「大姫」(おおひめ)は、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」とその妻「北条政子」の間に生まれた女性。幼少期に出会った婚約者「源義高/木曽義高」(みなもとのよしたか/きそよしたか)を最期のときまで想い続けた「悲劇のヒロイン」として知られています。2022年(令和4年)放送の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、人気女優の「南沙良」さんが大姫役として出演することで話題になりました。源頼朝の政略に巻き込まれ、悲しい運命を辿った大姫とは、どのような人物だったのか。大姫の生涯をご紹介します。
大姫
「大姫」は、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」とその妻「北条政子」の第一子であることは判明していますが、じつは正確な名前と生年は分かっていません。大姫と言う言葉は名前ではなく、「身分が高い人の娘」や「高貴な人物の長女」などの意味を持つ言葉です。
また、源頼朝が挙兵した1180年(治承4年)のときに数え年で3歳だったため、その生年は1178年(治承2年)と推測されています。
大姫の本名が伝わっていない理由は、日本古来に根付いていた「本名を人に知られてはならない」という風習が関係しているとするのが現在の通説です。
北条政子
実際に、平安時代中期に成立した長編物語「源氏物語」でも、男性はほとんどが官位や役職でしか書かれていません。
また、女性も例外ではなく、日本史上でも珍しく「名」が伝えられる北条政子もじつは、朝廷が尼御台(あまみだい:尼になった御台所[みだいどころ:将軍の妻]のこと)に対して通称として付けた名前であるため、北条政子本人は、自分が北条政子と呼ばれていたことは知らなかったと推測されているのです。
源義高/木曽義高
1183年(寿永2年)、6歳になった大姫はひとりの少年と婚約。
それが「木曽義仲」(きそよしなか)の息子で、「清水冠者/志水冠者」(しみずのかんじゃ)の号で知られる「源義高/木曽義高」です。
じつは、この婚姻の裏にはある事情がありました。源頼朝と木曽義仲は従兄弟の関係ではありますが、源頼朝の父は所領争いの末に木曽義仲の父を手に掛けた張本人だったのです。
しかし、ともに「打倒平家」を掲げる身。身内で争っている場合ではない、と和睦を結ぶことになり、そこで行われたのが、お互いの娘・息子を婚姻させると言う、いわゆる「政略結婚」です。
大姫と出会った当時、源義高は弱冠11歳。大人達の事情など知らず、大姫と源義高は仲睦まじく過ごしていたと言います。ところが、大姫達の幸せな日々は、長くは続きませんでした。
木曽義仲
1184年(寿永3年)、京を無事治めた源頼朝と異なり、源義高の父・木曽義仲は京を治めることに失敗。
一説によると、山村育ちの木曽義仲は、貴族のように振る舞う平氏一門や、幼少期を京で過ごした源頼朝とは異なり、宮中での常識を知らなかったために公卿などから嫌われてしまったのではないかと言われています。
さらに、木曽義仲は皇位継承問題に介入したことで「後白河法皇」と対立し、後白河法皇を幽閉するというクーデターを強行。このとき、東国にいた源頼朝は、木曽義仲を討つ大義名分を得たことで、木曽義仲を反逆者とみなして討伐。
木曽義仲の息子である源義高もまた、「将来、仇討ちを企む恐れがある」として討伐される対象となりました。このとき、源頼朝は大姫がショックを受けることを恐れ、大姫に知られることがないように暗殺を計画したと言います。
しかし、その情報は事前に漏れることになり、大姫は周りの手を借りて、源義高の逃亡を手伝うことになるのです。源義高は、屋敷から抜け出すために女装をして鎌倉から脱出。
そして、屋敷では源義高が抜け出したことを悟られないように、源義高と同い年の御家人「海野幸氏」(うんのゆきうじ)が身代わりとなって、部屋で双六を楽しんでいるように見せかけたり、馬の蹄(ひづめ)に真綿を巻いて、音が聞こえないように細工したりしたと言います。
源義高が屋敷から脱出して5日後、大姫のもとに「源義高が討ち取られた」との報せが届きました。大姫はこの報せに、水が喉を通らないほどのショックを受け、日に日に衰弱していきます。
静御前
大姫はその後、うつ状態となり、屋敷にこもって過ごしました。その間、北条政子や源頼朝は、大姫の回復を願ってお寺などを訪れ、病気祈願などを行ったと言います。
1186年(文治2年)、源義高が亡くなって2年後のこと。大姫は、鎌倉を訪れていた「静御前」(しずかごぜん)と出会います。静御前は、源頼朝の弟「源義経」の愛妾です。
京に住む静御前が鎌倉に来ていた理由は、逃亡中の源義経の件で呼び出されたためと見られています。そして、塞ぎ込んでいた大姫のことを知ると、静御前は大姫のために白拍子舞(しらびょうしまい:平安時代末期から鎌倉時代に流行した歌舞)を披露。
静御前の華麗な歌舞を見た大姫は、大変喜びました。そのあと、静御前は鎌倉に約4ヵ月滞在。この間、大姫は「愛する人と離れ離れになった」という、似た境遇を持った静御前と交流したとされており、つかの間の安穏の日々を過ごしたのです。
後鳥羽上皇
1194年(建久5年)、17歳になった大姫は、源義高を失って以降、病気がちになったり、回復したりの日々を送っていました。
大姫が負った心の傷は、周りが思う以上に深かったのですが、父・源頼朝は政略のために、次なる縁談を決めてきてしまうのです。
それが、源頼朝の甥にあたる「一条高能」(いちじょうたかよし)との縁談でした。ところが、大姫は「結婚などしません。無理にするくらいなら身投げします」と強く拒絶。
この返答に源頼朝は大姫へ謝罪しますが、その翌年の1195年(建久6年)になると、源頼朝はまた新たな縁談を計画します。縁談の相手は「後鳥羽天皇」(のちの後鳥羽上皇)でした。
源頼朝は、大姫の入内(じゅだい:高貴な女性が天皇と結婚すること)に相当な手間と資金を掛けましたが、大姫の病はそのあと悪化。1197年(建久8年)、大姫は後鳥羽天皇のもとへ嫁ぐことなく、20歳と言う若さでこの世を去ります。
なお、大姫の死因は病が原因ではなく、自ら命を絶ったとする説や、暗殺されたのではないかとする説など諸説存在。いずれにしても大姫は、源頼朝の政略に巻き込まれ、半生を悲しみのなかで過ごした「悲劇のヒロイン」として、その名を残すことになりました。