最上義光
最上家を「大大名」(だいだいみょう:10万石以上を領する大名)へと押し上げた最上義光(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県、及び秋田県)に生まれました。
伊達政宗(だてまさむね)の伯父であることでも知られている人物です。子どもの頃から背が高く、大変な力持ちであったと言われており、盗賊に寝込みを襲われた際には、先頭に立って応戦して撃退したという逸話も残っています。
そして、このときに最上義光は父である最上義守(もがみよしもり)より、名刀「笹切」(ささきり)を与えられたと伝えられているのです。
家臣からの信頼も非常に厚かった(あつかった)最上義光は、妹の義姫(よしひめ)とも大変仲が良く、2人の間でやり取りされた私情をしたためた多くの書簡が残っています。
笹切の他にも最上家に伝わった日本刀はいくつかあり、同家の家宝であった「鬼切丸」(おにきりまる:別称鬼切安綱[おにきりやすつな])がそのひとつ。鬼切丸は、平安時代の武将・渡辺綱(わたなべのつな)が鬼を切ったという伝説から、その号が名付けられた1振です。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1546年(天文15年) | 1歳 | |
1558年(弘治4年/ 永禄元年) |
13歳 |
元服し、最上義光と名乗る。
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1560年(永禄3年) | 15歳 |
寒河江城(さがえじょう:山形県寒河江市)への侵攻において、初陣を飾る。
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1563年(永禄6年) | 18歳 | |
1571年(元亀2年) | 26歳 |
最上家の家督を相続する。
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1574年(天正2年) | 29歳 |
父・最上義守との仲が険悪になるも、最上義光にとって有利な状況で和議が成立する。弟・中野義時(なかのよしとき)が守る中野城(山形県山形市)を落城する。
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1577年(天正5年) | 32歳 |
最上八楯(もがみやつだて:出羽国の領主連合)の盟主・天童頼貞(てんどうよりさだ)らと争うも決着が付かず、最終的には和睦した。天童頼貞の娘・天童御前を側室に迎える。
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1578年(天正6年) | 33歳 |
柏木山の戦い(かしわぎやまのたたかい)において、伊達輝宗(だててるむね:妹・義姫[よしひめ]の夫)と交戦するも、義姫の説得により和議を結ぶ。
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1580年(天正8年) | 35歳 | |
1581年(天正9年) | 36歳 |
万騎の原の戦い(まきのはらのたたかい)では、小国城(おぐにじょう:山形県最上郡)の城主・細川直元(ほそかわなおもと)を討ち、同城を奪う。
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1582年(天正10年) | 37歳 |
天童御前が、三男・清水義親(しみずよしちか)を産んだ直後に亡くなったため、天童氏との和睦が撤回される。
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1583年(天正11年) | 38歳 | |
1584年(天正12年) | 39歳 |
谷地城(やちじょう:山形県西村山郡)を攻め落とし、寒河江氏(さがえし)を滅亡させる。
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1588年(天正16年) | 43歳 |
豊臣秀吉より、羽州探題(うしゅうたんだい:出羽国に置かれた室町幕府の役職)に任命される。十五里ヶ原の戦い(じゅうごりがはらのたたかい)で、上杉軍に大敗する。
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1590年(天正18年) | 45歳 |
小田原征伐に参陣し、その戦後、豊臣秀吉より出羽国24万石を賜る。
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1591年(天正19年) | 46歳 |
京都に上り、従四位下・侍従(じゅしいのげ・じじゅう)に補任される。豊臣秀次(とよとみひでつぐ)より、三女の駒姫(こまひめ)を側室に迎え入れることを何度も要求されたため、それを約束する。
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1592年(天正20年/ 文禄元年) |
47歳 | |
1600年(慶長5年) | 55歳 | |
1601年(慶長6年) | 56歳 |
大宝寺城を改築し、その名称を鶴ヶ岡城(山形県鶴岡市)に改めたあと、自身の居城とする。
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1611(慶長16年) | 66歳 |
従四位上・左近衛少将(じゅしいのじょう・さこんえのしょうしょう)の位を賜り、出羽守(でわのかみ)に任官する。
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1613年(慶長18年) | 68歳 | |
1614年(慶長19年) | 69歳 |
山形城に帰還。のちに病死する。
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