓を打ちながら、江戸時代の旅人気分で歩いてみましょう。

東海道五十三次 浮世絵東海道五十三次 浮世絵
江戸時代に整備された五街道のひとつ、東海道にある宿場を題材に描かれた浮世絵をご覧下さい。

歴史を語る建物が連なる木曽路で最も賑わった宿場町

特徴的な建築様式が見どころの奈良井千軒

奈良井宿

奈良井宿

江戸の日本橋から京都の三条大橋をつなぐ中山道にある「奈良井宿」は、中山道六十九次の行程でちょうど真ん中にあたる34番目の宿場町です。

太平洋側を行く東海道に比べ、山間部の多かった中山道は、大雨の増水による川留め(川を渡るのを禁じること)が少なく、多くの旅人や商人、大名行列、幕府の役人などが往来しました。

京の都から将軍家に嫁ぐ姫達にも利用されたことから、「姫街道」とも呼ばれていたのです。

峠越えに備えて宿を取る旅人が多かった奈良井宿は「奈良井千軒」(ならいせんけん)と言われ、中山道の木曽路の中で最も栄えた宿場町。昔の旅籠(はたご:旅人を宿泊させ、食事を提供することを業とする家のこと)そのままの旅館、かつて問屋だった屋敷などのノスタルジックな町並みが、鳥居峠の上り口の「鎮神社」(しずめじんじゃ)から、奈良井川に沿っておよそ1km続いています。

また、歴女として注目しておきたいポイントは、かつて旅人の喉を潤してきた「水場」(みずば)や、幕府や藩からのお達しが貼り出された「高札場」(こうさつば:幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札を掲示した施設)など、江戸時代そのままの宿場町の面影が残されているところ。

1978年(昭和53年)に、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、当時の奈良井宿の様子に思いを馳せることができます。

町は街道に沿って、南側から上町、中町、下町の3つに分けられており、上町と中町の境には「鍵の手」(かぎのて)と呼ばれる屈曲した道が造られました。下町には、四方形に石垣や土塁を築いた「枡型」(ますがた)が設けられ、そして中町には本陣、脇本陣、問屋などがあったと伝えられています。

町の両側には、敵の視界を遮ったり、馬の直進を防いだりする防御物を築いており、宿場の重要部分を守っていました。

猿頭

猿頭

奈良井宿には、いまだ歴史ある建物が残っており、その特徴的な建築様式も見どころ。

代表例が、民家の2階が少しせり出した「出梁造り」(だしばりづくり)です。外壁より外側に張り出した梁が軒を支える様式で、2階が1階より少し前にせり出しています。2階の面積を広げ、庇(ひさし)の代用などの目的で使われました。

軒先がせり出した家々が連なって、旅人は雨の日もあまり濡れずに歩けます。

出梁造りは、中山道の宿場の旅籠などでみられる様式ですが、明治以降も軒を深くして丈夫な構造にするため、商家建築などに用いられました。

また、軒の庇をおさえた「猿頭」(さるがしら)も独特です。これは板を1枚ずつ階段状に重ね合わせた「鎧庇」(よろいひさし)をおさえている「桟木」(さんぎ)を指し、猿の頭が重なったように見えるからこの名で呼ばれたとのこと。

情緒ある町家の格子と調和して、味わい深さをかもし出しています。

江戸時代の商いや暮らしを偲ばれる資料館

上問屋資料館

上問屋資料館

出梁造りや猿頭といった奈良井宿の伝統建築を今に伝えるのが、塩尻市の有形文化財に指定されている「中村邸」です。天保年間(1830~1843年)に造られた櫛(くし)問屋「中村利兵衛」の屋敷で、今は資料館として内部が一般公開されています。

奈良井宿ではこの家の保存をきっかけに、町並みの保存活動が進んでいきました。歴史を紡いできた価値ある物を残そうという思いに共感する歴女も多いのではないでしょうか。

屋敷内には、通り土間、吹き抜けの勝手、囲炉裏、座敷があり、売上帳や注文帳といった古文書、櫛が並んでいます。

中村邸から鍵の手を曲がると見えるのが、国指定重要文化財の「上問屋資料館」(かみといやしりょうかん)。1602年(慶長7年)から奈良井宿の「問屋」(といや)を務めた「手塚家住宅」です。

「問屋場」とは、幕府によって決められた数の馬と歩行役を用意しておき、幕府の役人や大名などの求めに応じて運用していた施設。その業務を行なっていたのが問屋で、手塚家は約270年間問屋を務め、時には庄屋(しょうや:村役人のひとつで、村の首長のこと)を兼務していました。館内には、古文書、陶器、漆器、日常生活の道具など、400点余りが展示中です。

将軍家御用達の寺院

長泉寺

長泉寺

町並みの背後に佇む山裾には、「五ヶ寺」と呼ばれる、それぞれ宗派の異なった寺院が点在しています。

それは、「浄龍寺」(じょうりゅうじ)、「法然寺」(ほうねんじ)、「大宝寺」(だいほうじ)、「長泉寺」(ちょうせんじ)、「専念寺」(せんねんじ)の5つ。

長さ1kmほどの宿場町に、様々な宗派の寺院が5つも置かれた理由は定かではありません。一説では、中山道の中心という立地もあり、お参りするために、それぞれの大名が、自分の信仰する宗派の分院を持ってきたからと言われています。

また、旅籠の数が少なかったため、大名行列等で旅籠が不足したときには、寺院が宿房の役割も果たしていました。

この5つの寺院のうち、歴女必見の寺院が、徳川将軍家御用達の長泉寺です。曹洞宗(そうとうしゅう)の由緒ある古刹(こさつ:由緒ある古い寺)で、本堂入口の天井に堂々と描かれた「龍の大天井絵」は、壮観で見ごたえがあります。この長泉寺は、徳川幕府3代将軍「徳川家光」が始めた、宇治茶を京都から江戸に運ぶ「お茶壺道中」の本陣として使われていました。

また、浄土宗(じょうどしゅう)の法然寺には、「関ヶ原の戦い」に向かう「徳川秀忠」が一時滞在し、陣屋としたという記録が残されています。

臨済宗(りんざいしゅう)の大宝寺は、領主「奈良井義高」(ならいよしたか)が、1582年(天正10年)、自らの菩提寺として建立。しかし、奈良井義高の客観的な資料は少なく、出生や死没は様々な説があります。

なお、大宝寺境内に祀っている「マリア地蔵」は、住民によって近くの森から発見された物。江戸時代、キリスト教が迫害された時代にそのほとんどが破壊されており、地蔵を模したマリア像の胸元に、十字架が掛けられているのがかろうじて分かるのみとなっています。

また、このマリア地蔵は、子どもを抱いている聖母子像だったため、「子育て地蔵」とも呼ばれました。

歴女必見!?時代絵巻を思わす大名行列 お茶壺道中

木曽の大橋

木曽の大橋

毎年6月の第1金・土・日曜日には、「奈良井宿場祭」が開催されます。奈良井宿場祭の大きな見どころは、最終日に行なわれるお茶壺道中。

江戸時代、徳川将軍家御用達のお茶を、京都の宇治から中山道、甲州街道を経て、江戸へと運んだ行列を再現したものです。

行列は、お茶壺道中一行が泊まった長泉寺を出発して、宿場町内を通り、総檜造りの太鼓橋「木曽の大橋」まで一巡します。

お茶壺道中は、3代将軍・徳川家光が、朝廷用と将軍家用のお茶を宇治の茶師に作らせ、茶壺に詰めて江戸に献上させたことがはじまりです。これは、1632年(寛永9年)に制度化されたと言われています。

毎年4月下旬から5月上旬頃、宇治から茶葉の生育状況の報告を受けると、空の茶壺と共に宇治採茶使(うじさいちゃし)が江戸を出発、東海道で京都へ向かいました。宇治でお茶を茶壺に詰めると、京都の愛宕山(あたごやま)に置き、その後中山道を通って江戸へ運びます。4代将軍「徳川家綱」以後は、愛宕山ではなく甲斐国(現在の山梨県)の風穴に納めており、8代将軍「徳川吉宗」の時代になると、宇治を出てそのまま江戸城内に納めました。

茶壺は、封印すると羽二重で包み、さらにその上から綿入れの帛紗(さらさ)で2重に包み、駕籠(かご)の中の箱に収めます。丁重に包まれたお茶は、将軍が直接口にする物であり、将軍家の祖廟に献ずる格式高い物。その茶壺が運ばれるお茶壺道中は、将軍の通行に匹敵するほど権威のあるものでした。

お茶壺道中の行列が通るときには、大名も駕籠を降りなければならず、庶民は顔を上げることはもちろん、田畑の耕作も禁止。また、産地の宇治では新茶の季節でも、朝廷と将軍にお茶壺を献上するまでは新茶の売買が禁止されていました。

現代の奈良井宿のお茶壺道中では、地元の子ども達が着物や法被に身を包み、茶壺を運ぶ行列が、当時さながらの風情ある町並みと共に観られます。

中世には木曽氏と武田氏の争いの場となった鳥居峠

武田信玄

武田信玄

奈良井宿のうしろに控える鳥居峠(とりいとうげ)は標高1,197mで、中山道の難所と言われた場所です。

鎌倉時代から室町時代にかけては、信濃国(現在の長野県)と美濃国(現在の岐阜県)の国境であったとされ、何度も戦いの場になりました。

鳥居峠の名前も、「木曽義元」(きそよしもと:信濃国木曽谷を支配した木曽氏の当主)が戦勝祈願のため、霊峰・御嶽山(おんたけさん)を望めるこの場所に、鳥居を建てたのが由来と言われています。

1549年(天文18年)、「武田信玄」は、木曽の地を制圧するために鳥居峠へ侵攻。しかし、天然の要塞とも言える地形を活かした「木曽義康」(きそよしやす)の軍に武田軍は撤退を余儀なくさせられます。

しかし、1555年(天文24年)、再び鳥居峠へ武田軍の侵攻を許した木曽軍は敗退。武田の軍門に下ると、木曽義康の跡を継いだ「木曽義昌」(きそよしまさ)は、武田信玄の娘と結婚し、木曽氏は武田氏の親族衆に迎え入れられました。

武田信玄の死後、跡を継いだ「武田勝頼」(たけだかつより:武田信玄の4男)は、1575年(天正3年)、織田信長徳川家康連合軍との「長篠の戦い」に敗北。木曽義昌は武田氏を離反し、織田信長の誘いに応じました。

木曽義昌は織田信長の後ろ盾を得て、「甲州征伐」(こうしゅうせいばつ)の際には、織田軍に付きます。

奈良井を統治していた奈良井義高も、木曽義昌と共に織田軍に付き、武田軍と戦いました。

武田氏の大軍は鳥居峠に侵攻し、激しい戦いが行なわれます。木曽義昌は迎え撃ち、結果として大勝利を手にしますが、多くの兵士が命を落とし、500人もの死者で谷が埋まったと言われるほどでした。この戦いでの戦死者を埋葬したという場所が、鳥居峠にある「葬沢」(ほうむりさわ)です。

鎌倉・室町時代は戦場となり、江戸時代はわらじ履きの足を苦しめたという鳥居峠も、今はハイキングコースとして親しまれています。敷かれた石畳の道を、木漏れ日の中、歴史に思いを馳せながらゆっくりと散歩してみるのも良いでしょう。

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自然や歴史を映し出す地域の名物を知る

江戸時代から受け継がれている曲物

豊富な森林資源の恩恵を受け、木を使った伝統工芸品も、奈良井宿の魅力のひとつです。標高が高く寒冷なこの地域では、木の生長が遅い分、木目の詰まった良材となります。

「奈良井の曲物」は、1670年頃(寛文年間)の文書ですでに紹介されている、400年もの歴史がある伝統工芸です。

「曲物」(まげもの)とは、木の薄板を熱湯で煮てやわらかくしてから円形や楕円形に曲げ、合わせ目を山桜の皮で綴じ、底を付けて漆を塗った器のこと。

代表的な曲物に、お弁当箱や米櫃などがあります。木素材が余分な水分を吸い、しっとりと保ってくれるため、冷めてもご飯がおいしいと評判です。

奈良井の曲物は、御嶽山で育った良質の「木曽ヒノキ」と「木曽サワラ」を組み合わせて作ります。側面に使われているのは、しなやかで丈夫な木曽ヒノキ、蓋と底には、吸水性と保湿性に富む肉厚の木曽サワラです。木材を使った工芸品ながら、機能性に優れた実用品でもあります。

また、木が呼吸できるように「摺り漆」(すりうるし)を施しているのもポイント。これは漆を木肌に直接、摺り込む技法で、しっかりと下地処理をする本塗りとは異なり、木の呼吸を損ないません。洗いやすさや強度がアップするため、普段の使い勝手もよさそうです。漆にもヒノキにも抗菌作用があるため、中の食材が傷みにくいメリットもあります。

機能的で木目が美しく、江戸時代から受け継がれる工芸品。歴女の愛用品選びの選択肢に加えてみてはいかがでしょうか。

ちょっとひと休みに、素朴なおやつ

朴葉もち

朴葉もち

奈良井宿を歩き疲れてほっこりしたいときにぴったりなのが、地元のおやつ。

奈良井宿名物の「朴葉もち」(ほおばもち)は、朴葉が採れる5月下旬から6月下旬頃にかけて食べられる、期間限定の郷土菓子です。

米粉を練った生地で小豆餡をくるみ、朴葉で包んで蒸し上げます。朴葉の香りをほのかに感じる素朴な味わいです。

殺菌効果のある朴葉は、木曽地域で古くから食材を包むために使われていました。携帯性にも優れるので、畑や山で昼食を摂るときに重宝したと言います。朴葉を使って、「朴葉飯」、「朴葉むすび」、「朴葉寿司」など、様々な郷土料理が作られたのです。

奈良井宿の辺りは柏の木が少ない地域なので、端午の節句にはかしわ餅の代わりに使い、行事食としても活躍していました。朴葉もちは初夏限定のお菓子ですが、奈良井宿へ訪れるタイミングが合えば試してみると良いでしょう。

他にも、おやきや五平餅も定番のおやつです。築200年という建物で味どころを営む「越後屋」では、朴葉もちもおやきも五平餅も味わえます。おやきの具は、お馴染みの野沢菜の他、切干大根、かぼちゃ、つぶあんをラインナップ。

お米をつぶした餅に、信州の味噌をベースにクルミとゴマを合わせ、甘めの特製タレをかけた越後屋の五平餅は、串に刺したタイプではなく、丸くて平たい円柱型をした奈良井宿スタイルです。

他に、手打ち蕎麦や木曽路名物である鯉のあらいもあり、地元の味覚を満喫することもできます。歴女散歩の途中にも、締めくくりにも利用することができます。

江戸時代の町並みが残る奈良井宿(長野県塩尻市)

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鳥取藩が重用した智頭宿(鳥取県智頭町)

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鳥取県八頭郡智頭町(やずぐんちづちょう)にある「智頭宿」(ちづしゅく)は、因幡街道(いなばかいどう)の宿場町。鳥取県南部に位置し、岡山県との県境に近い山あいにあります。 因幡街道は、播磨国姫路(はりまのくにひめじ:現在の兵庫県姫路)と因幡国鳥取(いなばのくにとっとり:現在の鳥取県鳥取市)を結ぶ街道のこと。また、畿内(きない:山城、大和、河内、和泉、摂津の五ヵ国の総称)と因幡を結ぶ他、瀬戸内海・太平洋側の山陽と日本海側の山陰をつないでいるため、交通の要衝として人や物、文化が往来したと言います。智頭を通ることから「智頭往来」(ちづおうらい)、または鳥取側から見ると都へ向かうので、「上方往来」(かみがたおうらい)とも呼ばれていました。

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若狭と京を結んだ鯖街道熊川宿(福井県若狭町)

若狭と京を結んだ鯖街道熊川宿(福井県若狭町)
福井県若狭町(わかさちょう)にある「熊川宿」(くまがわじゅく)は、若狭で水揚げされた海産物などを京の都まで運ぶ重要なルートに位置する町です。その歴史は古く、安土桃山時代にまで遡ります。 1589年(天正17年)、豊臣秀吉に重用された武将「浅野長政」(あさのながまさ)が若狭小浜の城主となり、交通と軍事の拠点である宿場町としました。商家や問屋、「旅籠」(はたご)などが集まり、江戸時代には1日に1,000頭もの牛馬が行き交うほどの賑わいを見せたと伝わっています。 山あいに開かれた緑豊かな里、熊川宿は全長1㎞余りの街道。そぞろ歩けば、道沿いに「前川」(まえがわ)が続き、流れるせせらぎの音が心地良く旅気分を盛り上げてくれます。その清らかな水は、平成名水百選にも選出。また、左右に並ぶ雪国ならではのベンガラ塗りの商家や土蔵は往時の面影を残し、まるで時代劇の舞台を思わせる風景を今なお留めています。 この土地特有の歴史や伝統を後世に残す人々の活動、その舞台となった価値ある建造物などが一体となって評価され、2008年(平成20年)には、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。食通の歴女が見逃せないおいしい話を紹介していきます。

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歴女も魅了する馬籠宿(岐阜県中津川市)

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幕末、14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)のもとに降嫁する「皇女和宮」(こうじょかずのみや)の嫁入り行列が通り、新撰組の前身の浪士隊が江戸から京の都をめざした中山道。69次ある宿場のうち、江戸から数えて43番目にあたるのが、岐阜県中津川市の「馬籠宿」(まごめじゅく)です。ここは、文豪「島崎藤村」ゆかりの地としても知られ、自伝的小説【夜明け前】の舞台になった宿場町でもあります。 江戸時代は多くの人が行き交う街道として利用され、明治以降は忘れ去られた道となっていましたが、多くの文化人が刻んだ歴史と文化はしっかりと受け継がれ、馬籠は世界の旅人が訪れる場所になりました。旅人を惹き付けてやまない馬籠宿、その特徴と人気スポットを、島崎藤村の作品と共にご紹介します。

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歴女も大満足!圧巻の宿場町関宿(三重県亀山市)

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三重県にある「関宿」(せきじゅく)は、江戸・日本橋を起点とした東海道五十三次47番目の宿場町。「東追分」(ひがしおいわけ:木崎)から「西追分」(にしおいわけ:新所)までの約1.8㎞の道のりに、本陣、脇本陣、旅籠、問屋場などの建物が並び、旅の便宜を図っていました。江戸時代以前から交通の要衝として栄え、「鈴鹿関」が置かれていましたが、東海道が整備されることになり、参勤交代や伊勢参りの人びとで一層の賑わいを見せるようになったと言われています。

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日本の道100選に選ばれた海野宿(長野県東御市)

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1625年(寛永2年)に、「北国街道」(ほっこくかいどう:現在の国道18号旧道で軽井沢と上越市をつなぐ)の宿場として開設された「海野宿」(うんのじゅく)。その一番の魅力は、江戸時代の「旅籠屋造り」(はたごやづくり)の建物と、明治以降の「蚕室造り」(さんしつづくり)の建物が調和した町並みにあり、閑静な佇まいが海野宿の歴史を物語っています。 歴女を自認する人はもちろん、そうでない人も、ぜひ静かに流れる時間に身を任せ、のんびりとその歴史や文化を楽しんでみましょう。

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侍の道と呼ばれる人気の妻籠宿(長野県南木曽町)

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長野県にある「妻籠宿」(つまごじゅく)は、かつての「中山道」(なかせんどう)の江戸と京を結ぶ69次、江戸から数えて42番目の宿場。中山道と「伊那街道」(いなかいどう)が交差する交通の要衝として、本陣が1軒、脇本陣が1軒、「旅籠」(はたご)や茶屋など、旅人が宿泊・休憩をする場所が30軒以上整備され、古くから賑わいをみせていました。 現在、江戸時代末期の町並みがそのまま残る妻籠宿は、世界的に有名なガイドブックやイギリスのBBC放送で紹介されたことから、外国人観光客の間で「サムライの道」と呼ばれるようになり、大人気です。日本のみならず、海外でも人気が高い中山道と妻籠宿の魅力をご紹介します。

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江戸時代の風情が残る大内宿(福島県下郷町)

江戸時代の風情が残る大内宿(福島県下郷町)
福島県下郷町(しもごうまち)にある「大内宿」は、江戸時代に会津(あいづ:現在の福島県西部)の城下と、下野国(しもつけのくに:現在の栃木県)を結ぶ街道「会津西街道」の北の出発点にあたり、会津城下から3番目の宿場町として栄えました。会津西街道は、「下野街道」(しもつけかいどう)とも呼ばれており、総延長は現在の福島県会津若松から、栃木県日光市今市(いまいち)までの約130kmにも及びます。 大内宿は、会津西街道が開通した1640年 (寛永17年)頃に整備され、会津藩をはじめ新発田藩、村上藩、米沢藩などの参勤交代や、商人、旅芸人など、様々な旅人が行き交う交通の要所として重要な役割を果たしていました。つまり、大内宿には歴女の好奇心を刺激する歴史エピソードも多くあると言うことです。福島県南会津郡下郷町に位置する大内宿は、会津鉄道の湯野上温泉駅からシャトルバスで約15分。今なお江戸時代の風情が色濃く残る宿場町・大内宿の魅力をご紹介します。

江戸時代の風情が残る大内宿(福島県下郷町)

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