幕政時代の末期には、漢詩を教育する際に節を付けて聞かせることが行なわれており、これが吟詠(ぎんえい)、詩吟の原型だと考えられています。吟剣詩舞(ぎんけんしぶ)においての吟詠は舞の詞章、ストーリーを詠ずる伴奏となります。
吟剣詩舞(ぎんけんしぶ)の謡曲、詞章となる吟詠(ぎんえい)とは、漢詩や和歌に節を付けて詠うものです。詩吟(しぎん)とも言われます。
漢詩や和歌の創作や朗詠は、本来は宮廷貴族の趣味でした。貴族が嗜んだ朗詠とは、詩文に節を付けて詠み、さらに笙 (しょう)や篳篥 (ひちりき)、笛などの楽器による伴奏が付いたものです。自作の詩歌を朗詠し合う催しは、宮廷内で盛んに行なわれました。
その後、武士が台頭し武家が政権を担うようになると、有力な武家の子弟は幼少時から漢詩や和歌を学びました。以降、武士層にも漢詩、和歌を作る文化が浸透します。戦国時代の武将達は戦に敗れ自害する際に「辞世の句」を詠むことが多く、武将達の残した優れた句が広く知られています。
戦国時代が終わり、江戸時代になると、武士達は兵士ではなく行政官僚となり、幕府や諸藩が開校した学問所、藩校などに子弟を入学させ、幼少から教育を受けさせます。学問所や藩校では、当時の統治社会の規範となっていた儒教から四書五経(ししょごきょう)の素読、習字、武術などが教えられ、武士層全般に漢詩の教育が広められました。江戸時代の武士には、剣術などの武術だけでなく、儒学や漢詩文などの教養が求められたのです。
詩仙堂丈山寺
石川丈山
なかには、漢詩人として生きるため、武士の身分を捨てる者もいました。京都にある史跡、詩仙堂丈山寺(凹凸窠・おうとつか)の造営で知られる文人・石川丈山(いしかわじょうざん)です。
1583年(天正11年)に武勲の誉れ高い三河武士の家に生まれた丈山は、幼少時より学問に優れた才を発揮。16歳で父を亡くし家督を継ぐと、徳川家康の家臣となります。
士官後、徳川家康が豊臣家と戦った1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で手柄を立てますが、軍令に背き退官してしまいます。武家を離れた丈山は、旧友・林羅山(はやしらざん)の勧めにより藤原惺窩(ふじわらせいか)の下で儒学を学び、以降儒学者、漢詩人、書家として生涯を捧げました。
そして、幕政時代の末期になると、漢詩を教育する際、節を付けて聞かせることが行なわれていたようです。これが吟詠、詩吟の原型だと考えられています。漢詩は型をもつ韻文(いんぶん)文学であるため、リズムや諧調を重視して作られており、節を付けて詠じることに適していました。教育の場を介して漢詩の朗吟は広く武士層に広がり、盛んに行なわれていました。
現代も、多くの愛好者が詩吟の習得に取り組んでいます。吟剣詩舞と同様に、詩吟では理解力などの精神的鍛練を伴うため、子どもから年配者まで幅広い層の人々に嗜まれています。そして、日本各地に教室やサークルが存在し、全国大会やコンクールなども開催されている他、技量に即した階級制を設けた流派もあり、日本人の心を詠う伝統芸能のひとつとして、詩吟は今も発展し続けています。
吟詠、詩吟はそれ自体が単独の芸術、芸能として成立していますが、吟剣詩舞においては舞の詞章、ストーリーを詠ずる伴奏となります。剣詩舞の舞台で朗詠される詩歌には、歴史上の合戦の物語や武将の人生などを題材とした詩文が選ばれます。合戦の模様や武将の心情を情感豊かに吟詠者が詠い、演者は臨場感あふれた剣舞(けんぶ)を舞台上で繰り広げます。
1950年代(第二次世界大戦後)に発行された吟詠、剣舞の指導書には、吟詠者に以下のような姿勢で吟詠することが推奨されています。
これらの心得からも分かるように、剣舞と同様に吟詠においても高い精神性、武者の身上に対する深い洞察と理解が求められており、謹厳実直な鍛錬を重ねるよう推奨されています。
吟詠とは「日本人の心情を歌う伝統芸能」であり、吟詠者は詩文の情景や主人公の情感を再現するために、常日頃から鍛錬を重ねるべし、と考えられていました。こうした心得は、単体の芸道としての詩吟にも同様のものが見受けられます。
吟詠者
さらに、吟詠においては「気魄(きはく)」と「気品」が重要視されており、発声の強弱や声量を、詩文のもつ世界観に合わせて変化させることにより、作者の身上、詩の持ち味、舞のもたらす感動を増幅させる「立派な詩吟」を詠ずることができるとされています。
また、詩文には起承転結があるため、吟詠者もその流れを理解し、展開を熟慮した上で吟詠を盛り立てるよう奨められています。
音楽としての吟詠
単独の芸道としての詩吟は、明治時代初期に学問所や藩校での漢詩文教育が始まりとされていますが、大正から昭和にかけて、木村岳風(きむらがくふう)や真子西洲(まなごさいしゅう)を始めとする名手達の活躍により発展しました。なかでも「近代吟詠の祖」とされる木村岳風は、日本各地を訪ねて土着の詩吟を研究し、独自の吟法を確立、その普及活動を積極的に行ないました。1936年(昭和22年)、木村は「日本詩吟学院」を設立し、後進の育成に尽力しました。
こうした先人達の情熱的な努力の結果、現在では数百とされる詩吟の流派、宗家が存在しています。
詩吟では流派ごとに異なる吟詠法が提唱されていますが、格調高い吟詠法をとる文士調、幕末の志士達の悲しみや怒りを激しく吟ずる勤皇調という吟調は各流派とも取り入れています。この2つの吟調を中心として、様々な調性、吟法を取り込み、流派毎に積極的な活動が展開されています。
詩吟とは、定型の漢詩にリズムや諧調を付けて詠ずるものですが、日本では推古天皇の治世であった618年までに詠われた漢詩に型は存在しませんでした。しかし延喜時代(901~923年)に作られた漢詩は定型で詠まれるようになり、文字数から五言絶句(ごごんぜっく)・七言絶句(しちごんぜっく)・七言律詩(しちごんりっし)・五言排律(ごごんはいりつ)・七言排律(しちごんはいりつ)などの形式が誕生し、詩吟ではその定型の中の一部の音を伸ばして節を付けます。
吟剣詩舞の詞章としての吟詠には、漢詩だけでなく、和歌や近代詩も取り入れられていますが、いずれもその詩の情景、心情を表現するために詩吟と同様に詩文の中の一部の音を伸ばして節を付け、さらに言葉毎に強弱を付けて詠まれます。
吟詠で使用される音階はミ、ファ、ラ、シ、ドの5音からなり、その詩にふさわしいテンポ、リズムに乗せて詠われます。
そして、吟ずる際には美しく明瞭な発音で行なうことが重要視され、歯切れよく、詠っている内容が明確に伝わるように発音することが提唱されています。同様に、言葉のイントネーションについても注意が促されており、正しいイントネーション、アクセントで吟ずるよう求められます。
さらに、詩文のストーリー展開、起承転結に合わせて、全体的な変調、強弱の付け方などを調整し、詩文の中での「間」の置き方、言葉の余韻の調整も、表現する上では熟慮するよう勧められています。
吟剣詩舞の舞台上では、詞章を詠じる吟詠者は演目に即した正装または礼装を身に付け、慎み深く毅然とした姿勢を保ち、真摯に吟詠を披露します。
吟詠者と演者は詩文のもとに一体となり、それぞれに補完し合いながら詩文の世界観を表現しなければなりません。吟詠の変調に即して、演者の舞の所作や強弱も瞬時に変化し、詞章と舞が一体となって詩の世界観を表現する様子は、漢詩を解さない人にも深い感動をもたらします。
剣舞と詩吟、武士の芸事が融合し発展した吟剣詩舞には、潔く、美しく生きようとした武士達の美学が今も息づいています。