武具の基礎知識

火縄銃とは

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日本の戦のあり方を根本的に変えてしまった武器「火縄銃」(ひなわじゅう)。そもそも、火縄銃とはどのような火器で、他の鉄砲とどのような違いがあるのでしょうか。その伝来や銃の内部構造など、火縄銃の基本を見ていきます。

火縄銃・大筒写真火縄銃・大筒写真
生産地や流派によって様々な個性を持つ火縄銃をご覧頂けます。

火縄銃の歴史

種子島へ製造法が伝来

火縄銃(種子島銃)

火縄銃(種子島銃)

1543年(天文12年)、種子島(鹿児島県)に中国からの商船が流れ着いたことで日本に鉄砲がもたらされたとするのが通説です。

銃口から弾丸と火薬を詰める前装式で、火縄に点火する形式だったため、この鉄砲には「火縄銃」と言う名称が付きました。また火縄銃は、種子島に伝来したことから、別名種子島とも呼ばれています。

この商船には、2人のポルトガル人が乗っており、このとき2挺の火縄銃を携えていました。種子島の領主であった「種子島時尭」(たねがしまときたか)は、漂着したポルトガル人を丁重にもてなし、この2挺の火縄銃を大金で購入。その返礼としてポルトガル人の商人は、火縄銃の試射を披露しました。

種子島時尭は、購入した火縄銃の1挺を種子島の刀匠に貸し出して複製するように命じ、1年ほどで国産化に成功しています。

火縄銃の拡散

種子島に伝わった火縄銃は瞬く間に日本各地に広まりましたが、実戦で使われたのはいつ頃のことなのでしょうか。史料で確認される限りでは、火縄銃を日本で初めて実戦に持ち込んだのは1549年(天文18年)、薩摩(現在の鹿児島県)で起こった「黒川崎の戦い」だとされています。

また、東国甲斐(現在の山梨県)の武田軍において火縄銃が登場したのは、1550年(天文19年)の「第2次川中島の戦い」のときで、鉄砲300挺が用意されました。

武田信玄

武田信玄

武田信玄」が軍役として鉄砲を賦課(ふか:割り当てて負担させること)するのは、1558年(弘治4年)以降で、鉄砲が伝来したとされる1543年(天文12年)から十数年で鉄砲が広まったことが分かります。

しかしこの当時、戦では長槍や弓といった遠距離武器が主力をなしており、鉄砲はまだ発射音による馬への威嚇など、補助的な形でしか使われていなかったのです。

主力武器として火縄銃が使われるのは、「織田信長」と「武田勝頼」(たけだかつより)が戦った「長篠の戦い」になります。

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火縄銃の基本

火縄銃の構造と名称

種子島に伝わった火縄銃は、弾丸と火薬を銃口から詰めて発射する火縄式の点火装置(マッチロック)を備えていました。

火縄銃は、銃身と銃床(じゅうしょう)、そして点火装置部分であるカラクリの3部分から構成されています。種子島に伝来した火縄銃は、銃身を支える銃床が付いていない物でしたが、のちに銃床が付いた種類が作られました。主要な名称は下記の通りです。

  • 火縄通しの穴:火種である火縄を通す穴
  • 火ばさみ:通し穴に通した火縄の先を挟む器具
  • 火皿:点火薬を入れる皿
  • 火ぶた:火皿を閉じるふた
  • カルカ:朔杖(さくじょう)とも。銃身に弾丸と火薬を詰めるときに使う棒。
  • 前目当(元目当てとも)/先目当:照準を合わせるときに使う器具。
火縄銃の構造

火縄銃の構造

銃の原理

現代の薬莢の仕組み

現代の薬莢の仕組み

銃の弾丸は、火薬の燃焼ガスによって発生する圧力で弾頭(弾丸部分)を銃身から押し出すことで発射します。

現代の銃の弾丸に入っているのは、ケースとなる薬莢(やっきょう)に弾頭、装薬(そうやく:燃焼して弾丸を押し出す火薬)、そして点火装置(火打ち石のような役割)となる雷管(らいかん)です。

引き金を引くと、撃鉄にかかったばねの圧力が撃針を通して雷管に伝わります。すると撃針で叩かれた雷管内部にある起爆薬が点火。

薬莢内にある装薬が燃焼して、弾丸が銃身内で加速し発射されるのです。

火縄銃のしくみ

火縄銃も火薬を燃焼させることで弾丸を押し出す原理は同じですが、戦国時代はまだ薬莢が存在しないので、銃口から弾丸と装薬(当時で言うところの胴薬)を入れて、銃身に備え付けてあるカルカと言う棒で銃身の奥に押し込んで弾を装填していました。

火縄銃の点火装置

火縄銃の点火装置

点火装置となる火縄は、火縄通しの穴に挟んで固定しておきます。引き金を引くと、弾金(はじきがね:ばねのこと)の力で火ばさみの先が火皿に打ち付けられるので、火皿に置かれた点火薬から銃身内の装薬に着火して弾が発射されるしくみ。

また、日本に伝来した火縄銃には、施条(しじょう)が施されていませんでした。

「施条」とは、銃身内部に刻まれた螺旋状の溝のことで、銃身内で加速する弾丸に回転運動を加えて弾道を安定させる効果があります。施条と言う概念自体は、すでに15世紀前半のヨーロッパで考案されていましたが、技術的な限界により普及していませんでした。

施条が施されていない火縄銃の命中精度は高くなく、また天候によっても弾道や飛距離が左右されてしまいます。

しかし、戦国時代において鉄砲は、命中精度よりも騎馬兵など敵軍の進行を遅らせることに重点が置かれていたので、命中精度は重視されていなかったのです。

その一方、技量が必須となる弓などと比べ、火縄銃なら初心者であっても、それなりの速さと命中率を維持することができると言う利点もありました。

当時の火縄銃の有効射程距離は100m以内で、厚さ3cmの板を打ち抜けたと言われています。さらに50m圏内であれば甲冑を貫通するほどの威力がありました。熟練した射撃手なら、8~9割の確率で命中させられたのです。

乱戦時であっても2~3割の命中率を維持していたとされ、火縄銃に対応するため、機動性と防御性をかね備えた「当世具足」(とうせいぐそく)と言う甲冑が発案されました。

火縄銃の使い方

火縄銃の発射手順

現代でイメージされる銃とは異なり、火縄銃を撃つには、いくつかの手順を踏まなければなりません。

    火縄銃の発射手順(上から見た図)

    火縄銃の発射手順(上から見た図)

  1. 火縄に着火する。
  2. 銃口から装薬(胴薬)と弾丸を入れ、カルカを使って銃身の奥へ押し込む。
  3. 火皿に点火薬(口薬)を入れ、湿らないように火ぶたを閉じる。
  4. 着火していた火縄を火ばさみに挟んで固定。
  5. 火ぶたを外し、前目当、先目当てを使って照準を合わせる。
  6. 引き金を引く。
  7. 次の弾丸と装薬を銃口から入れる。以下、2~7の繰り返し。

火縄銃は一発弾を撃ったら、そのつど弾丸と火薬を装填しなければなりませんでした。

加えて、火薬皿に点火薬を入れ、火縄を火ばさみに挟むと言う工程も含めると時間がかかることが分かります。次の装填までにかかる時間は平均して30秒。慣れた者でも20秒はかかったのです。

発射の繰り返しには時間がかかるため、間があかないよう隊列を組み交互に銃を撃つなどの戦法が考案されました。

また、戦国時代の火縄銃には、ヨーロッパの銃と比較しても独特の構え方があります。通常、火縄銃ぐらいの長さの銃を扱うときは、床尾(しょうび:銃床の末端部分)を肩に当てて構えるのが普通です。対して火縄銃は、頬に当てる「頬付け」の姿勢で構えていたのが普通でした。

頬付けの構えとした理由は、肩に当てるまでの長さがなかったことや、戦国時代まで武器として一般的であった和弓の構えを応用したため、あるいは重装備の甲冑では肩に当てるのが難しかったためとも言われています。

ただし、臨機応変が求められる戦では、構え方は一様ではなく、腰の位置で構えたり、紐で火縄銃を腰に結び付けて安定させたりといった方法も採られました。

火縄銃を使った足軽

火縄銃を使う足軽

火縄銃を使う足軽

戦国時代の戦において、主要な戦力となったのは足軽です。

「足軽」とは、武士の身分ではない雇われた兵士のこと。熟練の技と経験が必要な刀剣や弓、長槍とは違い、火縄銃は戦闘経験がない者にとっても、すぐに使い方を覚えることができる便利な武器でもあったのです。

熟練度に関係なく、命中率と速さを誇ったことから、火縄銃の国産化による量産が可能になると、足軽に持たせて合戦を行なうようになりました。

火縄銃を扱ったのは足軽だけではありません。「明智光秀」や「伊達政宗」など、武士で構成された鉄砲部隊である「鉄砲衆」も戦で活躍しています。

火縄銃の種類

火縄銃の製造技術を学んだ職人は、戦の場面に合わせて様々な形態の火縄銃を開発しました。

標準的な火縄銃は130cmほどの長さですが、この他に、船上や城での戦闘を想定した「狭間筒」(さまづつ)、馬に乗りながら片手で撃てる接近戦用の「馬上筒」(ばじょうづつ)、懐に隠し持てる護身用の「短筒」(たんづつ)、威力が大きい「大鉄砲」(おおでっぽう)があります。

火縄銃の複製に挑んだ職人達

世界一の鉄砲保有国

戦国時代の日本で保有された鉄砲は、50万挺にものぼりました。この数は、同時代の世界規模で見ても突出しており、戦国時代の日本の特色でもあります。

西洋では火薬を用いた兵器が、1419年(応永26年)の「フス戦争」で初めて導入されていますが、火縄銃のような形式の火器が実戦に用いられたのは1616年(元和2年)の「三十年戦争」からでした。

一方、日本では1614年(慶長19年)に「大坂夏の陣」が起こりましたが、このとき徳川軍が用意した鉄砲は、火縄銃・最新火器を含め30万挺にものぼります。

このように、日本が高い鉄砲保有率を示した理由は、日本の職人達がヨーロッパの火縄銃をもとに国内生産を成功させ、量産化できた点にありました。

火縄銃の複製

1543年(天文12年)、種子島に火縄銃が伝来したとき、領主の種子島時尭は、ポルトガル人から買い取った火縄銃の1挺を地元の刀匠に貸し出し、複製するように命じています。

当時の種子島は砂鉄が採取でき、大勢の刀匠が活動していました。そのひとりであった「八板金兵衛」(やいたきんべえ)が火縄銃の複製に成功しています。

種子島時尭が買い取った2挺のうち、残りの1挺は、薩摩藩主「島津義久」(しまづよしひさ)に贈られました。島津義久は、そのまま火縄銃を室町幕府12代将軍「足利義晴」(あしかがよしはる)に献上。

足利義晴は、種子島時尭と同じように、献上された火縄銃を近江国友(現在の滋賀県長浜市)の刀匠に貸し与え、複製を作るように命じました。国友の職人は半年ほどで2挺の火縄銃を作り上げており、種子島と同様に火縄銃の国産化を果たしています。

国友は、織田信長に占領されたときに専門の鉄砲鍛冶町となり、日本最大の鉄砲生産地のひとつとして発展したのです。種子島や国友以外にも、堺(現在の大阪府堺市)や根来(現在の和歌山県岩出市)、雑賀(現在の和歌山県和歌山市)で火縄銃の生産は盛んでした。

火縄銃の国産化は、いくつかの地域において実現していたと考えられ、しかも短期間で成功していることから、刀匠の技術力が高かったことが分かります。

実際に日本で作られた火縄銃は、海外産よりも性能が良く、信頼性と精度の高さから高値で取引されていました。一方、ヨーロッパで作られた火縄銃は、精度の悪さのため安く取引され、「安鉄砲」と揶揄されています。

火縄銃複製の難関だった「ねじ」

高い技術力を誇る日本の刀匠ですが、火縄銃の複製で悩んだのが「ねじ」でした。

それまで日本にはねじと言う物は存在せず、ヨーロッパでも実用化されてからわずか50年しか経っていなかったのです。火縄銃では、ねじは銃底をふさぐための尾栓(びせん)部分に使われていました。

銃身の清掃や不発弾の除去は、尾栓のねじを取り外すことで可能であったため、銃のメンテナンスと安全性を担保するには最も重要な箇所であったと言えます。

ねじ部分をどのように作ったのかについては明確な史料がなく、現在残されている道具から推測するしかありません。

雄ねじは、ヤスリやタガネを使ってつるまき状に成型したと考えられています。一方、雌ねじの加工については、かなりの困難を伴ったようです。おそらく、銃身を熱処理してから尾栓のねじを入れ、槌などで叩いて成型したのではないかと言われています。

火縄銃の生産地には堺や根来、雑賀など、現在の関西地方にその多くが集中。現在でもねじの流通量が多いのは大阪府であり、戦国時代の面影をそのまま残しています。

火縄銃からライフル銃へ ~戦国から幕末への過渡期~

進化しなかった火縄銃

戦国時代にもたらされた火縄銃は、江戸時代には平和になったことで需要が減り、技術革新や改良がなされることはありませんでした。

また、海外の新型火器としても輸入されることは少なく、次に西洋式火器の需要が大きくなるのは幕末のことです。

西洋の鉄砲技術の革新

スプリングフィールド銃

スプリングフィールド銃

江戸時代における鉄砲需要の低迷とは対照的に、世界では、特にアメリカを中心として技術革新による銃の改良が進みました。

点火には火縄を使わず、雷管を撃鉄で叩くことにより点火させるパーカッションロック式の銃が考案され、軍隊で採用されることとなります。

19世紀半ばには、フランスで銃身に施条を刻んだ前装式パーカッションロック式ライフルのミニエー銃が誕生。イギリスでも同じく施条を施したエンフィールド銃が使われており、銃としての完成度は高くなったと言えます。

エンフィールド銃は、アメリカの「南北戦争」で使われましたが、戦争が終わり払い下げられた銃が幕末の日本に多く輸入されました。

また、ミニエー銃の派生として、スプリングフィールド銃がアメリカで開発され、日本にもたらされています。

火縄銃の演武(実演) YouTube動画

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