明治時代
西南戦争
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西南戦争

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「西南戦争」(せいなんせんそう)とは、1877年(明治10年)の2月15日から9月24日まで続いた、日本国内で起こった最後の内戦。「明治維新」の立役者である「西郷隆盛」(さいごうたかもり)が挙兵した戦いで、武士の世に終止符を打った戦いとも言われています。

明治政府によって奪われていく武士の特権

江戸時代における「武士」と言う階級は、身分制度「士農工商」(武士・農民・職人・商人)の最も上位に位置する、言わば特権階級。そのため、武士のみを優遇するような制度が数多く存在しました。

現代では、誰もが当たり前のように「苗字」(みょうじ)を名乗っていますが、江戸時代では武士のみに与えられた特別な権利。また、打刀(うちがたな)と脇指の2本の日本刀(刀剣)を腰に帯びることのできる「帯刀権」も、武士にしか認められておらず、「苗字帯刀」は武士の誇りとされてきました。

ところが、明治政府は「四民平等」を目指し、武士のみに与えられてきた特権を農民や町人(職人・商人)にも認めていきます。武士は1873年(明治6年)の「徴兵令」によって帯刀権を、1875年(明治8年)「平民苗字必称義務令」により苗字を名乗れる特権を奪われました。

また、武士はお殿様(藩)に仕えることが仕事。そのため、お殿様から決まった給料を与えられ、1871年(明治4年)「廃藩置県」(はいはんちけん)によって藩が廃止されたあとも、明治政府から給料が支給され、武士の生活は守られてきました。しかし、この給料は国家予算の約4割を占め、明治政府は財政困難に。結局、明治政府は1876年(明治9年)に「秩禄処分」(ちつろくしょぶん)を出して給料の支給を廃止しました。

特権によって保たれてきた誇りやプライドに加え、仕事(給与)まで奪われ、明治政府に対する武士の不満は年々募っていったのです。

西郷隆盛が政府から退いた明治六年政変

西郷隆盛

西郷隆盛

「大政奉還」(たいせいほうかん)・「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)などで活躍した西郷隆盛は、「大久保利通」(おおくぼとしみち)・「板垣退助」(いたがきたいすけ)・「岩倉具視」(いわくらともみ)らとともに、明治政府の中核として政治改革に邁進(まいしん)していました。

そんな中、対外政策として問題となっていたのが、朝鮮の開国です。日本は国交を望んだものの、朝鮮から拒否されたことで関係は悪化。「朝鮮を攻撃しよう」という「征韓論」(せいかんろん)が強まりました。

この征韓論をめぐって、明治政府内で意見が分かれます。西郷は、「自分が大使となって朝鮮に赴いて、平和的に開国を実現する」と訴えますが、大久保・岩倉らが猛反対。「西郷が殺害されてしまった場合、戦うことになってしまう。今はまだ内政を重視すべきだ」との理由で、一度は明治天皇に認められた西郷の朝鮮派遣を中止させてしまいます。

この決定に反発した西郷は1873年(明治6年)に政府から退き、鹿児島に帰郷しました。西郷に同調した官僚約600人が職を辞することになったこの出来事は、「明治六年政変」と呼ばれています。

若者を教育するため、鹿児島全域に私学校を設立

鹿児島に帰った西郷は、私学校を設立して若者の教育に力を注ぎます。武道だけでなく、農業や文学を教えることで、将来の日本を担う若者を育てることが目的でした。

しかし、反乱を恐れる明治政府は、西郷とその私学校を監視するための警察官を派遣したり、薩摩藩の保管庫から火薬を無断で運び出したり、私学校の生徒を刺激するような行動を繰り返します。激昂(げきこう)した生徒は政府の管理する弾薬庫を襲撃。さらに「政府が西郷の暗殺を計画している」という噂も流れ、ついに西郷は明治政府に反旗をひるがえす決意を固めたのです。

西南戦争の勃発

1877年(明治10年)2月15日、記録的な大雪の中、西郷率いる薩摩軍は鹿児島を出発しました。一方の明治政府も2月19日に正式な出兵を決定し、薩摩軍3万と官軍7万が激突する西南戦争が始まります。

加藤清正の名城・熊本城をめぐる戦い

加藤清正の築いた熊本城

加藤清正の築いた熊本城

薩摩軍がまず向かったのは、熊本城。築城の名手として名高い「加藤清正」(かとうきよまさ)の築いた名城で、難攻不落と言われていました。勢力で劣る薩摩軍ですが、ここを攻め落として拠点とすることができれば、勝機を見出せると考えたのでしょう。

城を守る官軍は4,000人、攻める薩摩軍は14,000人。2月22日、篭城する官軍に対して薩摩軍は一斉攻撃をしかけますが、「武者がえし」と呼ばれる高い石垣に阻まれ、苦戦を強いられます。

直接攻撃では難しいと判断した薩摩軍は、兵糧攻めに切り替えますが、ここでも熊本城の強さが発揮されます。熊本城には120ヵ所もの井戸が掘られていたとされ、豊富な水が確保されていました。また、食糧確保のために銀杏の木が植えられていたり、畳に保存食であるサトイモの茎が使われていたり、壁にカンピョウが塗りこまれていたりと、熊本城は籠城戦にも強い城だったのです。

熊本城は、52日間にも亘る籠城戦を耐え抜き、薩摩軍はひとりも城内に侵入することができませんでした。官軍は、時代を超えて加藤清正に助けられたと言っても過言ではありません。のちに西郷は「官軍に負けたのではなく、清正に負けた」と嘆いたそうです。

田原坂での激戦

西南戦争における最大の激戦地となったのが、田原坂(たばるざか)です。この場所は官軍にとって、食糧や兵器などの物資を熊本城に運ぶための重要な通路。薩摩軍にとっても、兵糧攻めのために死守しなければならない場所であり、3月4日から20日までの17日間、激しい死闘が繰り広げられました。

最新型の銃を装備する官軍に対して、薩摩軍は旧式の銃で戦っていましたが、連日の雨で銃が使えなくなると刀を抜いて交戦します。得意の白兵戦で一時は、官軍を圧倒した薩摩軍ですが、対する官軍も旧会津藩士などを含む剣術に優れた部隊を送り込み、最終的には官軍が勝利を収めました。

最期は鹿児島・城山の戦い

田原坂の戦いのあとも薩摩軍の敗走は続き、最後は西郷の故郷・鹿児島へと戻ってきます。初めは住民による協力もあって、鹿児島市街の制圧を進めていた薩摩軍でしたが、すぐに官軍に包囲され、最後は城山の洞窟で籠城。9月24日早朝、城山において最後の戦いが繰り広げられました。官軍の銃弾で負傷した西郷が「別府晋介」(べっぷしんすけ)の介錯(かいしゃく)によって切腹すると、戦いの主導者である「桐野利秋」(きりのとしあき)らも次々と戦死。7ヵ月間に及んだ激闘が終わりました。

西南戦争における戦死者の数は、薩摩軍6,800名、官軍6,400名。戦力では差のあった両軍ですが、互角の戦いを繰り広げていたことが分かります。

なぜ、西郷は戦いに身を投じたのか

明治維新に尽力し、「維新の三傑」とまで称されている西郷ですが、自分が中心となって作ってきた明治政府に対して反乱を起こし、51歳の生涯を終えました。

西郷は戦いを決意したときに「おいの身体はお前たちに差し上げもんそ」と言ったそうで、戦いの指揮は執らず、すべてを部下に任せていたと言われています。

情に厚く誰からも慕われていたという西郷は、部下や私学校の生徒のため、戦いを決意したのでしょう。そして、自分自身が犠牲となって武士の不満を受け止めることで、反乱の終結を目指したという見解もあります。実際、明治維新後に各地で起こった武士による反乱も、西南戦争で終息しました。

城をめぐる戦いの変遷についてご紹介!

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