武士と日本のマナー

武家茶道とは

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武将によって開かれた「武家茶道」という茶道の流派があり、「大名茶」とも呼ばれています。武家茶道の所作には、武士の文化の影響を受けたものが少なくありません。例えば、武家茶道の流派「上田宗箇流」(うえだそうこりゅう)では、柄杓(ひしゃく)や袱紗(ふくさ)の扱い方に、武士の嗜んだ弓術の名残があるのです。そんな武士の文化を受け継ぐ武家茶道についてご紹介していきます。

武家茶道とは

茶道の流派のなかでも、「武家茶道」と言われている流派があります。これは武将が開祖となった茶道の流派のことです。

千利休

千利休

有力な武将が茶を嗜んでいた例は数多くあります。「織田信長」(おだのぶなが)が茶堂としての豪商であった「今井宗久」(いまいそうきゅう)、「津田宗及」(つだそうぎゅう)、「千利休/千宗易」(せんのりきゅう/せんそうえき)を召し抱えたことから、多くの武将達が茶道を嗜むようになりました。

本能寺の変」のあと、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)が千利休を茶堂主席に取り立てたことから、武家茶道の流派が始まっていったのです。

利休十哲

千利休は豊臣秀吉の勘気に触れて切腹を命じられます。その後の千家は、いくつもの流派に分かれていきました。今日の茶道の大家となっている表千家・裏千家・武者小路千家の3千家を始めとして、武家の「古田織部」(ふるたおりべ)が「織部流」(おりべりゅう)を作り、織部流から「小堀遠州流」(こぼりえんしゅうりゅう)が興りました。千利休の実子である「千道安」(せんのどうあん)の孫弟子であった「片桐石州」(かたぎりせきしゅう)が、「石州流」(せきしゅうりゅう)を作り武家茶道として分派していきました。

千利休の高弟10人を称して、「利休十哲」(りきゅうじってつ)と呼んでいます。「蒲生氏郷」(がもううじさと)・「高山右近」(たかやまうこん)・「細川忠興/細川三斎」(ほそかわただおき/ほそかわさんさい)・「芝山監物」(しばやまけんもつ)・「瀬田掃部」(せたかもん)・「牧村兵部」(まきむらひょうぶ)・古田織部・「織田有楽斎(織田長益)」(おだうらくさい[おだながます])・千道安・「荒木村重/荒木道薫」(あらきむらしげ/あらきどうくん)の10人です。所説により人が入れ替わることがありますが、この10人がよく数え上げられる人物です。

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江戸時代に定着した武家茶道

武家茶道

武家茶道

戦乱の世の大きな流れの中でも、武家茶道は受け継がれていきます。江戸時代には、大名が将軍家の茶道師範を任されたことよって、武家茶道を確かなものにしていったのです。

2代「徳川秀忠」(とくがわひでただ)に古田織部が、3代「徳川家光」(とくがわいえみつ)に小堀遠州が、4代「徳川家綱」(とくがわいえつな)には片桐石州が茶道を指南しました。それぞれ、織部流・遠州流・石州流と流派を興します。

片桐石州が、4代徳川家綱に指南したことをきっかけに、大名・旗本・下級武士にまで石州流の武家茶道が広まり多くの流派も成立。石州流は一子相伝ではなく、免許皆伝制度を取ったため、全国規模で石州流が武家茶道として確立しました。今でも城下町であった地域に、多くの石州流の茶道が根付いています。武家茶道の代表でもあり、「松平不昧公」(まつだいらふまいこう)や、「井伊直弼」(いいなおすけ)などが石州流の茶を嗜んでいました。

明治維新により、資金を出す大名がいなくなったことで武家茶道は廃れていきます。今では茶道と言えば、表千家、裏千家、武者小路千家の3千家が大きな流派となっていますが、武家茶道として石州流・遠州流の流派に加え、「上田宗箇流」(うえだそうこりゅう)も広島を拠点に古の形を守っています。

現代につながる武家茶道の流派

織部流(おりべりゅう)

利休十哲のひとり、古田織部を開祖とします。「利休流」(りきゅうりゅう)から離れ、自分の感覚を活かした新しい趣向を作り出しました。武士好みの力強い華やかな茶風で、茶器の個性的なデザインが織部流の特徴になっています。

古田織部もまた、千利休と同じ運命で人生を終えています。仕えていた2代将軍徳川秀忠の勘気に触れて切腹させられたのです。その後の織部流は細かく分派してしまいます。

遠州流(えんしゅうりゅう)

小堀遠州を開祖とします。1万石の大名であった小堀遠州は古田織部に師事しました。徳川初代から3代続けて仕え、3代将軍徳川家光の茶道指南役も務めました。遠州流の美は、侘びの中に華やかさを感じさせる「きれいさび」と表現されます。現在も遠州流は継承されています。

三斎流(さんさいりゅう)

利休十哲のひとりである細川三斎(細川忠興)を開祖とします。利休流を忠実に継承したのが三斎流であると言われています。弟子が領地の熊本に帰って茶道を広めたことから、熊本では三斎流が主流になっています。

石州流(せきしゅうりゅう)

片桐石見守貞昌

片桐石見守貞昌

片桐石見守貞昌(かたぎりいわみのかみさだまさ)を開祖とします。

大名茶でありながら、千利休の精神を継承した侘びを主とした茶風です。

小堀遠州のあとを継いで、4代将軍徳川家綱の茶道指南役となりました。この時代には体制が整っていた江戸幕府のもとで、石州流は茶道の主流になります。

免許皆伝制によりたくさんの大名に継承され、制度が定着した参勤交代により領地に持ち帰られた石州流茶道は、全国へと広がりました。

上田宗箇流(うえだそうこりゅう)

上田宗箇は、豊臣秀吉に仕えていた武将であり、古田織部との深い親交から茶を学びます。のちに広島の国老職を務めたため、広島には上田宗箇流の茶道が広がります。現在でも広島では、上田宗箇流が茶道の主流になっています。

武家茶道の特徴

武家茶道の特徴は、男社会の茶道から始まったところにあります。戦国時代の茶道は、武将の非戦時の趣味として流行しました。

同時に、武将同士の「講和」や、主君と家臣の密談の場としても重用されました。逸話としては、織田信長が長男の「織田信忠」(おだのぶただ)に家督を譲ることを決めたのも、茶を服したあとの茶室でのできごとだったそうです。このとき、織田信長は「お気に入りの茶道具だけを持って自分は城を出る、あとは好きにせよ」と告げたそうです。

そのお気に入りの茶道具の中からのちに、8点ほどの「名物」を織田信忠に譲りましたが、父子ともども志半ばにして本能寺の変に斃(たお)れました。そののち茶道は、江戸時代において、将軍の庇護や武士の嗜みとして定着します。茶道の作法やお点前を身に付けるのは、武士の嗜みであり招き招かれる接待の場でもあったのです。

明治維新後は、女子の教育に適しているということで積極的に取り入れられ、花嫁修業のような立ち位置になっていきました。現在では、茶道は女性のお稽古事だというイメージが強いですが、本来茶道を継承し、嗜んできたのは武士だったのです。

茶室の入口は身分の隔てなし

茶道は屋外で行なう立礼などを除き、茶室で行なわれましたが、その入口である「にじり口」には独特の作法があります。にじり口の大きさは高さが2尺2寸(約67センチ)、幅が2尺1寸(約64センチ)ほどなので、客である武士が日本刀を持ったままで入ることはできません。

それどころか、「亭主」が待つ茶室に入るには、例え客のほうが身分が高くても、茶室の外の刀掛けに日本刀を預け、にじり口では頭を下げて膝をつき、体を縮めたまま茶室に入る他はありません。

豊臣秀吉の庇護の下、茶の湯を完成させた千利休が、最後はその豊臣秀吉によって切腹を命じられたのは、プライドの高い豊臣秀吉への、こうした茶の湯の作法が勘気に触れた…との説もあながち間違いではないのかもしれません。

国宝茶室「如庵」と織田長益(織田有楽斎)

茶室 如庵

茶室 如庵

武家茶道の名建築として、現在まで残っているのが国宝の茶室「如庵」(じょあん)。

如庵は安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人で織田長益系織田家嫡流初代でもある織田長益(織田有楽斎)によって、京都建仁寺(けんにんじ)の境内に建てられました。

織田長益(織田有楽斎)は織田信秀(おだのぶひで)の十一男で織田信長の弟にあたり、茶号を有楽・如庵(うらく・じょあん)と称しました。

千利休に茶道を学び、利休十哲のひとりにも数えられており、のちには自ら茶道「有楽流」(うらくりゅう)を創始しました。茶室・如庵はその後、明治時代に東京に移築され国宝に指定され、1972年(昭和47年)には名古屋鉄道株式会社によって愛知県犬山市にある名鉄犬山ホテル(※)敷地内にある日本庭園の有楽苑(うらくえん)に移築され、現在もその姿を保っています。

杮葺き入母屋風(こけらぶきいりもやふう)の妻を正面に向け、千利休の「待庵」(たいあん)とも違った瀟洒な構えに2畳半台目の向切り(むこうぎり:茶室にある炉の設置形式のひとつ)で茶室にありがちな窮屈さを感じさせない、自由な造りとなっています。「武家の節度」を感じさせる名席中の名席として、茶室・如庵を模した茶室(茶席)は全国各地に見られます。

※名鉄犬山ホテルは2019年8月末で営業終了。2021年後半に「ホテル・インディゴ 犬山 有楽苑」として再オープン予定。

織田長益(織田有楽斎)の佩刀「有楽来国光」

茶室・如庵とともに、織田長益(織田有楽斎)の遺構として現在まで伝えられているのが、織田長益(織田有楽斎)が所持していたとされる短刀有楽来国光」です。正式名称は「短刀 銘 来国光 [名物有楽来国光]」。鎌倉時代後期から南北朝時代の京都の刀工「来国光」(らいくにみつ)の作で、「豊臣秀頼」(とよとみひでより)から織田長益(織田有楽斎)に下賜された名刀。

織田長益(織田有楽斎)から本阿弥光甫(ほんあみこうほ:江戸時代前期の工芸家)の取次で「前田利常」(まえだとしつね)の手に渡り、織田長益(織田有楽斎)亡きあとは加賀藩前田家(まえだけ)に伝わりました。長さは9寸1分5厘(約27.7cm)、当時の短刀(脇差)としては大振りのつくりで、刀身には破壊と恵みを司る「不動明王」の化身であるの図を表す素剣(そけん)の模様が刻まれています。

また、(なかご)には、来国光の刻印も見られます。1955年(昭和30年)には国宝に指定されました。そして1990年(平成2年)には刀剣研磨師で人間国宝の藤代松雄氏(ふじしろまつおし)が、刀身の傷みを予防し風合いを保つための研磨を行ないました。

身幅は広く、重ねは厚く、ほとんど反りがないその姿は、凛とした佇まいと、静謐(せいひつ)の中にも凄みを感じさせる圧倒的な存在感を放ち、観る人の心を吸い寄せるようです。

短刀 銘 来国光(名物 有楽来国光)
短刀 銘 来国光(名物 有楽来国光)
来国光
鑑定区分
国宝
刃長
27.7
所蔵・伝来
豊臣秀頼 →
織田有楽斎 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

お辞儀の仕方

茶道におけるお辞儀は、真の礼、行の礼、草の礼の3つあり、相手に合わせてお辞儀の深さが変わります。主客間で行なう一番深い礼は、真の礼で手のひら全部を畳に付け、45度くらいの深さで礼をします。

武家茶道にはお辞儀の使い分けがありません。あるのは女性と男性による違いです。男性のお辞儀の仕方は、手を軽く握りこぶしの形にして膝の上に置いたり、膝横の畳に軽く置いたりして頭を下げます。

石州流では、特に日本刀を握るための大事な親指は見せないように内側に握ることが作法になっています。こぶしで手を畳につく理由のひとつとして、これからお茶碗を触る手のひらを汚さないようにするためとも言われています。女性のお辞儀は、手を握らず、前にそろえて中3本の指が軽く畳につくくらいに添えます。

武家茶道として特徴的なのは、男女とも頭を下げる角度が浅いことです。60度くらいと言われ、いつどんなときでも周囲の気配に敏感でなければならないという意味が含まれています。

弓を射るときのような所作

柄杓(ひしゃく)や袱紗(ふくさ)の扱い方に弓矢をつがえる動作が取り入れられているのが、上田宗箇流です。馬上での弓を構えたような、背筋をピンと伸ばした姿勢の所作が特徴。動作も直線的で凛とした美しい所作が、武家茶道である上田宗箇流ならではの作法です。

袱紗の持ち方

茶道では、茶器を清めるために袱紗を使用。袱紗を身に付けるときの作法も流派によって異なり、千家系の流派は、通常左腰、武家茶道では右腰に付けます。

「千家流」(せんけりゅう)が現在日本の茶道の主流を占めるため、茶道経験者のほとんどが袱紗は左腰に付けるのが作法と思われています。武家茶道が右腰に袱紗を付ける理由として、日本刀を差す左腰には袱紗を付けられないからだと言われています。もともとの作法では、袱紗を左腰に付けていました。

その作法を変えたのは、「千宗旦」(せんのそうたん)であると言われています。遠州流では千家の祖である千宗旦が左利きであったからと言われており、実際に右腰で作法を覚えた人は、左利きに有利な作法だと感じるそうです。

もうひとつの理由として、左腰に袱紗を付けると切腹のような構えになることを千宗旦が嫌ったとしています。袱紗の取り方が、右手を体の前から反対側に持っていかなければなりません。その動きが、切腹のようだと千宗旦は感じたのです。千宗旦にとって左腰に袱紗を付けるのは美しい所作にならない、という考えがあったため、右腰に袱紗を付ける作法が生じたのです。

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