鉄砲・大砲の基礎知識

西南戦争で使用された西洋式銃
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西南戦争で使用された西洋式銃 西南戦争で使用された西洋式銃
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1877年(明治10年)、「西郷隆盛」率いる旧「薩摩藩」(現在の鹿児島県)や「熊本藩」(現在の熊本県:別称「肥後藩」)の士族達で構成された「西郷軍」と、「明治新政府軍」の間で起こった「西南戦争」(せいなんせんそう)は新政府軍が圧倒的な勝利を収め、日本における最後にして最大の士族反乱となりました。新政府軍が勝利したのは、当時最新鋭の西洋式銃である「スナイドル銃」を歩兵隊の標準装備として用いていたことが、大きな要因のひとつであったと言われているのです。そんなスナイドル銃が、日本へ輸入された経緯や西南戦争の勝敗を決定付けた理由などについて、分かりやすく解説します。

火縄銃・短銃・大筒・和製西洋式銃写真/画像火縄銃・短銃・大筒・和製西洋式銃写真/画像
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西南戦争の概要

明治維新に貢献した西郷隆盛が帰郷した理由

西郷隆盛

薩摩藩下級士族出身の西郷隆盛は、幕末の動乱期において討幕/倒幕の指導者となり、「江戸無血開城」などの実現に奔走した人物です。

さらには1864年(慶応4年/明治元年)に、「旧幕府軍」と新政府軍が対立した「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)では新政府軍の大総督参謀(だいそうとくさんぼう)を務め、同戦争を終結させた功労者でもありました。

西郷隆盛はこのような幕末期の活躍が高く評価されたことより、新政府の陸軍元帥(げんすい)兼参議に任ぜられ、現在では「大久保利通」(おおくぼとしみち)や「木戸孝允」(きどたかよし:別称「桂小五郎」[かつらこごろう])と共に「維新の三傑」と称されています。

その後も順調に出世街道を進んでいくと思われた西郷隆盛でしたが、鎖国下にあった朝鮮に対し、開国を求めて出兵するべきと「板垣退助」(いたがきたいすけ)らと共に主張した「征韓論」(せいかんろん)を巡って、大久保利通らと対立(明治六年の政変)。これに敗れた西郷隆盛は、1873年(明治6年)に下野(げや:官職を辞めて民間に下ること)し、故郷の鹿児島へ帰って私学校を設立します。

士族の教育にあたっていた西郷隆盛でしたが、1876年(明治9年)に熊本で「神風連の乱」(しんぷうれんのらん)、福岡で「秋月の乱」(あきづきのらん)といった不平士族による反乱が立て続けに起こると、鹿児島の士族達より、新政府軍に向けた挙兵を要請する声がしきりに届くようになったのです。しかしこの時の西郷隆盛は、あくまで静観する姿勢を貫いていました。

西南戦争の発端と結末

1877年(明治10年)1月に突如政府が、鹿児島にあった政府の弾薬庫から武器や弾薬を大阪へ搬出。これは、各地で不平士族の反乱が頻発した流れを受け、政府が鹿児島の情勢を警戒したために行われたと推測されています。しかし、鹿児島の士族達は、政府が運び出した鉄砲や火薬は藩政時代からの備蓄であることから、自分達の所有物であると主張。

そして鹿児島士族達は、日頃から政府の武士層解体政策に抱いていた不満を爆発させ、政府の陸・海軍の火薬庫を急襲したのです。加えて西郷隆盛暗殺計画も発覚したため、ついに西郷隆盛は、鹿児島士族達に擁立されて挙兵するに至りました。

熊本城

熊本城

1877年(明治10年)2月15日に西郷隆盛は、約13,000人の兵士を率いて、「熊本城」(熊本市中央区)へ進発。2月下旬には、私学校の生徒や九州各地の士族など約25,000人の兵士らと共に、熊本城を攻囲します。

これを重く見た政府は、全国より鎮台兵(明治時代初期の常備陸軍)を平民主体で徴募して熊本城へと向かわせ、鎮台兵達を50日間も籠城させました。

1877年(明治10年)3月には、熊本城攻防戦における最大拠点となった「田原坂」(たばるざか)において17日間に及ぶ激闘が繰り広げられるも、西郷軍は最終的に総退却。同年9月には、現在の鹿児島市城山町にあたる地域に布陣しますが、新政府軍からの総攻撃を受け、重傷を負った西郷隆盛以下幹部らは自刃。そして西南戦争は、新政府軍の勝利で終焉を迎えたのです。

西南戦争で用いられたスナイドル銃とは?

西南戦争における西郷軍の敗北は、戦争が士族だけの専売特許ではなくなったこと、さらには新政府に対し、武力をもって歯向かっても何の意味もなさないことを世間に知らしめました。新政府軍が西郷軍に勝利を収めたのは戦略などの差もありましたが、最大の要因は、軍備として用いていた主力兵器の品質、そして量の違いです。

西南戦争で西郷軍が装備していた鉄砲は、銃身の前端部から弾を込める「前装式」(ぜんそうしき)の小銃が含まれるなど統一されていませんでした。その一方で新政府軍は、手元から弾を込める「後装式」(こうそうしき)小銃の「スナイドル銃」を、歩兵隊の標準装備としていたのです。

スナイドル銃の正式名称は「エンフィールド・スナイドル/エンフィールド・スナイダー」と言い、イギリス陸軍の制式(せいしき:決められた様式)銃であった前装式の「エンフィールド銃」を、単発後装式銃に改造して生産されました。

スナイドル銃への改造を手掛けたのは、もともとエンフィールド銃の開発を担当していた「エンフィールド造兵廠」(ぞうへいしょう:兵器・弾薬・車両などの設計や製造などを担当した機関、または工場)です。1864年(文久4年/元治元年)より改造に着手し、その2年後には、エンフィールド銃に代わるイギリス陸軍の制式銃として用いられるようになりました。

TK2016 エンフィールドスナイドル銃_mainthum

エンフィールドスナイドル銃

種別 輸入古式西洋銃(幕末銃器) 全長 124.1cm
銃身長 84.3cm 口径 1.5cm
代表的な
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団〔東建コーポレーション〕

スナイドル銃はエンフィールド銃の銃身後部を切断し、アメリカ人の「ジェイコブ・スナイダー」が考案したと伝わる蝶番式の銃尾装置が備えられています。

この装置は右側に開く構造となっており、その形状は、煙管(きせる)用の刻みタバコをいれる「莨入」(たばこいれ)によく似ているのが特徴。これが由来となり、スナイドル銃の構造は「莨嚢式」(ろうのうしき)と呼ばれています。

エンフィールドライフル銃(イギリス)_mainthum

エンフィールドライフル銃(イギリス)

種別 輸入古式西洋銃 全長 124.5cm
銃身長 84cm 口径 1.4cm
代表的な
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団〔東建コーポレーション〕

従来のエンフィールド銃の銃弾は、紙製の薬莢(やっきょう:鉄砲の弾丸を発射させるための火薬を詰める円筒形の容器)が用いられていました。しかし、スナイドル銃の薬莢は、起爆薬となる物質の「雷汞」(らいこう)を詰めた金属製に変わっています。

また、スナイドル銃において、西南戦争で新政府軍が装備していたような歩兵銃には、銃身の長さが約1.4mある①「三ツバンド」と、同じく約1.2mの②「二ツバンド」がありました。両者のうち、低い身長の日本人が扱いやすい②の歩兵銃が好まれていたとされ、現在まで遺されているのも、二ツバンドのスナイドル銃が圧倒的に多いと言われているのです。

スナイドル銃が西南戦争の勝敗を決した理由

スナイドル銃

スナイドル銃

スナイドル銃が本格的に日本へ輸入されるようになったのは、戊辰戦争が勃発する1年前の1867年(慶応3年)でした。そしてその数は、翌年夏頃にピークを迎えたと伝えられています。

しかし、1865年(慶応元年)の暮れ、または1866年(慶応2年)には長崎の武器商人を介して、スナイドル銃のサンプル品が輸入されていたとも考えられているのです。

この当時、スナイドル銃を最も多く所持していたのは薩摩藩で、その数はおよそ4,300挺(ちょう)。これは、1863年(文久3年)に薩摩藩とイギリスの間で起こった「薩英戦争」(さつえいせんそう)で味わった苦い経験から、同藩で大幅な軍制改革が行われ、イギリス・オランダ両国の兵制を整備していたことが背景として挙げられます。

また、戊辰戦争において、薩摩藩と同様に新政府軍に属していた長州藩(現在の山口県:別称「萩藩」・「山口藩」)も、約300挺のスナイドル銃を輸入していたと伝えられているのです。そのため戊辰戦争時には、すでに薩長を中心とした新政府軍がスナイドル銃を標準装備していたとされることがありますが、同軍ではエンフィールド銃を主体とした説が有力視されています。

薩摩軍単体で見ても、戊辰戦争の段階では複数の小隊が所持、もしくは小隊の中で狙撃用として装備されていた程度で、薩摩軍の制式銃ではなかったと推測されているのです。日本国内でスナイドル銃が主流となったのは、明治新政府が西南戦争に際して大量発注し、輸入してからが始まりと言われています。

新政府軍が西南戦争で当時の最新鋭であったスナイドル銃を標準装備できたのは、1874年(明治7年)に、すでに制式銃に定めていたことが理由のひとつ。これに対して薩摩藩は前述した通り、政府によって西南戦争直前に、鹿児島の火薬庫からスナイドル銃を含む主力兵器が持ち去られていたため、草牟田(そうむた:現在の鹿児島県鹿児島市)など政府の火薬庫や造船局より奪った旧式のエンフィールド銃しか、手元に残されていなかったのです。

こういった経緯によって、弾込めの体勢を変えることなく伏せたままでの操作が可能であり、速射性の高い後装式のスナイドル銃を大量に装備できた新政府軍が、激闘の西南戦争を制したと考えられています。

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