三英傑として有名な「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」。ホトトギスの句で表現されるようにそれぞれ異なる性格を持っており、こうした三者三様の在り方は、時代の流れに沿って温泉利用にも反映されていました。そんな三英傑の温泉事情についてご紹介します。
「織田信長」と温泉の関係を示す証拠はほとんどなく、あるのは岐阜県関市の羽渕家の家系図に記された古文書のみ。この史料から、織田信長の目的は関市を通って飛騨(現在の岐阜県北部)まで湯治に行くことが記されています。近年の研究では、おそらく下呂温泉が目的地だろうと考えられており、織田信長は「羽柴秀吉」のちの「豊臣秀吉」、「前田利家」らの家臣を何名か引き連れて、機嫌よく湯治に向かったことも判明。
気性の激しさについて取り上げられることもありますが、織田信長には家臣思いの面もあったのです。織田信長の時代、温泉にかかわる情報が出てこないのは、戦国時代の隠し湯的な流れが強く残っていたから。他の武将の場合だと、湯治中に襲われたケースもあり油断大敵だったと言えます。できるだけ敵に悟られないことが重要でした。
下呂温泉と言えば、摂津(現在の大阪府北西部、及び兵庫県南東部)の有馬(有馬温泉)、上州(現在の群馬県)の草津(草津温泉)、飛騨の湯島(下呂温泉)と室町時代の詩文集「梅花無尽蔵」にも優れた温泉地として記されています。この3つの温泉は「日本三名泉」と言われ、そのひとつである下呂温泉を選ぶ織田信長は、さすがです。
織田信長は、温泉利用を公言するようなことをしませんでしたが、豊臣秀吉は正反対。無類の温泉好きなこともあって、温泉を隠すことをしなくなっていったのです。織田信長によって次々に統一されていく世の流れから、周りを警戒する必要性がどんどん消えていったことがその理由。
また、豊臣秀吉は、温泉のなかでも特に有馬温泉を気に入り自分の領地にまでしてしまいます。有馬温泉の年貢は、有馬温泉の発展や湯治のためにあてたほど。大坂城(現在の大阪城)を豪華絢爛にしたように、豊臣秀吉は温泉にも力を入れて豪華に築き上げていきました。
豊臣秀吉は、有馬温泉で湯治するために天神泉源付近にあった阿弥陀堂を滞在地として「千利休」や「津田宗及」(つだそうぎゅう)を招いて茶の湯を催し、1594年(文禄3年)に自分専用の御殿を建てるほどでした。
豊臣秀吉らしい豪華な温泉施設でしたが、直後に大地震により倒壊。すぐに復興作業を進めたのですが、存命中に理想の有馬温泉が完成するのを見届けることは叶いませんでした。
豊臣秀吉も温泉好きでしたが、のちに天下を取った「徳川家康」もまた温泉好きでした。熱海温泉を気に入り、7日間子どもと共に湯治に出かけた記録も残っています。徳川家康は健康に強い関心を抱いていたのです。
のちに、徳川家康は温泉地に通うことを辞め、温泉地からお湯を運ばせてくるように命令をくだします。病気治療中の大名「吉川広家」(きっかわひろいえ)へ温泉の湯を樽詰にして運ばせたのが始まりとされ、熱海から江戸城(現在の東京都千代田区)まで温泉を運ばせる「御汲湯」(おくみゆ)として、歴代徳川将軍へ継承されていきました。
徳川家康の時代では、温泉はもはや行って入浴するのではなく、身近にある浴場だったのです。この頃には、隠し湯的な温泉の形は消え、温泉はより現代に近い大衆も楽しめる場所へと変化を遂げていきます。庶民においては許可が必要でしたが、戦国時代などと比べ、温泉は随分と開放的で身近になりました。
熱海温泉を有名にブランド化したのは、徳川家康による影響が大きく働いているのです。