現代の神事・祭礼・伝統芸能

埴生護国八幡宮の宮めぐり神事

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埴生護国八幡宮(はにゅうごこくはちまんぐう)は、富山県小矢部市にある神社です。木曽義仲(源義仲)が「倶梨伽羅峠の合戦」の勝利のため、この埴生護国八幡宮にお祈りしたと言われています。加賀藩前田家によって建てられた社殿は国の重要文化財です。
全国の神社で行なわれる神事のなかには、戦いをイメージし、日本刀を用いた舞いがあります。埴生護国八幡宮の宮めぐり神事もそのひとつ。木曽義仲が戦いに勝利したことに由来しているようです。埴生護国八幡宮の宮めぐり神事に関して、また、もとになった倶梨伽羅峠の合戦や木曽義仲についてご紹介します。

木曽義仲の戦勝祈願から始まった宮めぐり神事

宮めぐりの神事

宮めぐり神事

富山県小矢部市にある埴生護国八幡宮では、毎年9月15日前後の日曜日に秋季例祭が開かれます。

この例祭では例祭式、浦安の舞、神輿帰座祭(みこしきざさい)と神事が行なわれ、最後を締めくくる行事が「宮めぐり神事」です。

宮めぐり神事は、1183年(寿永2年)の倶利伽羅峠の合戦(砺波山源平合戦)の際に、木曾(源)義仲がこの八幡宮に戦勝祈願したことで平氏の大軍に大勝し、そのお礼参りの様子を見習って行なわれるようになったとされ、江戸時代から続いています。

まず氏子の長老2人が、道祖神を祀る長さ4mの道祖幣(どうそへい)を持った先頭を歩き、そのあとに烏帽子に格衣姿で道中袴をはいた御幣(ごへい)捧持者と古文書箱を捧げる男子小学生が十数人、一番後ろに甲冑(鎧兜)で武装した若者らと続きます。

甲冑で武装した若者

甲冑で武装した若者

氏子3世代が揃って隊列を組むことになるこの一団が、笛と太鼓の音に合わせて拝殿外側の広縁を7回半めぐるのです。

最後に武者に扮した若者たちが弓矢・日本刀をかざし、「うぉー」と鬨(とき)の声を上げて本殿に駆け込みます。

素朴で勇壮なこの神事は、小矢部市無形民俗文化財。「とやまの祭り百選」にも選ばれています。

奈良時代に建立された埴生護国八幡宮

宮めぐり神事が行なわれる埴生護国八幡宮は、奈良時代の養老年間に宇佐八幡宮御分霊を迎えるために創建されたと伝えられる古社。

天平時代には大伴家持(おおとものやかもち)が祈願したと伝えられ、平安時代末期1183年(寿永2年)5月に、木曾義仲が倶利伽羅峠の合戦の戦勝を祈願したことが「平家物語」や「源平盛衰記」など多くの古典に記載されています。木曾義仲の逸話により、戦国時代には前田利長や佐々成政ら多くの武将の崇敬を受け、社領を寄進されています。

境内に続く103段の石段は、蓮沼城主だった遊佐慶親(ゆさよしちか)の寄進による物とされており、江戸時代には加賀藩前田家より寄進された本殿や釣殿などの社殿は、国の重要文化財に指定されています。境内入口の社務所前には、源平倶利伽羅合戦800年を記念して木曾義仲の騎馬像が建ち誇り、源氏軍が鳩の案内で得たという名水「鳩清水」が流れています。

宝物殿は歴史的に貴重な史料や武具類を多数所蔵。中でも木曾義仲戦勝祈願書、武田信玄書状は社宝として大切に保管されています。

江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

倶利伽羅峠の合戦

巴御前

木曽義仲と巴御前

木曾義仲が平家を破った倶利伽羅峠の合戦は、平氏による政権崩壊の一因となった戦いで、歴史的にも大きなターニングポイントと見られています。

以仁王(もちひとおう)の平氏追討の令旨に応じて挙兵した木曾義仲は、翌1181年(治承5年)に平家方の大軍を横田河原の戦いで破り、北陸道方面に勢力を広げました。

これに対して平氏は、木曾義仲討伐を目的に、平維盛(たいらのこれもり)を総大将とする10万騎の大軍を北陸道へ送ったのです。木曾義仲軍は越前国で平氏軍に敗れて一旦は越中国へ後退しましたが、再び加賀国より軍を進め、般若野で平氏軍の先遣隊を奇襲攻撃し、退却させました。

平氏軍は、志雄山に平通盛(たいらのみちもり)・平知度(たいらのとものり)の3万余騎、砺波山に平維盛・平行盛(たいらのゆきもり)・平忠度(たいらのただのり)らの7万余騎と二手に分かれた体制で木曾義仲軍を待ち受けていましたが、木曾義仲は源行家などの兵を志雄山に派遣し、平氏軍を牽制。木曾義仲本隊は砺波山へ向かい、家臣の樋口兼光の部隊を平氏軍の背後に回りこませました。

木曾義仲軍は砺波山の平氏軍に夜襲を仕掛け、後方を樋口兼光が堅守。大混乱に陥った平氏軍は逃げ道を探し、慌てて駆け寄った先が倶利伽羅峠の断崖。これにより平氏軍は、次々と谷底に転落し壊滅状態となりました。

平氏に大勝した木曾義仲は、このあと京へ向けて進撃を始め、念願の上洛を果たしました。一方、平家は防戦もできず、安徳天皇を伴って西国へ落ち延びていきました。この倶利伽羅峠の合戦時に戦勝祈願したのが埴生護国八幡宮で、その武勇は宮めぐり神事によって現代に伝えられています。

「火牛の計」作戦の真実

倶利伽羅峠の合戦で、木曾義仲軍が角に松明をくくり付けた何百頭の牛を、敵中に向けて放ったということが「源平盛衰記」に書かれており、源平合戦の中でも有名なシーンとして紹介されています。

この奇襲攻撃は中国戦国時代の斉国の武将だった田単(でんたん)が考えた「火牛の計」(かぎゅうのけい)を模したものとされています。田単が行なったのは、牛の角に剣を縛り、尾に松明をくくり付けて牛を暴走させるものでした。牛の突進によって角の剣が敵兵を刺していく中、火が敵の陣地を襲って火災が発生し大混乱を招くようにしたわけです。

戦国時代に北条早雲がこの作戦を使って小田原城を奪取したと伝えられています。

物語としては非常に面白く、合戦をダイナミックにした場面ですが、目の前で松明の灯がともる牛が、敵に向かってまっすぐ突進していくとは考えにくいということから、歴史家や研究者の間では木曾義仲版「火牛の計」はフィクションだった可能性があると見られています。

波瀾万丈だった木曾義仲の生涯

宮めぐり神事の発祥となった木曾義仲は、波瀾万丈の人生を送ったとされ、その生涯は様々な伝承として残っています。

源頼朝

源頼朝

木曾義仲は平安時代末期の1154年(久寿元年)に武蔵国で生まれました。源氏の血筋を引き、源頼朝源義経とは従兄弟にあたります。幼い頃に父が大倉合戦で討たれたため、木曽の中原兼遠(なかはらのかねとお)のもとで育ちました。

1180年(治承4年)、以仁王による平氏追討の令旨を受けて挙兵し、翌年、平家の城軍を千曲川の横田河原で撃破。1183年(寿永2年)には、倶利伽羅峠で平家の大軍を一夜のうちに壊滅させたことは有名な話です。勢いづいた木曾義仲は北陸道を進み、上洛を果たします。ここで朝日将軍の称号を与えられ、京の守護職になりました。

しかし、以仁王の遺児である北陸宮(ほくろくのみや)を即位させようとした皇位継承への介入や、飢饉などで荒れた都の治安回復の遅れに加え、木曽の山中で育った粗暴さにより、皇族から疎ましく思われるようになり、次第に皇族たちと不仲になっていきます。

やがて皇族たちは源頼朝を立て、木曾義仲追討を企てました。源頼朝は源義経らが率いる鎌倉軍を京に送り込み、木曾義仲を追いつめていきます。追いつめられた木曾義仲は、法住寺殿を襲撃し、御所から逃げようとした後白河法皇を幽閉しました。

1184年(寿永3年)には征夷大将軍となり、鎌倉軍との戦いを回避するように仕向けますが、木曾義仲に味方する者はおらず、ついに鎌倉軍との戦いに敗れ、近江国粟津ヶ原で31歳の生涯を閉じました。

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埴生護国八幡宮の宮めぐり神事

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