「安乗神社」(あのりじんじゃ)は、三重県志摩市にある神社です。文禄の役の際の航海を助けたり、安政東海地震の津波を防いだり、日清戦争・日露戦争への出征者を無事に帰したりと数々の逸話がある「安乗神社」。現在の「安乗神社」では、「波乗守」というお守りがサーファーの方たちに人気です。
全国の神社で行なわれる神事のなかには、八岐大蛇(やまたのおろち)伝説をモチーフとした神事があります。「安乗神社」の「しめ切り神事」もそのひとつ。「しめ切り神事」の「しめ」とは「注連縄」(しめなわ)の「しめ」のことで、長さ30m、太さ1.5mの2本の「注連縄」を蛇に見立てて、日本刀で切る神事です。素盞嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した故事が由来と言われています。
そんな「安乗神社」の「しめ切り神事」に関して、「しめ切り神事」の由来や「しめ切り」をする人の選び方などを解説しましたので、ご覧下さい。
しめ切り神事
安乗神社は、伊勢志摩の的矢湾に突き出た安乗岬の先端にある小さな神社です。この神社では毎年1月10日に正月行事として「しめ切り神事」という行事が行なわれ、多くの観光客を集めています。
しめ切りの「しめ」は注連縄(しめなわ)のことで、長さ30m、太さ1.5mの2本の大注連縄を大蛇に見立て、「加用」(かよう)と呼ばれる紋付裃姿の若者2人が日本刀で切り、悪霊退散や五穀豊穣、豊漁を祈願。この神事は、素盞嗚尊(すさのうのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した故事に由来すると言われています。
最初に獅子舞が奉納され、次に裃を身に纏った2人の加用が、用意された大注連縄の前に立ち日本刀を持って身構えます。「一の太刀」、「二の太刀」と刀が振り下ろされるたびに観覧者の注目が集まり、加用と観衆が揃って太刀を振り下ろす回数を数え、縁起が良いとされる奇数回で大注連縄を断ち切ると、大きな声が上がるのです。切られた大注連縄のわらは、田畑の虫よけなどにご利益があると言われているため、住民らが持ち帰って神棚に供えます。
この神事で使われる日本刀は、普段は安乗神社に大切に安置。また大注連縄は神社関係者や住民が20人以上で早朝から拵えることになっています。
加用と獅子
しめ切り神事の主役となる注連縄を切る役目の加用には、誰もがなれるわけではありません。この地区では古くから祷家(とうや)制度という独特の風習があります。
この制度では氏子の子どもが小学生低学年になると、1年間安乗神社にお務めすることになっています。神社の祭典に参列したり、体を清めるための塩水を運んだりと様々な行事に参加。こうしたお務めを経験した男性が加用としての資格を得ることになります。
さらに加用になるには①既婚者であること、②42歳までの人、③配偶者が妊娠していないこと、④喪中でない人、という条件をクリアしなければなりません。神社では毎年対象者の中から加用を選ぶことになりますが、中には立候補する人もいるそうです。加用に任命された人は、当日、身を清めたあとに裃を着用し、大注連縄に対峙することになります。
現在の安乗神社は、かつては八幡神社と言われており、元々の安乗神社は別の場所にありました。現在の安乗神社は明治末期に村内11社の御祭神を合祀(複数の神様をひとつの神社に祀ること)した物で、この時から安乗神社の名称を使用することになったのです。それまで武運の神である応神天皇と神功皇后を主神として祀っていましたが、合祀によって祭神が18に増加。現在は多くの神様が祀られています。
しめ切り神事は、旧安乗神社の時代から始められたと伝えられていますが、いつ頃にどんな目的で始められたかは文献や資料などの記録が残っていません。
そのため起源についての詳細は不明ですが、神社の記録としては、戦国時代に畔乗(あのり)城を築き、この地を治めていた三浦新助という地頭が旧安乗神社に「野狐丸」(のぎつねまる)という日本刀を奉納したという一文が残っています。この野狐丸の所在及び、しめ切り神事の関係も不明ですが、日本刀がこの地区に深くかかわっていることは確かなようです。
現在の神事で使われる刀は、昭和時代に製造された比較的新しい物が使われています。
現在の安乗地区は、かつては「畔乗」や「阿苔」という字が充てられていました。畔乗が歴史的に最初に紹介されたのは、平安時代に「畔乗御厨」(あのりみくらや)として神饌(しんせん:神様に供える供物)を用意する場所でした。
その後、1290年(正応3年)の志摩国のことを書いた「志陽略誌」(しようりゃくし)でもこの地名が登場します。その後は戦国時代までほとんど登場することはなく、脚光を浴びたのは豊臣秀吉の時代でした。
朝鮮出兵
1592年(文禄元年)、豊臣秀吉の朝鮮出兵に鳥羽城主であった九鬼嘉隆(くきよしたか)が水軍を率いて加勢するために船を出したところ、畔乗沖にさしかかったところで急に船が止まってしまいました。
九鬼嘉隆はのちに「海賊大名」という異名を持つほど海戦に優れた武将。なす術がなくなった九鬼嘉隆は一旦船を下り、八幡神社に戦勝を祈願したところ、風向きが急に変わり、船は追風に乗って無事船を進めることができたと言われています。この戦で武功をたてた九鬼嘉隆は帰朝後、再び神社に参拝に訪れました。
この由縁から名称が「安」全に「乗」るという意味の「安乗」という字に改められたと伝承されています。この名前にあやかって交通安全や勝負の神様として親しまれるようになり、現在では自動車やオートバイ、自転車、船舶、飛行機といった乗り物に関する交通安全祈願ができるとあって、多くの参拝客が訪れる神社となりました。
また、九鬼嘉隆が戦功を得て安乗神社に参拝した際に自ら祭典を執行し、例祭日も定めたと言われており、この時に村民が九鬼嘉隆をもてなすために披露した「手踊り」が現在の「人形芝居」の起源と伝えられています。安乗神社の人形芝居は、境内に作られた舞台で上演され、喜怒哀楽の表現が素朴な上、大胆かつ野趣に富むという特徴があり、400年以上にわたって住民に伝承され、今では国の重要無形民俗文化財として保護されています。
しめ切り神事に先だって、「三番叟」(さんばそう)が正月2日に行なわれますが、これも安乗神社の正月行事のひとつ。三番叟は、能楽の演目である「翁」が原型で、のちに歌舞伎や人形浄瑠璃などで演じられるようになりました。天下泰平、五穀豊穣を寿(ことほ)ぐための儀式曲としておめでたいものです。
安乗神社総代と安乗文楽人形芝居保存会の人々が、三番叟の舞を奉納して今年1年の大漁と五穀豊穣、海上安全を祈願します。これにかかわるのも祷家制度による氏子達。岬先端の砂浜に設置された祭壇に神職が祝詞の奏上や玉串奉奠(たまぐしほうてん)をしたあと、笛や鼓が鳴り響き地謡が謡われる中、3体の人形が優雅に舞います。人形は江戸前期に制作された物と言われ、普段は安乗神社のご神体として安置されているのです。
この三番叟からしめ切り神事までが安乗神社の祷家制度による正月行事であり、古いしきたりに則った優雅な儀式で、しめ切り神事が終わると、安乗の人達の正月が一段落します。