九州・沖縄地方の戦国大名

龍造寺家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

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龍造寺家(りゅうぞうじけ)は、肥前国(ひぜんのくに:現在の佐賀県、長崎県)を中心として活躍した戦国大名です。「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)の代には、九州北部一帯に勢力を拡げるなど最盛期を誇った龍造寺家。今回はそんな龍造寺家の来歴や、龍造寺家に仕えた家臣達、龍造寺家ゆかりの刀剣や甲冑(鎧兜)についてご紹介します。

龍造寺家の来歴

龍造寺家の家紋「日足」

龍造寺家の家紋「日足」

龍造寺家(りゅうぞうじけ)は、平安時代の名家・藤原家の流れを汲む高木家の分派が、肥前国(ひぜんのくに:現在の佐賀県長崎県)の龍造寺(現在の佐賀県佐賀市)に根付いたことから、「龍造寺」を名乗ったのが始まりであると言われています。

同地の佐嘉城(佐賀城:現在の佐賀県佐賀市)を拠点とする国人として、肥前を治める少弐(しょうに)家に仕えます。

主君であった少弐家(しょうにけ)は、隣国の周防国(すおうのくに:現在の山口県南東部)の大内家と長年に亘り抗争を続けていました。

そんななか、「龍造寺家兼」(りゅうぞうじいえかね)が知勇に優れ頭角を現すようになり、当主の補佐として兄の「龍造寺家和」(りゅうぞうじいえかず)や甥の「龍造寺胤久」(りゅうぞうじたねひさ)ら当主を傀儡として実権を握ります。

さらに、1530年(享禄3年)に起こった少弐家と大内家が争った田手畷の戦い(たでなわてのたたかい)では、龍造寺家兼らの活躍により大内軍を撃退。戦で功績を挙げた龍造寺家兼は、敵として戦った「大内義隆」(おおうちよしたか)に力を認められました。

そして大内家と手を結び、主君「少弐資元」(しょうにすけもと)が大内義隆に攻められた際に救援を出さず傍観に徹し、結果、少弐資元を自害に追い込みます。主君の力が衰えさらに勢力を増す龍造寺家でしたが、救援を出さず見殺しにしたことは主君への謀反だとして、少弐家の重臣達を敵に回すことに。

1545年(天文14年)には、少弐家家臣「馬場頼周」(ばばよりちか)を中心とした勢力によって、龍造寺家兼の息子や孫など一族の多くが次々と討たれてしまいます。龍造寺家兼自身も、佐嘉城を追われ筑後国(ちくごのくに:現在の福岡県南部)の「蒲池鑑盛」(かまちあきもり)のもとに逃れるなど、龍造寺家は散り散りとなってしまいました。

龍造寺家再興と龍造寺隆信

命からがら逃れた龍造寺家兼は、子や孫を失ってしまったため、出家していた曾孫の「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)を連れて筑後国へと向かいます。

1546年(天文15年)になると、龍造寺家の再興を目指し龍造寺家兼が挙兵。蒲池鑑盛や龍造寺家家臣「鍋島清房」(なべしまきよふさ)の支援、少弐家の台頭で力を落としていたかつての主君・千葉家の加勢もあり、馬場頼周を討ち取ることに成功し、そのまま居城であった佐嘉城も奪還しました。

龍造寺家の再興を果たした龍造寺家兼でしたが、このときすでに90歳を超えており間もなく死没。龍造寺家兼の遺言により、龍造寺隆信を還俗(僧になった人物が俗人に戻ること)させ当主とします。すると龍造寺隆信は、少弐家や千葉家など近隣の有力国人を攻め、またたく間に肥前国東部を攻略します。

「肥前の熊」の異名を持つほどとなった龍造寺隆信の勢いを近隣諸侯も危険視しますが、龍造寺隆信は有馬家・大村家の連合軍や、豊後国(ぶんごのくに:現在の大分県)の「大友宗麟」(おおともそうりん)など、攻め入ってきた勢力をことごとく撃退。

1578年(天正6年)には、有馬家を従属させることで肥前国を統一。さらに耳川の戦いで、大友宗麟が薩摩国(現在の鹿児島県西部)の「島津義久」(しまづよしひさ)に大敗したのを機に、龍造寺隆信も大友領に侵攻し国人を支配下に収め、さらに勢力を拡大させます。この頃、龍造寺隆信は家督を息子「龍造寺政家」(りゅうぞうじまさいえ)に譲り隠居しますが、実権は龍造寺隆信が握ったまま肥前の政治にかかわり続けました。

龍造寺隆信の死と龍造寺家の没落

息子に家督を譲ってからも、龍造寺隆信は周辺諸国へ侵攻を続け、筑前国(ちくぜんのくに:現在の福岡県西部)や肥後国(ひごのくに:現在の熊本県)に勢力を拡大。九州北部を領地とし、九州は龍造寺家・島津家・大友家の3強がしのぎを削ることとなります。

しかし1584年(天正12年)、支配下だった「有馬晴信」(ありまはるのぶ)が反旗を翻し、その反乱に島津家も加勢したため反乱を治めるべく龍造寺隆信が出陣し、沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)へと発展しました。

兵力差では圧倒的に勝っていた龍造寺軍でしたが、地形を活かした島津軍の策略にはまり大敗。龍造寺隆信も島津家の武将に討ち取られてしまい、総大将を失った龍造寺家内部は混乱を起こします。

鍋島直茂

鍋島直茂

当主であった龍造寺政家は、龍造寺家兼の代から龍造寺家に仕える「鍋島直茂」(なべしまなおしげ)の補佐を受けながら政務にあたりますが、龍造寺隆信を討ち勢いに乗る島津家の侵攻を止めきれず、軍門に下ることを余儀なくされました。

しかし、龍造寺家が島津家に従うことになってからも鍋島直茂は、秘密裏に「豊臣秀吉」とつながりを持ち、豊臣秀吉の島津家攻めに加勢。

この功績を評価され、鍋島直茂が当主の龍造寺政家に代わって政権を担うよう豊臣秀吉に命じられることとなり、主家は龍造寺家のまま、実質的には鍋島家が権力を持つことになります。さらに鍋島直茂は、関ヶ原の戦いでは東軍である「徳川家康」に味方し、その働きを認められ龍造寺家による佐賀藩の統治を認められます。

しかし龍造寺政家の息子であり、当主「龍造寺高房」(りゅうぞうじたかふさ)は、藩主ながら実権が無いことに憤り、再三にわたり主権の回復を幕府に訴えるも認められず、龍造寺高房は抗議の意味を込めて自害してしまいます。直後に龍造寺政家も病死し、幕府の命令によって鍋島家が佐賀藩主となったため、大名としての龍造寺家は断絶しました。

戦国時代中期まで国人の中の一勢力に過ぎなかったにもかかわらず、わずか2代で九州全土の覇権を争うほどの戦国大名へと成長した龍造寺家。しかし、龍造寺隆信の戦死により衰退の一途をたどった龍造寺家の足跡は、群雄割拠の戦国時代では、「総大将が生き残ること」が何よりも大切だったことを物語っています。

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龍造寺家ゆかりの刀剣・甲冑

龍造寺家ゆかりの刀剣甲冑(鎧兜)をご紹介します。

刀剣

肥州末貞(ひしゅうすえさだ)
肥州末貞

肥州末貞

肥州末貞は、龍造寺隆信が所用していた太刀です。沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討ち取った島津家家臣の「川上忠堅」(かわかみただかた)が褒美として拝領し、2008年(平成20年)に川上家当主から佐賀県に寄贈されました。

現在は、佐賀県の重要文化財に指定され、鍋島報效会徴古館(佐賀県佐賀市)に収蔵されています。

甲冑

紺糸縅桶側二枚胴具足(こんいとおどしおけがわにまいどうぐそく)
紺糸縅桶側二枚胴具足

紺糸縅桶側二枚胴具足

紺糸縅桶側二枚胴具足は、龍造寺隆信所用の甲冑(鎧兜)です。

桶川胴という横長の鉄板を組み合わせた形状の具足。

現在は、佐賀県立博物館(佐賀県佐賀市)に収蔵されています。

龍造寺家を支えた家臣

鍋島直茂(なべしまなおしげ)
鍋島直茂は、龍造寺家兼・龍造寺隆信・龍造寺政家と、歴代に亘り龍造寺家に仕えた家臣です。龍造寺政家が家督を継いだ際には、龍造寺隆信から後見人を任されるなど当主からも信頼され、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が戦死すると、あとを追って自害しようとしたところを家臣に止められるほど忠義に厚い重臣でした。

豊臣秀吉や徳川家康にも才覚を認められ龍造寺家の実権を握ると、龍造寺家断絶後は佐賀藩主を鍋島直茂の息子「鍋島勝茂」(なべしまかつしげ)が引き継ぐこととなり、以降明治に入るまで、藩主として鍋島家が同地を治めました。

龍造寺家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

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