江戸時代
薩英戦争
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「薩英戦争」(さつえいせんそう)は、幕末(江戸時代末期)に、薩摩藩とイギリス艦隊との間に起こった戦争のことです。その引き金になったのは、1862年(文久2年)8月、当時薩摩藩主だった島津茂久の父・久光の大名行列が数百名の藩士達と江戸から薩摩へ帰る途中、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)にさしかかったところで、観光で川崎大師に向かう途中だったイギリスの商人・リチャードソンら4人が、騎乗したまま久光の大名行列の中へ入り込み、列を乱したことに始まります。

生麦事件

生麦事件

生麦事件

当時、一般庶民が大名行列に出会ったら、平伏して通り過ぎるのを待つのが常識でした。このため、藩士がリチャードソンらに向かって、馬から下りて道の脇にどくよう告げましたが、リチャードソンらはそのまま大名行列に入り込んで列を乱し、さらに久光が乗った駕籠の付近まで差し迫ったことから、藩士がリチャードソンらイギリス人商人を死傷させるという「生麦事件」が起きたのです。

この生麦事件に対してイギリスの代理公使ニールは、江戸幕府に対し10万ポンドの賠償金を、薩摩藩には2万5,000ポンドと犯人の引渡し、及びイギリス士官の立会いのもとにこれを処刑することを要求します。

しかし、統治力が衰退していた幕府は、犯人の差出しを拒否する薩摩藩を従わせることができず、賠償金を支払うことしかできませんでした。そのためニールは、要求に応じない薩摩藩に対し、7隻の艦隊を率いて直接薩摩藩に犯人の処刑を迫りましたが、薩摩藩は「生麦事件に関して責任はない」として、これに応じなかったため、1863年(文久3年)7月2日、「薩英戦争」が始まったのです。

イギリスの動き

1862年(文久2年)8月の生麦事件が起きたあと、イギリスや諸外国の軍艦から武装水兵が上陸し、居留地や領事館の警備を固めました。また、リチャードソンら4人のうち、唯一怪我のなかったイギリス人から事情を聞いた横浜の居留民たちは激怒し、島津久光を襲撃して捕縛し、実力行使をするべきだと言う者も現れ、フランス公使のベルクールらと共に、各国の使節や司令官たちに対して訴えて回ります。

しかし、イギリス代理公使のニールは、「外国人に対して罪を犯した日本人は、日本の司直がこれをただし処罰する」という条約を結んでおり、犯人を逮捕・処罰する権限がないこと、また日本と本格的な戦いになった場合、現状では戦力が不足しており、居留民を守りきれるか分からないと説得したことによって、直接的な戦争にはなりませんでした。その代わりに、江戸幕府に対しては、生麦事件の賠償金、及び犯人逮捕と処罰を要請したのです。

薩摩藩の動き

薩摩藩でも同様、イギリスから攻撃される前に、居留地を襲撃しようと言う者もいましたが、大久保一蔵(利通)がそれは賢明ではないとして反対したことにより、イギリスやフランス軍との戦争は避けられました。

これらの事件を知った神奈川奉行の阿部正外が、役人を向わせ事情聴取をしたものの、薩摩藩からは「生麦を通行していた際、数名の浪人達がイギリス人達を襲撃したあと、逃げて行方不明になってしまった」と報告を受けます。当時、諸外国に対して弱腰だった幕府の対応からその権威は低下しており、薩摩藩は幕府に対して作り話を報告したのです。

この報告を受けた留守居役・西筑右衛門は、作り話をそのまま幕府へ報告することができなかったため、「足軽だった岡野新助がイギリス人らを殺傷し、逃亡して行方不明になっている」と、架空の人物を犯人として報告しました。

江戸幕府の動き

「生麦事件」後、江戸幕府はイギリス代理公使のニールから、番所の設置や街道や居留地の警備を厳重にすること、さらに犯人の処罰などについて要求されます。

これに対して幕府はイギリスに言われた通り、居留民に対する安全対策を行なうことを約束しますが、肝心の犯人処罰については、薩摩藩から「幕府と諸外国との間で、大名行列へのルールを取り決めておかなかったことが問題である。」と反論され、犯人をイギリスに引渡すことができませんでした。このため、幕府はイギリスに対して回答を先延ばしするなど、何もできずにいました。

このような幕府の状況から、薩摩藩だけでなくイギリスからも見限られ、そのあと幕府の権威はさらに失墜していくことになります。

イギリスとの交渉について

江戸幕府とイギリスの交渉

生麦事件の発生以前、イギリス公使館襲撃(東禅寺事件)など、2度も事件が発生していたことから、イギリスは同様の事件が発生した場合には、横浜港に停泊していたイギリス艦隊で、関門海峡・大坂湾・江戸湾などを封鎖し、日本商船の廻船航路を封鎖する制裁措置を検討していました。

そのため、イギリスは幕府に対し、日本商船の航路閉鎖を仄めかしながら、10万ポンド(約200億円)という高額な賠償金と謝罪文を要求。さらに、幕府が薩摩藩に対して統制力を持っていないと判断したイギリスは、薩摩藩へ直接犯人の処罰と2万5,000ポンド(約50億円)の賠償金を要求したのです。

その頃、朝廷や京では、「攘夷論」(外国との通商反対や外国を撃退して鎖国を通そうとしたりする排外思想)が高まっており、幕府は朝廷に対して「イギリスの要求を受け入れる」とは到底報告できませんでした。このため、「イギリスとの戦争も覚悟の上、イギリスからの要求は拒否する」と報告したものの、最終的にイギリスと戦う覚悟もなく、無条件に賠償金を支払うことで決着します。

そして、1863年(文久3年)6月22日、イギリスは薩摩藩と交渉するため、横浜にあった7隻の軍艦からなるイギリス艦隊を薩摩に向かわせたのです。

開戦前の薩摩藩とイギリスの交渉

薩英戦争

薩英戦争

横浜港から出港し、1863年(文久3年)6月28日、ニール率いる7隻のイギリス艦隊は、市街地からわずか1kmの地点に停泊し、薩摩藩に圧力を与えます。この時点でイギリスは、あくまで武力で威圧しつつ、要求を飲ませることが目的でした。

一方、薩摩藩では、イギリスが来ることを予期し、砲台や大砲を増やし、遠見番所を設けるなどいつでも戦える体制を整え、イギリス艦隊を待ち構えていたのです。薩摩藩は、イギリス艦隊へ使者を送り来航した意向を確認すると、ニールは、生麦事件の犯人の処罰と賠償金を要求します。

これに対して交渉を有利に進めようと考えた薩摩藩は、「書面のやりとりでは交渉が進まないため、上陸して交渉してほしい」と要請し、ニールらを拘束することを画策します。

しかし、ニール達は薩摩藩を警戒し、上陸には同意しませんでした。拘束に失敗した薩摩藩は、次にスイカ商人に成りすました藩士(スイカ売りの決死隊)をイギリス艦に潜り込ませ、艦を奪い取ることを計画。これもまた警戒され失敗に終わります。

イギリス側も、薩摩藩が欧州から購入した蒸気船3隻を抵当に賠償交渉を有利に進めようと、7月2日の早朝、蒸気船3隻を拿捕(だほ/軍艦などが他国の船舶などをその支配下におくこと)したのです。

これに対して薩摩藩は「宣戦布告もなしに、我が船を掠奪するとは何事か」と開戦と決し、一斉にイギリス艦隊へ砲撃を加えたことにより、当時世界最強とも言われていたイギリスと、日本の地方政権でしかない薩摩藩の火蓋が切って落とされたのです。

薩英戦争の開戦と結末

薩摩藩は、非戦闘員を避難させる一方、砲台の兵士達は、艦船に向かって砲撃を開始します。イギリス艦隊は、弱腰の幕府とばかり交渉していたこともあり、3隻の蒸気船を抵当にして艦隊の圧力を与えつつ交渉を進めれば、幕府と同様、薩摩藩も屈服するだろうと、戦争の準備や体制は整えておらず、砲台の射程範囲内に停泊していました。このため、薩摩藩が放った大砲が、艦長や司令官が乗っている艦橋付近などに命中。これにより、艦長が戦死し司令官も負傷するなど、薩摩藩が有利な状況となります。

さらに、天候も薩摩藩の味方をし、薩英戦争が開戦した旧暦7月2日(今の暦では8月15日)は、台風による暴風雨が吹き荒れ、海上も大荒れという状態で、イギリス艦隊は反撃を浴びせたものの波が荒く、大砲の照準をうまく定めることができませんでした。

しかし、態勢を立て直したイギリス艦隊が反撃したことにより、薩摩藩の砲台や武器や火薬、機械などを製造する「集成館」(近代工場群)を破壊された他、琉球船なども焼き払われ、拿捕されていた蒸気船も沈没。

さらに、市街地付近には世界で初めて使用された最新式のロケット弾「アームストロング」が撃ち込まれ火薬庫が炎上、その火が台風の強風によって市街地に延焼し、鹿児島城下が焼失するなど、薩摩藩も甚大な被害を受けました。イギリス艦隊内では、さらに薩摩藩へ攻撃することも検討されていましたが、艦長の戦死や司令官の負傷、台風による損害や武器・食糧の不足などを理由に、最終的には撤退することを決定。薩英戦争は、お互いに痛み分けのような形で終わりました。

薩英戦争のあと和平交渉に乗り出した薩摩藩

薩英戦争後、薩摩藩はまたイギリス艦隊が襲来することを考え、砲台や集成館の修復を急いだ一方、イギリスと戦ったことで薩摩藩の中でも見識のある者達が、今回善戦できたのは悪天候により助けられた部分が大きく、普通に戦っていた場合、大砲の射程距離は圧倒的に違っていたことから、勝負にならなかったと認識し、それまで推し進めていた「攘夷論」(外国人を日本から追い払うべきという考え)を実現するのは不可能だと悟ります。

そして、このまま戦いを続ければ、やがて薩摩藩は滅亡する可能性もある。ここはイギリスと和平交渉して、大砲や艦の技術を吸収し、薩摩藩を発展させていくべきであると方向転換していきます。当初は反対する者が多かったものの、次第にイギリスとの講和論を推進する者が増えていき、親族である佐土原藩主からも講和するよう勧告を受けたことにより、薩摩藩はイギリスとの和平交渉に乗り出したのです。

薩摩藩とイギリスの和平交渉

薩英戦争から約3ヵ月経った11月11日、薩摩藩は、重野厚之丞らを使者として、横浜のイギリス領事館でニールと講和のテーブルに着きます。

しかし、当初はうまく折り合わず、何度も交渉が決裂しそうになりましたが、4回目の交渉の際、お互いに譲歩をする形を採ることで、ようやく交渉が決着しました。賠償金の支払いについては、幕府から借用した賠償金を薩摩藩ではなく、佐土原藩が支払うという形で決着。犯人の処罰については、「処刑しようにも行方不明(逃亡中)のため実行できない」として薩摩藩は依然として犯人を差し出しませんでしたが、イギリスは、これを黙認するという形で譲歩を見せ、交渉が成立したのです。

こうして、生麦事件から1年以上が過ぎた頃、薩摩藩とイギリスの抗争は終結しました。

幕府ではなく薩摩藩と友好関係を結んだイギリス

この戦争を経てイギリスは、日本を手に入れることを断念。イギリス政府は、生麦事件において、前言を翻したり、交渉を先延ばししたりするなど信用がおけない幕府に比べ、薩英戦争や和平交渉を通して、薩摩藩の勇敢さや約束は必ず守ろうとする誠実な対応などから好意を抱くようになります。

薩摩藩も、薩英戦争を通して外国との差を痛感し、これからは外国からどんどん学ぶべきだとして、イギリスと友好関係を築いていきます。

今まで戦争していた薩摩藩とイギリスは一転、「昨日の敵は今日の友」と言わんばかりに、薩摩藩の藩士をイギリスに留学させるなど、薩摩藩とイギリスはさらに交流を深めていきました。そして、この友好関係によってイギリスから得た武器や艦が、その後の倒幕運動に大きく影響を与えていくことになるのです。

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