大友宗麟
キリシタン大名として知られる大友宗麟(おおともそうりん)は、北九州の国々を治めた戦国大名です。
大友家の最盛期を築いた大友宗麟ですが、自身が合戦の先頭で指揮を常に執っていたわけではなく優秀な家臣の活躍によって支えられていたとも言われています。
青年期にフランシスコ・ザビエルと出会ったことにより、ポルトガルとのつながりが生まれ、南蛮貿易で得た経済力で勢力を拡大。
その一方で大友宗麟は書画や茶道、蹴鞠(けまり)などに通じており、文化人としての顔も持ち合わせていました。
大友宗麟は、日本刀に限らず数々の名品を蒐集(しゅうしゅう:趣味などのために集めること)しており、そのうちのひとつである「骨喰藤四郎」(ほねはみとうしろう)と号する太刀は、大友宗麟が特に執心した1振。
豊臣秀吉に献上後、徳川家に受け継がれて重要文化財に指定され、現在は、豊国神社(とよくにじんじゃ:京都府京都市東山区)にて所蔵されています。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1530年(享禄3年) | 1歳 | |
1543年(天文12年) | 14歳 |
元服し、大友義鎮(おおともよししげ)と名乗る。
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1550年(天文19年) | 21歳 | |
1551年(天文20年) | 22歳 |
宣教師のフランシスコ・ザビエルに出会う。
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1553年(天文22年) | 24歳 |
謀反(むほん)を企てていた家臣とその一族を討伐する。
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1554年(天文23年) | 25歳 |
肥後国(現在の熊本県)の守護に任じられる。
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1556年(弘治2年) | 27歳 |
藟岳城/藟嶽城(つづらだけじょう:熊本県玉名郡)の戦いで謀反を起こした重臣・小原鑑元(おばらあきもと)を破る。
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1559年(永禄2年) | 30歳 |
豊前国(現在の福岡県東部)、及び筑前国(現在の福岡県西部)の守護に任ぜられる。
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1560年(永禄3年) | 31歳 |
左衛門督(さえもんのかみ)に任ぜられる。
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1562年(永禄5年) | 33歳 | |
1563年(永禄6年) | 34歳 | |
1568年(永禄11年) | 39歳 | |
1569年(永禄12年) | 40歳 |
多々良浜の戦い(たたらはまのたたかい)で、毛利家を破る。
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1570年(永禄13年/ 元亀元年) |
41歳 | |
1576年(天正4年) | 47歳 |
家督を嫡男・大友義統(おおともよしむね)に譲ったのち、隠居する。
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1577年(天正5年) | 48歳 |
島津義久(しまづよしひさ)が日向国(現在の宮崎県)に侵攻すると、自身も出陣する。
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1578年(天正6年) | 49歳 |
洗礼を受け、洗礼名をドン・フランシスコとする。
耳川の戦い(みみかわのたたかい)で島津軍に敗れる。 |
1579年(天正7年) | 50歳 |
田原親貫の乱(たばるちかつらのらん)が勃発するが、これを平定する。
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1586年(天正14年) | 57歳 |
豊臣家の家臣になる。
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1587年(天正15年) | 58歳 |