徳川10代将軍「家治」(いえはる)と言えば、日本史において「賄賂政治家」と悪名高い「田沼意次」(たぬまおきつぐ)を老中に就かせて田沼政治を行わせたことで、暗君と評価されてしまった不運な将軍です。しかし、そんな家治も幼い頃は徳川家から期待される文武に秀でた人物だったとか。 今回は将軍・家治と老中・意次のエピソードを中心に、家治から酒井家へ贈られた名刀「光則」(みつのり)についてご紹介します。
徳川吉宗
家治は、1737年(元文2年)徳川9代将軍「家重」(いえしげ)と側室である「至心院」(ししんいん)、通称「お幸の方」 (おこうのかた)の長男として江戸城西の丸で生を受けました。幼名は「竹千代」(たけちよ)と言い、3歳のときに家治に改名したのち、4歳で元服して従二位権大納言に就任。
幼少期から学問や武芸に熱心な姿勢を見せていた家治は、儒学や和漢の故事を学び、馬術や砲術に加え、囲碁や将棋なども得意としていたそうです。父・家重が言語不明瞭だったこともあって、徳川家の将来に不安を抱く者が多かった中、聡明な家治の成長は徳川家の希望でした。特に、8代将軍で祖父の「吉宗」(よしむね)は、家治に対して特別な期待を寄せ、息子・家重には伝授できなかった帝王学を自ら教え込んだと言われています。
幼い家治と祖父・吉宗の印象的なエピソードとして、家治が草書体で「龍」の字を紙に書いた際、あまりに勢いよく書いたため、最後に点の部分を書く場所が無くなってしまうと、家治は紙からはみ出しつつもしたたかに畳に点を打ったのです。これを見た吉宗は「天下人にふさわしい器量を持った子だ!」と喜んだとか。こうして祖父・吉宗の寵愛を受けながら、家治は将軍になるための道を歩んでいったのです。
田沼意次
1760年(宝暦10年)に父・家重の隠居に伴い家督を相続し、24歳で10代将軍に就くこととなった家治。父・家重を慕う温厚な性格で、家臣達に対しても温情厚く接していたとのこと。
また、周囲の評判が賛否分かれていた「田沼意次」を側用人(そばようにん:将軍のそばに仕え、将軍と老中の間を取り次ぐ役)として信任したことも、父・家重からの「田沼意次は正直な人間である。将来にわたって召し抱えるように」という遺言に従ったためだと言われています。
田沼意次の父「意行」(おきゆき)は、家治の祖父・吉宗が将軍職に就く前から側近として召し抱えられていた人物で、吉宗の将軍就任と共に旗本となり将軍家に仕えました。吉宗の代から始まった田沼家と将軍家の関係は、次代・家重にも受け継がれ、意行の長男・意次が田沼家の家督を継ぐと、意次は16歳で西の丸小姓として家重に仕えることとなります。
この様子を生まれた頃から見てきた家治は、父の遺言通り意次を側近として重用し、意次は家治のもとで昇進を重ねていきました。1772年(安永元年)に老中の座まで上りつめた意次は、家治の後援を受けながら、やがて政権を握るようになります。こうして江戸幕府には、意次が専横的(せんおうてき:好き勝手に振舞うこと)な政治を行う「田沼時代」が到来するのです。
南鐐二朱銀
側用人から老中になるという前例にない昇進を果たした意次。家治の治世は田沼時代と呼ばれ、政治に積極的に関与しなかった家治に代わり、意次が次々と改革を行うこととなっていきます。
意次は、これまで家治の祖父・吉宗の代から継承してきた「享保の改革」を転換し、商業資本の活用によって民間経済の活性化を図ることで、幕府財源を潤す政策を打ち出したのです。
商業主義の代表的な政策のひとつに「株仲間の結成」が挙げられます。意次は、主要都市のみならず各地で商工業者の同業組合である株仲間を結成させ、商品の仕入れや販売の独占権を与える代わりに、運上金(うんじょうきん:一定の税率を定めた税金)や冥加金(みょうがきん:幕府への献金)で税収増加を図りました。
これによって巨額の富を得た商人と組んで新田開発にも注力し、さらに、新たな貨幣の鋳造にも積極的に取り組み、1772年(安永元年)には「南鐐二朱銀」(なんりょうにしゅぎん)という金貨の代用となる銀貨を鋳造して、これまでの金を使っていた関東と、銀を使っていた関西の2本建ての通貨制度から、金貨による貨幣制度の一本化を実現します。
こうして田沼政治による経済の活性化が行われたものの、江戸はこれまでの流れから一転して「お金」重視な世の中へとなっていきました。
浅間山
さらに、1781~1789年の天明年間には、浅間山(あさまやま)の大噴火や天候不順による飢饉が発生したことにより、農民一揆が頻発することに。社会的に不安定な状態が続いたところに田沼政権による賄賂政治が横行し、秩序の乱れと共に、世の中は混沌とした状態に陥っていきました。
また、意次は権力保持のために田沼家一族と幕閣の有力者達との縁組を次々と結ばせていきます。これによって大名や旗本の間では「田沼詣で」による贈賄が習慣化し、賄賂による出世が当たり前のようになっていたのです。
徳川家治
1786年(天明6年)、およそ25年間将軍を務めた家治は50歳で逝去しました。しかし、この家治の死に対して、意次の陰謀だと唱える声が上がったのです。風邪で重体となった家治を奥医師が治療するも回復しなかったため、意次が連れてきた町医者を治療にあたらせたところ、病状はさらに悪化して帰らぬ人となってしまった、という家治の最期から推察して「意次による毒殺」ではないかという風説が広まってしまったそう。
これを利用して、反田沼派は意次を老中罷免とし、失脚へと追い込みます。ただし、老中として地位を確立していた意次が、わざわざ家治を毒殺する動機は考えにくく、反田沼派が意次を追放するために流布した策略ではないかという説が語られるようになりました。
また、この反田沼派は、のちに「寛政の改革」を牽引することとなる「松平定信」(まつだいらさだのぶ)が主導となって動いていたと言われています。
こうして家治の死と共に、賄賂にまみれた意次の人生も崩壊することに。財産や屋敷を没収されてすべてを失った意次は、家治の死から2年後の1788年(天明8年)に70歳でこの世を去りました。このように、家治は田沼政治において表立って行動しなかったこともあり、将軍としての評価は賛否が分かれています。幼少期に徳川家の希望とされていた家治ですが、祖父である吉宗の期待には大きく応えることはできなかったようです。
家治が将軍となった翌年の1761年(宝暦11年)8月、出羽国「庄内藩」(でわのくにしょうないはん:現在の山形県鶴岡市)5代藩主「酒井忠寄」(さかいただより)の老中満期に伴い、家治は「光則」の太刀を授けました。
この太刀の授与は、江戸幕府の公式史書である「徳川実紀」(とくがわじっき)に記載されており、家治の治績がまとめられた「浚明院殿御実紀」(しゅんめいいんどのごじっき:浚明院は家治のおくりな)に「光則の御刀賜わりて労し給ふ」という一文が記されています。
太刀 銘 光則
銘 | 時代 | 鑑定区分 | 所蔵・伝来 |
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光則 | 南北朝時代 | 重要刀剣 | 徳川家治→ 酒井家伝来→ 刀剣ワールド財団 〔 東建コーポレーション 〕 |
光則は、多くの名工を輩出した備前国長船(びぜんのくにおさふね:現在の岡山県瀬戸内市)の隣地で鎌倉時代後期から室町時代に亘って栄えた「備前国吉井派」(びぜんのくによしいは)の刀工です。
本刀は細身ながら姿が良く、吉井派の中では古調な1振となっています。また、1746年(延享3年)に刀剣の鑑定を行っていた「本阿弥家」(ほんあみけ)14代当主である「光勇」(こうゆう)によって、「金子弐拾枚、約壱百五拾両四百貫相当」とされた「折紙」(鑑定書)が付属。将軍・家治から酒井忠寄が拝領してからは、名宝として代々酒井家に伝来しました。