古武道の鍛錬とは、剣術など古武道の技術だけでなく、武術を行なう者=武者としての心構えや精神性も修養することだとされています。剣舞(けんぶ)における演者にとっても、ただその型を真似るのではなく、精神、技術ともに詩の主人公を体現することが優れた表現なのだと考えられています。
剣舞(けんぶ)を舞台芸術へと昇華した日比野雷風は、文明開化によって「武士道精神が消滅」してしまうことを危惧する皇太子の御附武官・杉山直弥大佐に促され、武術と武者としての精神を宿す新たな剣舞を創造することに取り組みました。
以降、剣術や居合術などの古武道を深く、広く研究した雷風は、吟詠(ぎんえい)に合わせて剣術、武術の型を取りこんだ剣舞を舞う神刀流剣武術を開眼。吟剣詩舞(ぎんけんしぶ)の普及を通じて、雷風は人々に古武道の素養とそこに宿る精神への興味を喚起し、継承することを目指しました。
しかし、杉山大佐が消失を危惧した武士道精神とは、具体的にはどのようなものなのでしょうか。
新渡戸稲造
欧米との親善に尽力した教育者・新渡戸稲造がアメリカで発行し、その後広く諸外国でも紹介された英文の著書「武士道」にその概要を見ることができます。
武士道とは、武士が統治した封建社会において形成、尊重された道徳倫理です。日本独自の道徳倫理である武士道は、仁・義・礼・智・信・忠・誠と名誉を重んじ、厳しく自己を律するものであり、武士=男性だけではなく、武家社会の子女にも求められた人として生きる姿勢を表しています。
主君に対して、御家人が仕えることを基本構造とする武家社会を継続していくためには、個人を優先するのではなく、主君への忠義や社会との調和、社会的責任を重視する武士道の精神が必要不可欠でした。
武士が腰に差す大小の二刀は、自身の身分、忠義、名誉の象徴であり、武勇の証し。しかし、武具である刀を常に携帯する者には、相応の責務もあり、厳しい道徳倫理感を併せ持たねばなりません。また、一振りで人を斬り倒すことのできる日本刀は、むやみに振りかざして良い物ではないのです。
武具を常に携帯する行政官僚として、武士達が形成し、遵守した道徳倫理感を欧米諸国に紹介したのが、新渡戸の武士道。新渡戸の著述を通じて武士道を知った欧米諸国の人々は、その高潔で真摯な道徳倫理に驚き、深い感銘を受けました。
吟剣詩舞を誕生へと導いた杉山直弥大佐、重野安釋博士、彼らに教示され神刀流剣武術を開眼した日比野雷風は、個人主義が優先されつつあった藩政崩壊後の日本において、武士道という優れた道徳倫理が消失することを憂い、武術の修得を通じて武士道の精神を継承しようと試みました。彼らは一様に、武士道精神を日本人の美徳として尊重していたのだと考えられます。
雷風が開眼した神刀流剣武術に融合された武術には、戦闘技巧としての側面だけではなく、武士道の倫理観に沿った多くの規律や作法が存在します。そのため、吟剣詩舞を修得しようとする者は、武術の鍛錬を通じてそこに息づく規律や法、武者としての精神も養われることを期待したのです。
舞台芸術である一方、吟剣詩舞は日本人独自の精神世界を表現する、伝統的芸道でもあります。
吟剣詩舞の剣舞には、剣術や居合をはじめとする多くの古武道の形が取りこまれています。そのため、演者は様々な古武道に関する素養を求められます。剣舞における所作は、日本刀の差し方、構え方、斬り方などすべてが剣術に基づいており、対峙する際の作法も同じです。演者には、舞に加えて武術の鍛錬を行ない、正しい剣術を修得する必要がありました。その成果を舞において表現しなければなりません。
古武道の鍛錬とは、剣術など古武道の技術だけでなく、武術を行なう者=武者としての心構えや精神性も修養することだとされています。吟詠に併せて披露される剣舞は、真の武術と、そこに宿すべき精神力と共に表現されるもので、迫真の演技のみが観客を感動させると考えられています。
また、剣舞の詞章(ししょう)、謡曲(ようきょく)となる詩文の意味に対する理解、洞察も、同様に重視されています。演者は、詩に綴られた風景や詩情、主人公の心情を余すことなく理解し、その詩の世界観、主人公の心境を舞で忠実に表現することが求められます。詞章となる漢詩や謡曲に詠われている主人公達は主に武者であり、彼らの身上や人生観を理解して舞うことで、迫真の表情、悲哀や迫力に満ちた動作が可能となり、詩の持つ風景やストーリーの情感が観客に伝えられるとされています。
吟詠者
吟剣詩舞においては、演者、吟詠者はいずれも役柄に即した化粧を施したり、衣装を着用したりすることは殆どありません。何れも紋付、袴や和服といった礼装を着用して舞台に立ち、鉢巻きやたすき等を使用するだけであり、演劇のように小道具や装束と言った演者、吟詠者の表現を補完するものが存在しないため、一層鍛錬に裏打ちされた表現力を要するのです。吟詠者、演者の持てる表現力のみが披露される舞台芸術、吟剣詩舞は簡素な舞台である故に、鍛錬を要する芸術であると言えます。
剣舞における演者にとって型を真似るのではなく、精神、技術ともに詩の主人公を体現することが優れた表現なのだと考えられています。
技術と精神を備えた優れた吟詠者、演者によって舞台上で繰り広げられる表現は、詞章である漢詩、謡曲を解さない観客にも大きな感動を与えることができます。吟剣詩舞を嗜む人々は、優れた表現力の体得を目指して修練を重ねるのです。
発行当時、諸外国でベストセラーとなった新渡戸稲造の武士道は、現在も各国で重版され、日本人の精神世界を紹介する書籍として幅広く愛読されています。
武士道
道徳教育は信仰、宗教が担い、個人を尊重する倫理観をもつ欧米人は、個より主君、社会的責務を重んじて自己を厳しく律する武士道のストイックで高潔な道徳倫理感に驚かされたのです。武士道が発行された明治33年(1900)当時は日本の開国から半世紀しか経っておらず、日本人の文化、価値観などは知られていませんでした。しかし、日清戦争に勝利した日本とその国民性に、欧米人は興味を抱いていたのです。
現代の国際社会においても武士道が象徴する日本人の社会観、倫理観は美徳として讃えられています。災害時の助け合う姿、海外支援の姿勢、日常生活での礼儀正しさなど、日本人の道徳倫理観は、しばしば国際社会で注目を集めています。新渡戸の武士道を契機に、日本人の道徳倫理、人生観を知った欧米人は、日本の文化や伝統武芸に対しても興味を抱くようになりました。
近年では、映画の影響などにより再び「侍~SAMURAI」という言葉とともに、武士の人生観、倫理観が注目を集めました。現代社会においても武士道に代弁される日本人の道徳倫理観は、国際社会において高潔さを認められているようです。「侍」に憧れを抱き、剣道や柔術といった日本の武芸を学ぶ外国人は現在も増えつつあり、日本の武術は世界へと広がっています。
一方、武士や日本人の人生観を吟詠や剣舞で表現する吟剣詩舞もまた、武士道精神が息づく武家社会の芸術として、西欧諸国を中心に愛好者を増やしています。
日本の吟剣詩舞は、舞が日本武道の形により構成され、装束などの演出より精神性の体得による表現が重視されるため、舞台芸術として認められているのです。