歴女も憧れる女剣士ヒストリー

神功皇后

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古代、朝鮮半島を服属下に置いたとされる「三韓征伐」(さんかんせいばつ)伝説を持つ「神功皇后」(じんぐうこうごう)。卑弥呼(ひみこ)と並び、古代日本の象徴的なヒロインのひとりであり、古代日本における女将軍の象徴とも言える人物です。

目次

朝鮮を帰属させたと伝わる謎多き古代ヒロインのひとり

神功皇后

神功皇后

神功皇后は、日本武尊(やまとたけるのみこと、以後ヤマトタケル)の第2子・14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇后で、15代応神天皇(おうじんてんのう)の母とされる人物。

神と交感する能力を持つ巫女的な女性であったとされ、神功皇后についてのエピソードは、どれも非常に神がかっています。

なかでも、「朝鮮の新羅(しらぎ)を帰服させよとの神託を受けた」ことに始まる「三韓征伐伝説」(新羅征討説話)は、その最たるもので、急逝した夫の仲哀天皇に代わり、神功皇后は女将軍として軍を率いて朝鮮半島に出兵。見事、新羅を征し、百済(くだら)、高句麗(こうくり)の三韓を帰服させたと伝わります。

このエピソードは伝説の域を出ないものではありますが、古代日本の歴史を大きく彩る事柄です。興味深いのは、神功皇后だとされる絵画には、刀剣や弓矢を持った姿がはっきりと描かれていること。彼女自身、刀剣や弓矢で戦った女武将だったのでしょうか? まずは、神功皇后の人物像を紹介しましょう。

古代日本の二大歴史書 古事記と日本書紀に登場する神功皇后

古事記

古事記

神功皇后の逸話は、主に西日本各地の神社を中心に数多く伝承されていますが、その人物像を具体的に知ることができるのは、古代日本の二大歴史書とされる「古事記」(こじき:712年成立)と「日本書紀」(にほんしょき:720年成立)です。

この2つは総称して「記紀」(きき)と呼ばれていますが、ともに奈良時代に編纂された物。前段が少し長くなりますが、神功皇后像を知るうえでのポイントでもある記紀を簡単にご紹介しましょう。

編纂を命じたのはともに天武天皇(てんむてんのう:在位673~686年)です。諸家が所有していた「帝紀」(ていき:天皇の系譜の記録)や「旧辞」(きゅうじ:日本古代の口承された神話・伝説を記録した物、各氏族伝来の歴史書)には多くの誤りがあり、歴史を正しく改めて後世に伝えようと決意し、編纂事業に乗り出したと言われています。

非常に興味深いのが、編纂にあたり取った手順。類まれな記憶力を持った稗田阿礼(ひえだのあれ:性別不明)という舎人(とねり:古代に天皇・皇族の身辺で御用を務めた者)に原資料の帝紀や旧辞を暗記・暗誦させ、その誤りを正しつつ進めたというのです。

日本書紀

日本書紀

記紀は主となる資料が同じであるため、重複する内容も多々ありますが、その性格には少し違いがあります。

端的に言うと、主に国内向けに天皇家を中心とする国家統一の正当性を訴えるために作られたのが古事記で、国外に国家としての日本をアピールする目的で、帝紀や旧辞だけでなく豪族の墓記や政府の公的記録、個人の手記や覚書、海外(主に百済)の文献など、その他多くの資料を参考に作られたのが日本書紀というのが、一般的な解釈です。

そのため、古事記は物語風でどちらかと言うとドラマチックな書き方がされており、一方の日本書紀は「日本の正史」という扱いで淡々と記されています。

そして、神功皇后は、この記紀どちらにも神秘的なエピソードとともに登場している訳ですが、特筆すべきは、彼女について書かれた量の多さもさることながら、その位置付け。

日本書紀は、最初の「神代」の上・下巻を除き、歴代の天皇ごとにまとめられ構成されていますが、その中に神功皇后編もあるのです。これは天皇ではない人物がひとつの編を形成している唯一の例で、ますます興味がそそられます。

古事記:全3巻。天地初発~33代推古天皇まで。40代天武天皇の勅命で稗田阿礼が暗記・暗誦した神話・伝承を太安万侶(おおのやすまろ)が聞き取り記録した物。43代元明天皇(げんめいてんのう)に受け継がれ、712年に完成。現存する日本最古の歴史書。
 
日本書紀:全30巻+系図1巻。天地開闢(てんちかいびゃく)~第41代持統天皇まで。天武天皇が命じ、舎人親王をはじめとする皇族、官人らが中心となって編纂。720年に完成。編年体(起こったできごとを年代順に記載)で書かれた、現存する日本最古の正史(国が編纂した歴史書)。

父が不思議がるほど叡智にあふれていた「オキナガタラシヒメ」

神功皇后の名は、日本書紀では「気長足姫」(おきながたらしひめ)、古事記では「息長帯比売」(おきながたらしひめ)と記されています。

第9代開花天皇(かいかてんのう)の曾孫(ひまご)にあたる氣長宿禰王(おきながすくねのおおきみ)の娘で、母は朝鮮からの渡来人(一説には新羅王子)の玄孫(やしゃご)の葛城高顙媛(かつらきのたかぬかひめ)。

幼少の頃から非常に聡明で叡智にあふれ、かつ容貌も壮麗な姫であった神功皇后のことを、父はどこか人間離れしていると感じていたとも記されています。

ヤマトタケルの子・仲哀天皇の后に

仲哀天皇

仲哀天皇

神功皇后が活躍したとされる時代は、諸説ありますが、天皇を長とする「大和朝廷」(やまとちょうてい)がその勢力範囲を徐々に拡大していこうとしていた時代。

ヤマトタケルの父で12代景行天皇(けいこうてんのう)が崩御したあと、息子の成務天皇(せいむてんのう)が皇位に就きますが、子宝に恵まれず、成務天皇の異母兄弟であるヤマトタケルの子が皇太子となります。

これが神功皇后の夫となる14代仲哀天皇です。神功皇后は、仲哀天皇の即位後2年のとき、皇后として迎えられています。

神功皇后は3~4世紀ごろに活躍?

神功皇后は、日本書紀によると100歳まで生きたとされ、未詳ながら170~269年をその一生とする記述もありますが、息子の応神天皇の在位が5世紀初頭前後とされていることから、3~4世紀頃の人物ではないかと考えられています。

神功皇后の三韓征伐が、多くの渡来人の来日のきっかけに?

「荒れてやせた熊襲より、優れた宝のある国をめざせ」

三韓征伐

三韓征伐

皇后という立場にありながら、神功皇后を一躍、時の人としたのは、海の向こうの異国・新羅への出兵を行ない、朝鮮半島の広い地域を服属下においた三韓征伐によるところです。

三韓とは、当時、朝鮮半島にあった新羅・高句麗・百済の3国のこととも言われますが、もともと古代朝鮮半島南部を割拠した朝鮮民族(韓族)の呼称で、3世紀半ば頃、朝鮮半島南部が「馬韓」(ばかん)、「辰韓」(たっかん)、「弁韓(べんかん)または弁辰(べんしん)」の3つの国に分かれていたことがその名の由来とされています。

実はこの三韓征伐、天皇を長とする当時の中央組織・大和朝廷によって計画されたものではありません。

もともとは神功皇后の夫・仲哀天皇が、大和朝廷に抵抗する九州の熊襲(くまそ)を討伐するため、儺県(ながあがた=福岡市博多)の香椎宮(かしいぐう)を訪れたことに始まります。

香椎宮

香椎宮

神と交感する能力を持っていた神功皇后は、「熊襲より朝鮮の新羅を帰服させよ」との神託を受けます。日本書紀によれば、神託は次のようなものでした。

「熊襲は荒れてやせた地である。どうして兵を挙げて討つ価値があろう。この国よりも優れた、まばゆいばかりの宝であふれた国がある。その名は、新羅国という。もし、私をよく祀ってもらえるならば、刀を血で汚すことなく、その国を必ず帰服させることができるだろう。そして熊襲もまた、服属するであろう」

「西に国など見えない」と神託を信じず急逝した仲哀天皇

しかし、仲哀天皇は、これを疑います。「先代の天皇達は、天つ神と国つ神、ことごとく天神地祇(てんじんちぎ=すべての神々)をお祀りしてきている。どうしてまだ残っている神がおられるものか」と。

そして、高い丘の上に登り、遥か大海を望みますが、そのような国は見えず、「あまねく見まわしても海だけがあり、西に国など見えない」と信じなかったのです。

そこで、神は再び神功皇后に乗りうつり、「天上から、水に映る影のように鮮明に、その国を見下ろしている私の言葉をどうして誹謗(ひぼう)されるのか。あなたが最後まで信じないのであれば、あなたがその国を得ることはできないだろう。たった今、皇后は子を身ごもられた。その御子がその国を得ることになろう」と神託を下すのですが、仲哀天皇はなおも信じず、強引に熊襲征討を実施したものの、結果、勝つことができずに帰還。そして神の怒りを受けた仲哀天皇はしばらくして病に襲われ、崩御。52歳だったと伝わります。

「ことが成功すれば群臣の功績に、成就しなければ罪は私一身にある」

神功皇后は、夫の死に心を痛めながらも、「天皇の急逝を知ったなら、人民の心に隙が生じてしまうであろう」と仲哀天皇の崩御を秘します。

一方で、祟(たた)りの神を知り、その上で神の言う「優れた宝のある国」を求めたいと思い、群臣らに命じて罪を祓って過ちを悔い改めるため、小山田邑(おやまだむら=福岡県古賀市小山田)に斎宮(いつきのみや)を造らせ、神功皇后自らがその神主となって、さらに神託を聞こうと努めたとされています。

そして、神の教えにしたがって神々を祀った結果、まず熊襲征討を成し遂げます。その後、香椎宮に帰り、西方(新羅)への征討を決意。髪をほどいて頭髪を海水にすすぐと、霊験によって髪は2つに分かれ、神功皇后はその髪を男子のように結い上げたと。そうして男装した神功皇后は、神の心にしたがって大三輪社(おおみわのやしろ=福岡県朝倉郡)を建て、刀剣や矛を奉って軍兵を集めます。

日本書紀が伝える、新羅征討に際して群臣を集めたときの神功皇后の決意の言葉に心が打たれます。

「今、征討軍を派遣しようとしている。このことを群臣に託すが、もし、成功しなかったら、罪は群臣にあることになってしまう。それははなはだ心痛むこと。私は婦女であり、そのうえ不肖の身であるが、しばらく男性の姿となり、強いて雄大な計略を起こすことにしよう。上は天地地祇の霊力をこうむり、下は群臣の助けによって軍団の士気を奮い起こし、険しき波を渡り、船舶を整えて財宝の土地を求めよう。もしことが成功すれば、群臣よ、ともにそなた達の功績となろう。ことが成就しなければ、罪は私一身にある」

天下のために国家を安らかに運ぶ手立てを考え、一方で罪は臣下に及ばないと語る神宮皇后の言葉に、群臣はみなともに戦う決意を固めます。

天地地祇の後ろ盾を得て

亡くなった夫に代わり、自ら将軍となり軍を率いて新羅へと渡海する神功皇后。出航するや、風の神、波の神に助けられ、さらには大小の魚が寄り集まって船の進行を助け、帆船は舵や櫂を労せずたちまち新羅に到着したと日本書紀は伝えます。

そして新羅の王は、この天地地祇の後ろ盾を得た神功皇后軍の勢いに圧倒され、戦わずして降参。さらに神功皇后は百済、高句麗も帰順させ、三韓征伐を成し遂げるのです。

女武将として軍を率いるため、「石」をお腹に当て出産を遅らせた逸話も

月延石

月延石

この神功皇后の三韓征伐には、もうひとつ、神功皇后のすごさを物語る逸話があります。

実は神功皇后、崩御した天皇の御子(のちの応神天皇)をお腹に宿したまま朝鮮へと出向いており、臨月を迎えたときには、お腹に「月延石」(つきのべのいし)や「鎮懐石」(ちんかいせき)と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされているのです。

そして、無事に帰還したのち、筑紫の地(福岡県)で応神天皇を出産。現在、この神功皇后伝説に由来した石は、「月読神社」(つきよみじんじゃ=京都市西京区)、「鎮懐石八幡宮」(ちんかいせきはちまんぐう=福岡県糸島市)、そして壱岐(いき)の「本宮八幡神社」で祀られています。

また、鎮懐石は、筑紫地方において実在が伝えられており、8世紀初頭の歌人・山上憶良(やまのうえのおくら)の歌に、具体的な寸法とともに人々が盛んに参拝していた様子が描かれています。

そして、神功皇后はその後、大和で御子(のちの応神天皇)を皇太子に立てて後見し、反乱の企てを制圧しながら大和王権を確立していったと伝わります。

夫亡きあと、神功皇后は摂政的な立場で皇子を支える

記紀において、神功皇后が皇位に就いた記述はないものの、先に紹介したように天皇に準じた扱いがされていることから、応神天皇が即位するまでの神功皇后は、平安前期に職名として登場する「摂政」(せっしょう:君主に代わって政治を執り行なうこと)と同じような立場であったと考えられています。

そして何と、その摂政としての在任期間は、100歳で亡くなるまでの69年間にも及んでいます。

日本初の肖像入り紙幣に抜擢された神功皇后のモデルとは?

実は、神功皇后は、明治期に再び大きな脚光を浴びるのですが、ご存知でしょうか。1881年(明治14年)に日本で本格的な肖像入りの紙幣が登場した際、それに使われた最初の人物となったのです。

また、明治から太平洋戦争敗戦までは教科書にも掲載され、実在の人物として教えられていました。

しかし、多くの神がかった逸話は事実とは考えにくいとして、現在では神功皇后の存在自体も実在説と非実在説が並存している状態です。

非実在説のひとつとしては、次のようなエピソードが神功皇后伝説のもとになったのではないかと言われています。

7世紀に新羅出兵を指揮した斉明天皇がモデル?

斉明天皇

斉明天皇

7世紀半ばの飛鳥時代、日本史における一大政治改革として知られる「大化の改新」が起こります。

この中心人物のひとり・中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ=天智天皇)と、その弟・大海人両皇子(おおあまのおうじ=天武天皇)の母であり女帝であったのが、第37代斉明天皇(さいめいてんのう=在位 655~661年)です。

一説には、神功皇后の三韓征伐伝説は、この斉明天皇が新羅・唐連合軍に滅ぼされようとしていた同盟国の百済への救援軍派遣を指揮し、自ら九州へと行幸した事績がモデルとなっているのではないかと言われています。

日本史上初の譲位を行ない、大化の改新にも深くかかわった斉明天皇

斉明天皇は、女性でありながら、その2代前にも第35代皇極天皇(こうぎょくてんのう=在位594~661年)として皇位についていた人物。夫の舒明天皇(じょめいてんのう)の死後、継嗣となる皇子が定まらなかったため、49歳で即位。

その後、大化の改新が始まった大化元年に弟の孝徳天皇(こうとくてんのう)に譲位しますが、孝徳天皇が在位わずか10年で没してしまったため、斉明天皇として復位したのです。

斉明天皇(皇極天皇)は、日本の歴史上、大きく2つの特徴を持った天皇です。一度退位した天皇が再び皇位につくことを「重祚」(ちょうそ)と言いますが、この重祚は現在まで斉明天皇を含め2例(もう1例は46代孝謙天皇→48代称徳天皇)しかありません。しかも、譲位をした天皇としても初です。

そしてもうひとつの特徴は、彼女が皇極天皇時代、天皇家をしのぐ力を持ち実権を掌握していたのが、大臣であった蘇我蝦夷(そがのえみし)の子・蘇我入鹿(そがのいるか)です。蘇我氏はその勢いのまま権力集中を目指しますが、645年、官僚制的な中央集権国家を目指した中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによって殺され(乙巳の変)、これにより大化の改新へと進むのです。

そして、日本書紀によると、斉明天皇として復位したのちは、飛鳥に巨大な宮を作り、さらには、658年、65歳のときに阿倍比羅夫(あべのひらふ)に蝦夷地(北海道)平定を命じ、水軍180隻を率いた遠征まで実施させて帰順を成功させています。

斉明天皇の事績を神功皇后の三韓征伐のモデルとする説の根拠は、「息長」にあり?

こういった背景を持つ斉明天皇は、在位5年目の660年、百済が新羅に敗北し、その遺民が抗戦を続けていることを百済の使者より知らされると、人質として日本に滞在していた百済王子の豊璋(ほうしょう)を百済に送るとともに、百済遺民を援護するため、筑紫(福岡県)の朝倉宮に遷幸し戦争に備えたとされています。

しかし、翌年の661年、遠征の軍が出立する前に、朝倉宮にて68歳で崩御。斉明天皇亡きあと、朝鮮へと向かった大和朝廷(倭国)の軍は、百済遺民と連合し、唐(中国)・新羅連合軍と戦いますが、敗北します。この戦いが、663年の白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)です。

そして、この事績が三韓征伐伝説のモデルではないかとされる説の根拠は、神功皇后の息長帯比売という名にあると考えられています。

「息長」は、古代近江国坂田郡(滋賀県米原市)を本拠とした豪族「息長氏」に由来する名で、6世紀後半に在位した第30代敏達天皇(びだつてんのう)の皇后・広姫(ひろひめ)は、この息長一族の娘。

その血を引くのが第34代舒明天皇で、正式な名を「息長日足広額」(おきながたらしひひろぬか)と言います。

この舒明天皇の后が斉明天皇(皇極天皇)であり、神功皇后の三韓征伐伝説は、7世紀の舒明朝~斉明朝時代に起こった事績をもとに、資料も不確かな神功皇后の時代(3~4世紀頃)に思いを馳せ、脚色されて8世紀になって成立した古事記や日本書紀に掲載されたのではないかと考えられているのです。

神功皇后は、実在したか否か

また、古事記や日本書紀は、奈良時代に律令制を整備したことで知られる40代天武天皇が、正しい国史を後世に残そうと編纂したと伝わる物ですが、天皇家の起源は神話から始まっており、ちょうど神功皇后の夫である仲哀天皇と、神功皇后の子である応神天皇との間が、実在性の分岐点ではないかとも言われています。つまり、神功皇后もその狭間の人物ということになります。

例えば、仲哀天皇の身長を「十尺(約3m)もあった」(日本書紀)と記載するなど、特に仲哀天皇までの記載においては、その信ぴょう性に、どうしても疑問符を付けざるを得ないエピソードも満載。

しかしこれは、ギリシャ神話同様、「そうであったのかもしれない」と物語のエピソードのひとつとして受け入れるのも、歴史の楽しみ方としてあるのではないでしょうか。

神功皇后は、日本に技術革新をもたらせた応神天皇時代の土台を築いた?

また、こういった見方も。

古事記や日本書紀において、かなり史実性が高い記載がされていることからも実在性の分岐点とされる応神天皇の時代は、農地の耕作を目覚ましく進めた鉄製の農具や武器が普及したことが考古学的にも確認されています。そしてこれは、多くの渡来人が来日し、大陸の優れた文物や技術が導入されたからだと。

百済から渡来した学者・阿直岐(あちき)は、駿馬と太刀をもたらし、同じく学者の王仁(わに)により、「論語」(ろんご=中国の儒教の根本文献)や「千字文」(せんじもん=中国・六朝時代の教科書)がもたらされたと。さらには、縫女(ぬいめ)や酒造りの技術者も来日し、日本の社会に技術革新を引き起こしたとも(「歴代天皇総覧」中公新書参考)。

神功皇后の三韓征伐は、それにまつわる数々のエピソードの有無はさておき、この応神天皇の時代の土台を、母として、また大和朝廷の長として築いた事績であったのかもしれません。

七支刀

七支刀

それを裏付けるひとつの刀があります。「七支刀」(しちしとう=全長74.8cm)と呼ばれる物で、奈良県天理市の「石上神宮」(いそのかみじんぐう)の社宝で国宝の鉄剣です。

4世紀頃、百済が倭に対し進呈した物とされ、日本書紀に神功皇后摂政52年に百済から進呈されたと記載されている「七枝刀」(ななつさやのたち)にあたると推測されています。

刀剣にまつわる神事・文化・しきたりなどをご紹介します。

日本の剣~神剣・鉄剣~の紹介動画

日本の剣~神剣・鉄剣~

神話か? 実在か? その境界線上のロマンあふれる神功皇后伝説を訪ねる

神功皇后の墓とされる「神功皇后陵」(五社神古墳)

神功皇后の墓とされる「神功皇后陵」は、遺跡名としては「五社神古墳」(ごさしこふん)と呼ばれ、全長275mの前方後円墳です。大和王朝の王墓が多くある佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)のひとつで、4世紀末~5世紀初めの古墳とされています。

所在地:奈良市山陵町(みささぎちょう)

神功皇后の三韓征伐を加護した神を祀る「住吉大社」

住吉大社

住吉大社

住吉大社は、全国に約2,300社余りある住吉神社の総本社で、神功皇后摂政11年の建立。

神功皇后の三韓征伐(新羅遠征)の際、その昔、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎ)により海中から出現したとされる「底筒男命」(そこつつのおのみこと)、「中筒男命」(なかつつのおのみこと)、「表筒男命」(うわつつのおのみこと)の三神の加護で船団が導かれたとされ、神功皇后が帰還後、この三神を祀ったのが起源とされています。

のちに、三神を鎮斎した神功皇后も併せて祀られるようになり、この四神を総称して「住吉大神」と呼ばれるようになりました。

住吉大神は、航海安全をはじめ多くの神徳がありますが、神功皇后ゆかりのものとしては、「弓の神」があり、住吉大社では、三韓征伐のとき、「神功皇后自らも弓鉾をとり、大いに国威を発揚せられた」と伝えられています。

また、神功皇后は住吉大神の鎮斎に際し、その警護のために土師弓部(はじのゆみべ)16人を当社に置いたとされ、その故事にちなんで、邪気退散・天下泰平を祈願し、御結鎮神事(お弓始め)が、新春に行なわれています。

所在地:大阪府大阪市住吉区

新羅遠征(三韓征伐)の神託を下した神を知るため、神功皇后が籠った「小山田斎宮」

日本書紀において神功皇后は、夫・仲哀天皇が神の怒りにより崩御したのち、その神の存在を明らかにするために、小山田邑に斎宮を造らせ、7日7晩祈ったと伝えられており、その宮が「小山田斎宮」(おやまださいぐう)だとされています。

斎宮については、もうひとつ粕屋郡久山町にもあり、こちらも日本書紀に書かれた斎宮だとされています。

所在地:福岡県古賀市小山田

神功皇后軍が武器を研いだ「砥上神社」(中津屋神社)

神功皇后が、新羅征討を決意したのち、諸国の群衆を招集し、兵器を研ぎ磨かせ、武神の武甕槌神(たけみかづち)に武運を祈ったとされるのが、「砥上神社」(とがみじんじゃ)です。

研ぎ磨かせた刀剣はどのような物だったのでしょう。考古学的には、日本には同時期に銅と鉄が入ったと言われており、銅剣は歳祀用となって巨大化し、鉄剣は実用品として普及していきます。おそらく神功皇后軍は鉄剣を持っていたと考えられています。

また、武神の武甕槌神を祀ったのは砥上岳を登っていった場所だと言われ、登山道には神功皇后にちなんだ「ひづめ石」、「禊(みそぎ)の原(はる)」、「兜石」(かぶといし)などが伝わっています。

所在地:福岡県朝倉郡筑前町

鎮懐石を祀る「鎮懐石八幡宮」

鎮懐石八幡宮

鎮懐石八幡宮

お腹に御子を身ごもったまま新羅へ出兵した神功皇后は、2個の鎮懐石を肌身に抱いて出産を遅らせました。この逸話のゆかりの神社のひとつが鎮懐石八幡宮です。

神功皇后は安産を喜び、「径尺の璧石(たまいし)を、子負ヶ原(こぶがはら)の丘上にお手ずから拝納されてより、世人は鎮懐石と称して、その奇魂(くしみたま)を崇拝するようになった」と伝わっています。

以降、鎮懐石八幡宮は子授け・安産の子宝神社として信仰が継続。また、この神社は深江海岸の高台に建っており、美しい夕日を眺望できる神社としても有名です。

所在地:福岡県糸島市

月延石を祀る「月読神社」

月読神社

月読神社

神功皇后の鎮懐石の逸話については、壱岐の本宮八幡神社と京都の月読神社もそのゆかりの地とされています。

月読神社は、松尾大社の摂社で、境内には「聖徳太子社」、「御船社」とともに月延石が鎮座。

月延石は、安産石とも言われており、34代舒明天皇が月読尊(つきよみのみこと=天照大御神の弟神)の神託を受け、神功皇后がお腹を撫でて安産された石を筑紫(福岡県)より求められ、月読神社に奉納したとされています。

現在では「戌の日」に安産の特別祈祷が行なわれ、祈祷後、「安産祈願石」に名前を書き、月延石の前に、お供えをしてお参りをするという風習が残っています。

所在地:京都市西京区

神功皇后への百済からの進呈物か? 国宝「七支刀」を社宝とする「石上神宮」

石上神宮

石上神宮

日本最古の神社のひとつとされる石上神宮。古代、武門の棟梁とされた物部(もののべ)氏の総氏神であったとされ、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されています。

この石上神宮の神庫(ほくら)に長く伝わる古代の遺品の中に、社伝では「六叉鉾」(ろくさのほこ)と称されてきた物がありましたが、その刀身に記された銘文により、現在では七支刀と呼ばれ、1953年に国宝に指定されています。

そしてこれが、日本書紀に神功皇后摂政52年に百済から進呈されたと記載される七枝刀にあたると考えられているのです。身の左右に各3本の枝刃を段違いに持つ特異な形をした鉄製の剣で、全面が鉄さびに覆われていますが、剣身のには表裏合わせて60字ほどの銘文が金象嵌(きんぞうがん)で現わされており、それによると、制作年は369年ではないかと考えられています。

所在地:奈良県天理市布留町

神功皇后

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富田信高の妻

富田信高の妻
伊勢国(三重県)安濃津(あのつ)城主・富田信高(とみたのぶたか)の妻。肥前平戸(ひぜんひらど)藩主・松浦鎮信(まつうらしげのぶ)が著した戦話「武功雑記」(ぶこうざっき)にも記される、夫の命を自らの槍合わせで救った富田信高の妻の武勇を紹介しましょう。

富田信高の妻

鶴姫

鶴姫
常山城(つねやまじょう)の城主・三村上野介高徳(みむらこうずけのすけたかのり)の妻、鶴姫(つるひめ)は、1574年(天正2年)から翌1575年(天正3年)にかけて起こった「備中兵乱(びっちゅうひょうらん)」の戦いで、三村家が劣勢に追い込まれ、常山城が敵に完全に包囲されると見るや、たったひとりで敵陣へと乗り込んでいきました。その鶴姫の姿を見ていた常山城の従女34人も団結し、「女軍」(じょぐん)として長刀(薙刀)を手に敵陣の中に飛び込みましたが、全員討ち取られてしまったのです。戦いに敗れ、自決した鶴姫と勇敢な従女達の戦いはやがて「常山女軍の戦い」(つねやまじょぐんのたたかい)と言われ、後世に語り継がれることになりました。

鶴姫

中野竹子

中野竹子
1868年(明治元年)8月、会津戊辰戦争(あいずぼしんせんそう)の際、新政府軍参謀であった板垣退助(いたがきたいすけ)が会津若松城(鶴ヶ城)下に侵攻。城下全域が戦闘状態となり銃撃戦が始まる中で、決死隊となる娘子隊(じょうし隊・婦女隊とも言う)の先頭に立ち、薙刀を振るって戦った女性がいました。薙刀の名手と称された中野竹子(なかのたけこ)です。不幸にもその戦いで銃弾に倒れ、22歳の若さで壮烈な死を遂げた彼女の一生を辿ってみましょう。

中野竹子

吉岡妙林尼

吉岡妙林尼
豊後国(ぶんごのくに・現在の大分県)の戦国大名・大友宗麟(おおともそうりん)に仕えていた吉岡鎮興(よしおかしずおき)の妻・吉岡妙林尼(よしおかみょうりんに)は、耳川の戦いで命を落とした夫の死後、息子が城主を務める鶴崎城が島津軍に攻められたとき、女性や農民を率いて籠城戦を展開。敵を欺く見事な采配で島津軍を撃退し、城を奪還することに成功しました。その後、妙林尼は九州の女丈夫と評され、ヒロインの武勇伝として現代まで伝えられています。

吉岡妙林尼

小松姫

小松姫
天下分け目の「関ヶ原の戦い」で親子・兄弟が敵味方に分かれた真田家(さなだけ)を合戦時も、さらに合戦後も武勇と思いやりで支えたとされるのが、真田信之(さなだのぶゆき)の正室「小松姫」(こまつひめ=1573~1620年)です。

小松姫

立花誾千代

立花誾千代
戦国時代、名将達が認めた希代の女武将であり女城主として、歴史家の間でよく知られる「立花誾千代」(たちばなぎんちよ=1569~1602年)。女城主の逸話は日本各地に残されていますが、文書ではっきりと残るのは、この立花誾千代だけだと言われています。

立花誾千代

井伊直虎

井伊直虎
江戸幕府創設の功臣「徳川四天王」(とくがわしてんのう)のひとり、井伊直政(いいなおまさ)。その井伊直政を養育し、徳川家康の家臣としての道を開いたとされるのが、戦国時代、井伊家の「女城主」となった「井伊直虎」(いいなおとら=1582年没)です。ここでは井伊直虎のエピソードと彼女にゆかりのある場所を紹介しましょう。

井伊直虎

義姫

義姫
戦国時代を代表する名将であり、「もう少し早く生まれていれば天下人になれた」と語り継がれる仙台藩初代藩主「伊達政宗」(だてまさむね)。その母で、「奥羽(おうう)の鬼姫」との異名も持つのが義姫(よしひめ=1547~1623年)です。

義姫

板額御前

板額御前
平安時代末期(12世紀後半)に活躍した女武将として名高い「巴御前」(ともえごぜん)とほぼ同時期に、もうひとり、その勇猛ぶりを称えられた女武将がいます。越後(新潟県)の有力な豪族で、越後平氏とも言われた城氏(じょうし)の姫・「板額御前」(はんがくごぜん)です。

板額御前

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