伝統の残る宿場町紹介

侍の道と呼ばれる人気の妻籠宿(長野県南木曽町)

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長野県にある「妻籠宿」(つまごじゅく)は、かつての「中山道」(なかせんどう)の江戸と京を結ぶ69次、江戸から数えて42番目の宿場。中山道と「伊那街道」(いなかいどう)が交差する交通の要衝として、本陣が1軒、脇本陣が1軒、「旅籠」(はたご)や茶屋など、旅人が宿泊・休憩をする場所が30軒以上整備され、古くから賑わいをみせていました。
現在、江戸時代末期の町並みがそのまま残る妻籠宿は、世界的に有名なガイドブックやイギリスのBBC放送で紹介されたことから、外国人観光客の間で「サムライの道」と呼ばれるようになり、大人気です。日本のみならず、海外でも人気が高い中山道と妻籠宿の魅力をご紹介します。


東海道五十三次 浮世絵東海道五十三次 浮世絵
江戸時代に整備された五街道のひとつ、東海道にある宿場を題材に描かれた浮世絵をご覧下さい。

全国に先駆け町並み保存を実施。原点は地元住民による妻籠を愛する会

中山道が姫街道と呼ばれる理由

中山道は、山深い木曽の山中を通ることから「木曽街道」(きそかいどう)、「木曽路」(きそじ)とも呼ばれ、江戸時代の参勤交代だけではなく、大名や皇族のお輿入れなどにも盛んに利用されていました。そのため、いつしか「姫街道」と呼ばれるようになったのです。

東海道には橋がなく、渡し船を利用して越えなければならない大きな川がいくつかありましたが、中山道は川を渡る必要が少ない山間の街道であること。

また、東海道には「今切の渡し」(いまぎれのわたし)、「薩埵峠」(さったとうげ)など、輿入れには縁起が悪いと考えられた地名があるのに対して、中山道には、「馬籠」(まごめ)、「上松」(あげまつ)など、縁起のいい地名が点在していること。

そして、14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)のもとに降嫁した「皇女和宮」(こうじょかずのみや)をはじめ、将軍家への輿入れの際に中山道を利用した姫が多いことも、姫街道と呼ばれる理由のひとつに挙げられます。

世界から注目されるサムライの道

妻籠宿

妻籠宿

1968年(昭和43年)、日本で最初に町並み保存が行なわれたのは、妻籠宿寺下地区の寺下の町並みです。

他の地域に先駆けて江戸時代と変わらぬ貴重な景観を後世に伝えようと、妻籠の人びとは「売らない・貸さない・壊さない」を地域の憲章に定め、家屋や土地の保存に努めてきました。

そして、2018年(平成30年)にその努力が報われる出来事が起こります。

まず、イギリスのBBC放送で、ボンドガールを演じた女優が中山道を紹介すると、妻籠と馬籠を結ぶ8kmの道が外国人の間で「Samurai Trail」(サムライの道)として有名になり、海外からの観光客が一気に増えたのです。

さらに、江戸時代の寺社や城郭建設に欠かせなかった木曽檜をはじめとする木材の供給地として、この地に受け継がれている文化と文化財が日本遺産に認定され、現代の若者も妻籠と中山道の価値を再認識するようになりました。

遥か昔、幾人もの旅人が往来した宿場の寺下地区。いにしえの旅籠そのままの「出梁造り」(だしばりづくり)や「竪繁格子」(たてしげごうし)の家々が建ち並び、風情ある通りにひっそりと佇む「常夜燈」(じょうやとう)や水場の景色は、一見の価値ありです。

江戸時代の庶民の暮らしと旅を垣間見る

下嵯峨屋

下嵯峨屋

下嵯峨屋

寺下の町並みに入る石段横に佇む、石置き屋根が目印の「下嵯峨屋」(しもさがや)。

妻籠宿にある民家の中では比較的古い形式を留めていて、内部の柱には檜を使い、当時の民家を代表する片土間に並列2間取りというスタイル。

また、下嵯峨屋の他にも民宿や旅館があり、いずれも江戸時代の庶民の暮らしを疑似体験できる「旅の宿」として立ち並んでいます。

上嵯峨屋

上嵯峨屋

上嵯峨屋

18世紀中期の建築と推定される「上嵯峨屋」(かみさがや)は、妻籠宿で最も古い建物のひとつで、庶民の旅行ブームを支えた格安で宿泊できる「木賃宿」(きちんやど)の形式を留めています。

江戸時代、旅人の間で主に食されていたのは、蒸して乾燥させた「糒」(ほしいい)というインスタント食品。薪で沸かした湯をかけるとやわらかくなるため、旅人の携帯食として流行っていました。

また当時は、相部屋であることが多く、防寒用の上着などを布団代わりにして寝ていたため、宿代は糒を食べるときの薪代のみで済むという訳です。

こうした木賃宿が江戸時代のバックパッカーを支えていました。

島崎藤村ゆかりの宿場町を歩く

妻籠宿本陣

妻籠宿本陣

妻籠宿本陣

かつて参勤交代などで大名が宿泊した妻籠宿本陣は、小説「夜明け前」で知られる「島崎藤村」(しまざきとうそん)の母親の、格調高い生家でもあります。

明治時代に入り、最後の当主だった「島崎広助」(島崎藤村の実兄)が東京へ出たため一旦取り壊され、跡地は「御料局」(ごりょうきょく)や「営林署」(えいりんしょ)として利用していましたが、その後、町に払い下げられたことを機に、1995年(平成7年)江戸時代後期の絵図をもとに復元されました。

内部は自由に見学でき、囲炉裏や床の間など、いずれも当時の造りを忠実に再現しています。

脇本陣奥谷

脇本陣奥谷の囲炉裏の光

脇本陣奥谷の囲炉裏の光

脇本陣奥谷(わきほんじんおくや)は、代々、脇本陣・問屋を務めた家。島崎藤村の初恋の相手「おゆふ」の嫁ぎ先でもあります。

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき・・・

島崎藤村の作った詩「初恋」の一節を思い浮かべると、ジーンとくる歴女も多いはず。

現在の建物は「木曽五木」(きそごぼく)の禁制が解かれ、1877年(明治10年)に、総檜造りで建替えられました。その堂々たる佇まいは、旧家の風格を感じます。

その後、1967年(昭和42年)に妻籠宿保存の中核として公開され、2001年(平成13年)には、国の重要文化財に指定されました。妻籠宿の歴史、脇本陣の役割、江戸時代の暮らしぶりなどを語り伝えるのは、現地にいるガイドスタッフ。

また、ここ脇本陣奥谷の名物にもなっているのが、幻想的な「囲炉裏の光」。室内上部の格子窓から差し込む太陽光線が囲炉裏の煙に透けて、観る人の目を釘付けにします。この現象を最も美しく観ることができるのは、冬の晴れ間のひとときだけなので、好条件の日にはより多くの人々が訪れる人気スポットとしても有名です。

歴女のみなさんも、島崎藤村の恋バナにまつわる脇本陣奥谷を訪ねてみてはいかがでしょう。

歴史資料館

南木曽町歴史資料館

南木曽町歴史資料館

脇本陣奥谷に隣接する歴史資料館では、木曽の歴史や宿場のあらまし、町並み保存の歩みなどを資料や模型、映像を用いて紹介。

妻籠宿全体がよく分かる鳥瞰(ちょうかん:鳥が空から見おろすように、高い所から広い範囲を見おろす)模型もあり、本陣、脇本陣、街道の桝形などの位置を頭に入れておくと、実際に妻籠宿を散策するときに役立ちます。

また、実は妻籠宿の島崎家と、隣接する「馬籠宿」(まごめじゅく)の島崎家とは同族関係。妻籠宿の島崎家から、馬籠宿の最後の当主「島崎正樹」(小説・夜明け前の主人公・青山半蔵のモデル)のもとに「ぬい」という人が嫁ぎました。

その2人の間に生まれた4男が、島崎春樹こと島崎藤村です。そして、島崎藤村の実兄・島崎広助は妻籠宿本陣の養子であり、最後の当主。

こうした島崎家の位置付けや、妻籠と馬籠に渡る島崎家の家系についても知ることができる、妻籠宿の歴史探訪に欠かせない資料館なのです。

郵便史料館

郵便史料館

郵便史料館

郵便史料館は、本陣の中にあった妻籠郵便局。島崎藤村の夜明け前に開局当時の様子が描かれており、1978年(昭和53年)、郵政本省の指導で復元された妻籠郵便局は、現在でも郵便業務を担っています。

建物の前には、江戸時代の目安箱を象った「書状集箱」(しょじょうあつめばこ)と呼ばれる黒く四角いポストがあり、ここからハガキや手紙を出すと、妻籠宿の絵が入った消印が押され、旅の記念になると人気です。

館内には、郵便制度創業時の服装や日本で最初に発売された切手、年代別ポスト、昔の書簡など、貴重な史料が展示。小説・夜明け前にも登場した郵便局は、今現在も健在なのです!

男滝・女滝

妻籠宿から馬籠宿へ向かう途中にある「男滝・女滝」(おだき・めだき)は、木曽に街道が開かれて以来、旅人達の憩いの場として親しまれてきました。「大妻籠」(おおつまご)と「馬籠峠」(まごめとうげ)を結ぶ県道7号線沿いにある入口から階段を下ると、左手に男滝、右手に女滝が観えてきます。

ここは吉川英治の小説「宮本武蔵」に登場する、宮本武蔵とお通の恋物語の舞台としても知られていますが、「倉科様伝説」(くらしきさまでんせつ)という不思議な伝説の舞台としても有名。

世にも珍しい「金色に輝く鶏」を巡って起こる凄惨な事件で、「倉科左衛門尉時元」(くらしきさえもんいときもと)が山賊に襲われ、命を落とし、その際に金色の鶏が舞い込んだ先がこの男滝・女滝だったというものです。

またこの伝説には諸説あり、同じ「倉科」でも、それぞれ松本城主「小笠原貞慶」(おがさわらさだよし)の家臣である場合と、松本城城下の豪商である場合とあり、どちらの逸話でも命を落とした倉科の霊を鎮めるため、滝の近くに祖霊社を建立するといった結末となっています。

文化文政風俗絵巻之行列

文化文政風俗絵巻之行列の様子

文化文政風俗絵巻之行列の様子

1968年(昭和43年)からはじまり、毎年11月23日(勤労感謝の日)に開催される「文化文政風俗絵巻之行列」。

妻籠宿の保存事業がスタートしたことを記念して行なわれるイベントで、総勢130名あまりが、武士や町役人、虚無僧など、江戸時代の人びとに扮して妻籠宿周辺を練り歩きます。

この行列には、地元住民だけでなく、全国各地から希望者が来訪。行列参加者には、文化文政時代の旅人らしい装いが求められ、「派手にならないよう、地味に、地味に」が合言葉です。

行列は、妻籠宿の北側に位置する「渡島地区」からスタートし、大屋前、寺下地区を通り過ぎ、大妻籠までのおよそ3kmを闊歩します。地元の「さいとろさし」や「妻籠陣屋太鼓」といった伝統芸能も披露。昼食時には、街道に面した板の間に腰掛けて「輪っぱ弁当」を食べる人、竹の皮に包んだ握り飯をほおばる人、キセルをふかす人など、その様子は自然と町並みにとけ込み、江戸時代さながらです。

行列のメインとも言える「花嫁行列」は、「今日はナァ、日がようてヨ、ヤレヤレー」と唄われる長持唄と共に、仲人の先導で木曽馬に乗った花嫁、長持ちを担いだ一行と続き、古き良き日本の時代絵巻を再現しています。

妻籠と馬籠

妻籠宿と隣接している馬籠宿は、併せて訪れる人も多く、妻籠・馬籠間約8kmの歴史街道・通称「サムライの道」でハイキングが楽しめます。

馬籠宿から馬籠峠を越え、妻籠宿までの所要時間は約3時間。この区間では、馬籠宿と妻籠宿の共同企画として、手荷物の運搬や「完歩証明書」(妻籠宿と馬籠宿を結ぶハイキングコースの完歩証明書)の発行、ハイキング鈴の貸し出しなどもあります。

サムライの道を闊歩すれば、当時の人びとの追体験ができそうです。

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鳥取藩が重用した智頭宿(鳥取県智頭町)

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鳥取県八頭郡智頭町(やずぐんちづちょう)にある「智頭宿」(ちづしゅく)は、因幡街道(いなばかいどう)の宿場町。鳥取県南部に位置し、岡山県との県境に近い山あいにあります。 因幡街道は、播磨国姫路(はりまのくにひめじ:現在の兵庫県姫路)と因幡国鳥取(いなばのくにとっとり:現在の鳥取県鳥取市)を結ぶ街道のこと。また、畿内(きない:山城、大和、河内、和泉、摂津の五ヵ国の総称)と因幡を結ぶ他、瀬戸内海・太平洋側の山陽と日本海側の山陰をつないでいるため、交通の要衝として人や物、文化が往来したと言います。智頭を通ることから「智頭往来」(ちづおうらい)、または鳥取側から見ると都へ向かうので、「上方往来」(かみがたおうらい)とも呼ばれていました。

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若狭と京を結んだ鯖街道熊川宿(福井県若狭町)

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福井県若狭町(わかさちょう)にある「熊川宿」(くまがわじゅく)は、若狭で水揚げされた海産物などを京の都まで運ぶ重要なルートに位置する町です。その歴史は古く、安土桃山時代にまで遡ります。 1589年(天正17年)、豊臣秀吉に重用された武将「浅野長政」(あさのながまさ)が若狭小浜の城主となり、交通と軍事の拠点である宿場町としました。商家や問屋、「旅籠」(はたご)などが集まり、江戸時代には1日に1,000頭もの牛馬が行き交うほどの賑わいを見せたと伝わっています。 山あいに開かれた緑豊かな里、熊川宿は全長1㎞余りの街道。そぞろ歩けば、道沿いに「前川」(まえがわ)が続き、流れるせせらぎの音が心地良く旅気分を盛り上げてくれます。その清らかな水は、平成名水百選にも選出。また、左右に並ぶ雪国ならではのベンガラ塗りの商家や土蔵は往時の面影を残し、まるで時代劇の舞台を思わせる風景を今なお留めています。 この土地特有の歴史や伝統を後世に残す人々の活動、その舞台となった価値ある建造物などが一体となって評価され、2008年(平成20年)には、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。食通の歴女が見逃せないおいしい話を紹介していきます。

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歴女も魅了する馬籠宿(岐阜県中津川市)

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幕末、14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)のもとに降嫁する「皇女和宮」(こうじょかずのみや)の嫁入り行列が通り、新撰組の前身の浪士隊が江戸から京の都をめざした中山道。69次ある宿場のうち、江戸から数えて43番目にあたるのが、岐阜県中津川市の「馬籠宿」(まごめじゅく)です。ここは、文豪「島崎藤村」ゆかりの地としても知られ、自伝的小説【夜明け前】の舞台になった宿場町でもあります。 江戸時代は多くの人が行き交う街道として利用され、明治以降は忘れ去られた道となっていましたが、多くの文化人が刻んだ歴史と文化はしっかりと受け継がれ、馬籠は世界の旅人が訪れる場所になりました。旅人を惹き付けてやまない馬籠宿、その特徴と人気スポットを、島崎藤村の作品と共にご紹介します。

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歴女も大満足!圧巻の宿場町関宿(三重県亀山市)

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三重県にある「関宿」(せきじゅく)は、江戸・日本橋を起点とした東海道五十三次47番目の宿場町。「東追分」(ひがしおいわけ:木崎)から「西追分」(にしおいわけ:新所)までの約1.8㎞の道のりに、本陣、脇本陣、旅籠、問屋場などの建物が並び、旅の便宜を図っていました。江戸時代以前から交通の要衝として栄え、「鈴鹿関」が置かれていましたが、東海道が整備されることになり、参勤交代や伊勢参りの人びとで一層の賑わいを見せるようになったと言われています。

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日本の道100選に選ばれた海野宿(長野県東御市)

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1625年(寛永2年)に、「北国街道」(ほっこくかいどう:現在の国道18号旧道で軽井沢と上越市をつなぐ)の宿場として開設された「海野宿」(うんのじゅく)。その一番の魅力は、江戸時代の「旅籠屋造り」(はたごやづくり)の建物と、明治以降の「蚕室造り」(さんしつづくり)の建物が調和した町並みにあり、閑静な佇まいが海野宿の歴史を物語っています。 歴女を自認する人はもちろん、そうでない人も、ぜひ静かに流れる時間に身を任せ、のんびりとその歴史や文化を楽しんでみましょう。

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江戸時代の町並みが残る奈良井宿(長野県塩尻市)

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江戸の日本橋から京都の三条大橋までを結んだ中山道(なかせんどう)の中間にある「奈良井宿」(ならいじゅく:長野県塩尻市)は、江戸時代に多くの旅人や商人、大名行列、幕府の役人などの往来で栄えていた宿場町です。 奈良井宿の見どころは、京都の宇治から江戸城まで、徳川将軍家御用達のお茶を運んだ格式高い「お茶壺道中」の行列。「奈良井千軒」と呼ばれる、江戸時代の面影が残るノスタルジックな町並みを背景に行列が行く様子は、まるで時代絵巻です。 歴史ある建物に囲まれながら、当時の暮らしに思いを馳せ、奈良井宿の郷土料理やお菓子に舌鼓を打ちながら、江戸時代の旅人気分で歩いてみましょう。

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江戸時代の風情が残る大内宿(福島県下郷町)

江戸時代の風情が残る大内宿(福島県下郷町)
福島県下郷町(しもごうまち)にある「大内宿」は、江戸時代に会津(あいづ:現在の福島県西部)の城下と、下野国(しもつけのくに:現在の栃木県)を結ぶ街道「会津西街道」の北の出発点にあたり、会津城下から3番目の宿場町として栄えました。会津西街道は、「下野街道」(しもつけかいどう)とも呼ばれており、総延長は現在の福島県会津若松から、栃木県日光市今市(いまいち)までの約130kmにも及びます。 大内宿は、会津西街道が開通した1640年 (寛永17年)頃に整備され、会津藩をはじめ新発田藩、村上藩、米沢藩などの参勤交代や、商人、旅芸人など、様々な旅人が行き交う交通の要所として重要な役割を果たしていました。つまり、大内宿には歴女の好奇心を刺激する歴史エピソードも多くあると言うことです。福島県南会津郡下郷町に位置する大内宿は、会津鉄道の湯野上温泉駅からシャトルバスで約15分。今なお江戸時代の風情が色濃く残る宿場町・大内宿の魅力をご紹介します。

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