徳川幕府10代将軍「徳川家治」(とくがわいえはる)は政治に興味がなく、賄賂政治家と評される「田沼意次」(たぬまおきつぐ)を重用した無能な君主だったと見る向きもあります。実際の徳川家治は、幼少期から才気にあふれ、誰もが将来を期待していました。また、人間的に優れていたことが分かる逸話も数多く伝えられているのです。徳川家治が暗君か名君かを判断する材料ともなり得る幼少期の逸話や、田沼意次を重用した理由などをご紹介します。
徳川家治
「徳川家治」(とくがわいえはる)は、1737年(元文2年)、9代将軍「徳川家重」(とくがわいえしげ)の嫡男として江戸城西の丸(えどじょうにしのまる)で生まれました。幼名は「竹千代」(たけちよ)。
父の徳川家重が、生まれ付き言語不明瞭であったため、祖父である「徳川吉宗」(とくがわよしむね)は、徳川家重に十分な教育を施すことができなかったと言います。
そこで、徳川吉宗は孫の徳川家治に期待し、多くのことを授けようと考えました。
徳川家治は幼少期より聡明で、徳川吉宗の教えることを次々と理解して修得。
徳川吉宗は自分が死ぬまで徳川家治を寵愛し、帝王学をはじめとして、自分が教えられることをすべて教えたと伝えられています。
そんな徳川吉宗に、父親の代から仕えていた「田沼意次」(たぬまおきつぐ)は、徳川家重の小姓として抜擢され、側用人(そばようにん:将軍と老中の取り次ぎをする役職)にまで出世した人物です。
小姓が有能であれば将軍の助けになることを、徳川吉宗は良く分かっていました。将来、徳川家治が将軍になったときに支えられる能力を、小姓達に身に付けさせようと考え、徳川吉宗自ら色々なことを教えたとのことです。
徳川家治も徳川吉宗のことを尊敬し、徳川吉宗のような名君になることを望んでいました。そのため食事のときに、自分が食べたことのない料理が出されると、徳川吉宗も食べたことがあるのかを確認してから食べたと言われています。
江戸幕府を治めた徳川家15人の将軍についてご紹介します。
田沼意次
1760年(宝暦10年)、父である徳川家重の隠居により、徳川家治は10代将軍に就任。
翌1761年(宝暦11年)に徳川家重が没すると遺言にしたがい、田沼意次を重用します。
遺言にしたがったことになっていますが、田沼意次を重用した理由はそれだけではありません。
田沼意次は、尊敬する祖父の徳川吉宗が取り立て、低い身分から徳川家重の側用人へ、そして大名にまで地位を上げた人物です。ただ者ではないことを、聡明な徳川家治は見抜いていたのだと考えられます。
徳川家治は、田沼意次に重要な役職を任せるようになり、1767年(明和4年)には側用人に任命。1772年(安永元年)には側用人として初めて老中を務めさせ、側用人もそのまま兼任させました。田沼意次の石高も役職が上がるにつれて加増され、最終的には5万7,000石の大名になります。
徳川家治は聡明さゆえに田沼意次の非凡な才能に一目を置き、自分が政治を取り仕切るよりも、田沼意次に高い地位を与え、自由に政策を行なえる方が良いと考えたのです。
この頃、徳川吉宗が行なった倹約・増税政策には限界がきていました。重い年貢に耐え切れず、各地で一揆が多発。新たな経済政策の実行は急務でした。
徳川吉宗の「享保の改革」(きょうほうのかいかく)は、「重農主義政策」(じゅうのうしゅぎせいさく:農業を基礎として国を豊かにする経済政策)でしたが、田沼意次はいわゆる「重商主義政策」(じゅうしょうしゅぎせいさく:貿易などを通じて金銀や貨幣を蓄えることにより、富を増やそうとする経済政策)を取ります。
田沼意次が行なった重商主義政策で代表的なのは、「株仲間」(かぶなかま)の積極的な公認です。株仲間とは、同業の商工業者が結成した組合のこと。幕府が株仲間を公認する代わりに、公認料として「冥加金」(みょうがきん)を徴収し、販売権の独占を認めました。さらに株仲間を結成後は、「運上」(うんじょう:租税の一種)を徴収することで、幕府に継続的に収入が入ってくるようにしています。
また、株仲間を積極的に公認することは、収入が増えるだけではなく、商工業者の実態の把握に役立ち、それを商工業政策に活かすこともできました。
専売制の拡充にも力を入れることとなり、すでに藩では特産品を藩の専売にしていましたが、幕府でも「銅座」(どうざ)、「人参座」(にんじんざ)、「朱座」(しゅざ)、「真鍮座」(しんちゅうざ)を設置して専売制を行なったのです。銅は輸出の中心でありましたが、それまでは銀を扱う「銀座」(ぎんざ)が一緒に手掛けていました。銅を専門に扱う銅座を設置することで、銅の流通が効率良く機能するようになります。
貨幣制度の統一も行ないました。この当時、一般的には東日本では金、西日本では銀が流通。金は枚数で価値が決まっていましたが、銀は重さで価値を決めていました。東日本と西日本にまたがって商売をするときは、必ず金と銀を交換しなければなりません。それでは毎回手間が掛かり、経済活動が滞ってしまいます。
南鐐二朱銀
そこで、「南鐐二朱銀」(なんりょうにしゅぎん)と呼ばれる銀貨を作り、8枚で1両の金と交換するように決めたのです。
これなら、いちいち重さを量る必要がなく、経済活動が円滑に運びます。
また、鎖国政策を緩和して、長崎での貿易を奨励。これまで、商品を購入したときは金や銀で支払っていましたが、国内の金・銀の産出量が減少して需要に追い付かない状態に陥ってしまいました。こうした状況では、長崎貿易はできるだけ制限せざるを得ません。
しかし田沼意次は、商品を購入したら金・銀で支払わずに俵物(たわらもの:海産物の乾物のこと)や銅で支払うようにしました。金・銀を国外から輸入して、それを俵物や銅で支払い、国内で足りなくなった金・銀の使用に回そうとしたのです。
ところが、これらの重商主義政策は商人に恩恵をもたらした反面、農産物の買い叩きや、都市部への商品の過度な集中を招きます。さらに、「天明の大飢饉」(てんめいのだいききん)や浅間山(あさまやま)の噴火などの災害が相次ぎ、百姓一揆や打ちこわしが頻繁に起こるようになりました。その結果、田沼意次が災害に対する対策をしないから生活が苦しくなっていると、次第に批判が高まっていったのです。
重商主義政策の他にも、田沼意次が行なった政策があります。
それは蝦夷地(えぞち:現在の北海道、樺太、千島列島)開発計画です。田沼意次は、仙台藩医の「工藤平助」(くどうへいすけ)が記した「赤蝦夷風説考」(あかえぞふうせつこう)を読み、勘定奉行に蝦夷地調査をさせました。このときの調査にかかる費用は、アイヌ民族との貿易で賄い、採算が取れるように計らったとのこと。
調査の結果、蝦夷地で米などの農作物が十分に育てられることが分かりました。これは、蝦夷地交易を独占していた「松前藩」(まつまえはん)も知っていたことですが、アイヌ民族が農作物を育てるようになると、今まで農作物との交換で賄っていた貴重な毛皮などの入手が困難になるので、松前藩は農耕を禁止していたのです。
ここで田沼意次は、蝦夷地を開発してアイヌ民族に農耕をさせ、アイヌ民族で足りない人手は、被差別部落民で補おうと考えました。そうすれば年貢を徴収でき、この当時、問題になっていたロシア人の南下問題にも対応できます。しかし、この計画は田沼意次が失脚したことにより実現しませんでした。
明治政府によって蝦夷地は開拓されますが、田沼意次はそれよりも100年前に蝦夷地開拓を考えていたことになります。
また、田沼意次は「印旛沼」(いんばぬま)と「手賀沼」(てがぬま)の干拓事業も手掛けました。農地拡大と治水工事を同時にできる工事でしたが、利根川の氾濫が予想以上にひどく、さらに田沼意次が失脚したため、これも完成はしませんでした。
江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。
田沼意次は、お金に汚い汚職政治家というイメージで語られることがありますが、はたして本当にそうだったのでしょうか。
田沼意次は足軽の子供から、老中にまで上り詰めた人物です。当時の身分社会では、名門出身の武士にとって田沼意次のように、低い身分から自分の才覚で出世した人物は疎ましく思われがちなので、当時に書かれた資料の内容をすべて鵜呑みにすることはできません。
また、江戸時代は賄賂が横行していて問題になっていました。田沼意次が賄賂を貰っていたかどうかは定かではありませんが、賄賂は日常的にあふれていたことなのです。
田沼意次の行なった政策は、重農主義政策では限界にきていた幕府経済を立て直すための先駆的な政策であったことは確かと言えます。
徳川家治が暗君か名君かを判断する材料となり得る、徳川家治の人柄が表れた逸話をいくつかご紹介します。
田沼意次には、賄賂政治家というイメージが付いているので、田沼意次を重用した徳川家治は、暗君であると評価されてしまいがちです。しかし、田沼意次を重用したことだけで暗君だと言えるのでしょうか。
田沼意次の行なった政策は、それまでの日本にはなかった先駆的な政策です。政策は度重なる大災害などの不運も重なって、大きな成果は出ませんでした。確かに失敗した政策もありますが、成功した政策もあります。田沼意次のイメージの悪さから、田沼意次の行なった政策はすべて失敗だったとの誤解を与えてしまうことがあるのです。
田沼意次の後任で老中になった「松平定信」(まつだいらさだのぶ)の「寛政の改革」(かんせいのかいかく)では、田沼意次の政策を否定する重農主義政策に戻りましたが、成果は出ませんでした。
蝦夷地開拓、国防意識、鎖国政策の緩和など、田沼意次が取り組んだ政策は、すべてのちの日本では取り入れられ、実際に施行されてきています。田沼意次は間違いなくまれに見る優れた人物で、その優れた人物を重用したのが徳川家治だったと言うことです。
徳川家治が尊敬している祖父・徳川吉宗は、質素倹約に努め、大奥の費用を大幅に削減したことで知られています。徳川家治も祖父を見習い、徳川吉宗のときよりさらに3割も大奥の費用を削減しました。しかし、いわゆるケチとは違い、使わなければならないときには使う人物だと示す逸話も残っています。
ある大雨が降る日、徳川家治は近習(きんじゅ:主君の側近くに仕える者)がため息をついているのを見て、別の近習に理由を尋ねました。すると「実家が貧しいために家の雨漏りを直せず、親が寒い思いをしているかもしれないと心配しているそうです」との答え。それを聞いた徳川家治は、ため息をついていた近習に「孝を尽くせ」と金100両を渡したと伝えられています。
徳川家治は愛妻家としても知られていました。徳川家治と正室「倫子」(ともこ)の間には男子が生まれず、女子は2人生まれましたが、幼くして亡くなっています。将軍に子がいないことは将軍家の一大問題であり、側室を迎えて子を成すのが当たり前でした。
しかし、徳川家治は家臣達に側室を勧められても嫌がり、なかなか首を縦に振りませんでした。田沼意次が側室を持つように勧めると、田沼意次も側室を持つのであれば、という条件付きで承諾したと言います。
迎えた側室との間に無事に男子が生まれましたが、男子が生まれたのちは側室のもとにまったく通わなくなってしまいました。さらに、生まれた子供の養育は正室の倫子に任せています。
愛妻家の徳川家治だからこそ、大奥の費用は必要のない出費に感じられ、削減するのはそれほど難しいことではなかったとするのが通説です。
鷹狩り
徳川家治は、政治のことは田沼意次に任せて、趣味の将棋を指していたと言われています。
その腕前は七段が与えられたほどで、特に詰将棋を作成するのが上手でした。
しかし、対局中のマナーは悪かったとのことで、1回指してから待ったをして、駒を戻させるようなこともしていたのです。
将棋の他には、囲碁や鷹狩り、書画を好んで良く嗜んでいました。
徳川家治が将軍に就任した直後、老中「松平武元」(まつだいらたけもと)に、「自分はまだ将軍に就いたばかりで未熟である。何か気付いたことがあったら教えて欲しい。過ちがあったときは遠慮なく注意して欲しい」と頼んだとの逸話があります。
また、朝早く目が覚めてしまったとき、周囲の人を起こさないように忍び足で歩いたり、周りの人が起きるのを静かに待っていたり、厠(かわや)に行くときも他の人が起きないようにそっと行ったりしました。
徳川家治は将軍という立場上、それほど人に気を使う必要はないはずですが、身分に関係なく、謙虚で気遣いができる人物だったことが窺える逸話です。
10代将軍・徳川家治の幼少期から人間性、田沼意次を重用したことなどをご紹介しました。徳川家治は多方面で才能を発揮しており、無能な暗君と言うよりも、政治に興味がないだけという可能性が高かったと言えます。
もし、田沼意次のような優れた人物が周りにいなかったとしたら、教養のある徳川家治自身が政治を取り仕切り、良い政策を行なっていたのではないかと考えられています。