歴女も憧れる女剣士ヒストリー

義姫

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戦国時代を代表する名将であり、「もう少し早く生まれていれば天下人になれた」と語り継がれる仙台藩初代藩主「伊達政宗」(だてまさむね)。その母で、「奥羽(おうう)の鬼姫」との異名も持つのが義姫(よしひめ=1547~1623年)です。

子を殺そうとした鬼母か、家と子の将来を案じ葛藤した母か

義姫

義姫

足利氏の流れをくむ奥羽(おうう=東北地方)の名流・最上家(もがみけ)の姫として生まれた義姫は、戦国期に入り勢力を増していた伊達家に政略結婚という形で嫁ぎ、伊達政宗を生みます。

その後、伊達家と最上家の対立が深刻化し、長子・伊達政宗が危機的状況に陥った際には、41歳の義姫が甲冑(鎧兜)を身にまとい戦場へ馳せ参じ、兄である最上義光(もがみよしあき)に停戦を要求。それが聞き入れられるまで居座り続けたと伝わります。

その一方で、次男の伊達小次郎を偏愛するあまり、伊達政宗の暗殺を度々謀ったとも言われる義姫。両極端なエピソードは何を物語るのでしょうか。その生涯を紹介しましょう。

伊達氏のライバル・最上氏の姫として誕生

山形城址

山形城址

義姫は、1547年(1548年とも)、出羽国(山形県秋田県山形城主・最上義守(もがみよしもり)の娘として誕生。2歳上の兄・最上義光とは頻繁に書状を交わすなど、仲が良かったことで知られています。

1564年、義姫が17歳のときに、敵対していた米沢城主・伊達輝宗(だててるむね)と政略結婚。米沢城の東館に住んだことから、お東の方・最上御前とも呼ばれていました。

義姫が伊達家に嫁いで間もなく、実家の最上家で事件が起きます。最上義守が家督を最上義光ではなく、弟の最上義時(よしとき)に譲ろうとしたことが原因で、父・最上義守と兄・最上義光が対立。義姫の夫・伊達輝宗は最上義守側に立ちますが、義姫は兄・最上義光を敬愛しており、親子の対決に苦しんだようです。

結果的には、最上義守と最上義光は和解。そして、結婚から3年後の1567年、義姫20歳のときに長男の伊達政宗(幼名:梵天丸=ぼんてんまる)が生まれます。その後、弟の伊達小次郎(幼名:竺丸=じくまる)も生まれます。

伊達政宗を疎ましく思い、次男を偏愛

義姫は気丈で、頭が良く、男勝りで政治にも積極的にかかわる行動的な女性だったと、多くの逸話が伝えています。

伊達政宗が生まれたとき、兄の最上義光のような人物になってくれるよう、義姫は期待をかけていたでしょう。伊達政宗は義姫の期待どおり、いやそれ以上の活躍をみせて出羽国と陸奥国の覇者になり、さらには仙台藩62万石の礎を築く訳ですが、伊達政宗が5歳のとき、重い天然痘(てんねんとう=疱瘡=ほうそう)に罹(かか)ったことにより、義姫との親子関係は、愛にあふれたものとはならなかったようです。

伊達政宗は、天然痘による膿のため右眼を失明したばかりか、飛び出したその眼は醜(みにく)く、以来、義姫が可愛がらなくなったと伝わります。そして、義姫はちょうどそのころ生まれた次男の竺丸を溺愛するようになり、家督を伊達政宗でなく竺丸に継がせようと画策するまでになったと。

まだ幼少のころから実の母に疎まれるとは、当時、梵天丸と呼ばれた伊達政宗の心情を思うと胸が痛くなりますが、この逸話にはこんな見方もあります。

戦国期に生まれ、戦場の過酷さを知る義姫は、五体満足でもときとして後れを取ることのある合戦の場で、伊達政宗のような独眼では万事に不利であり、その身を案じたのではないかと。

同時に、戦国大名に嫁いだ身として、家を守るために優れた資質の後継ぎを育てることが何より大事。伊達家のことを思えばこその竺丸への偏愛ではなかったかと。

義姫による伊達政宗暗殺は真実か否か

伊達政宗

伊達政宗

伊達政宗は、母・義姫の愛を得られなかった代わりに、父の伊達輝宗からはたくさんの愛情を注がれて育ちます。

一説には、非凡ではあるものの気弱な面を持っていたとされる伊達輝宗は、早くから伊達政宗の中に自身にはない乱世を生き抜く資質があることを認めていたようです。

しかし、義姫と伊達政宗の確執は、伊達政宗が成長するにつれてより深まり、片や伊達輝宗はどこまでも伊達政宗に伊達家の将来を託そうとします。この相反する思いが高じた結果、義姫は伊達政宗の暗殺を企てるようになったと言われているのです。しかもそれは一度ではなかったと言われています。

最初は1577年のこと。梵天丸から伊達政宗と名を改めた元服直後、伊達政宗は寝室で曲者に首を絞められ殺されそうになります。これがまず、義姫により送り込まれた暗殺者だったと言われています。

次は、伊達政宗の結婚直後です。伊達政宗13歳の時に、三春城主・田村清顕(たむらきよあき)の娘・愛姫(めごひめ)と結婚。このとき、愛姫はまだ数え年11歳で、三春から乳母や侍女達も姫の供としてやってきます。

そんな最中、伊達政宗の毒殺未遂事件が発生。これを伊達政宗は田村家によるものと思い込み、伊達政宗自ら首謀者とされた老女を日本刀で斬り殺し、愛姫の侍女達の多くも死罪に処しています。しかし、これもまた、実は母の義姫による暗殺未遂だったというのです。

この2つの事件の確証は何もなく、真実は分かりません。義姫と伊達政宗が不和であったことから、のちに作られた話かもしれず、また、一説には、義姫が兄の最上義光と仲が良く、伊達政宗の暗殺は兄の指示によるものだったとも伝わります。

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戦場に赴き、2度も戦いを止めた義姫

一方で、伊達政宗暗殺を企てた姿とは真逆と言えるエピソードも残ります。義姫は、戦場で自ら戦ったことはありませんが、「自分が参らねばならない」と思うや否や戦場にまでも馳せ参じる気丈さを持った女性で、2度も戦場へ赴いています。

1度目は、1578年、夫の伊達輝宗が上山城城主の上山満兼(かみのやまみつかね)と連合し、義姫の兄・最上義光を攻めたとき。駕籠に乗って夫の陣中に出向き、「なにゆえ兄弟喧嘩をなさるのか」と詰め寄ったと言われています。

豊臣秀吉

豊臣秀吉

そして2度目が、伊達政宗が1584年に伊達家の家督を継いだ4年後の1588年。当時、南奥羽の均衡状態は、豊臣秀吉の関白就任と伊達政宗が家督継承後に引き起こした一連の軍事行動によって大きく揺らいでいました。

そんな中、起こったのが、伊達氏が最上・大崎(おおさき=陸奥大崎5郡を支配)の両氏と対立し、一触即発の状態になった「大崎合戦」です。

当時、伊達政宗は郡山(福島県)で常陸(ひたち)の佐竹氏、会津(あいづ)の芦名氏らと対陣中ですぐに現場に駆け付けることができませんでした。

義姫はこれを知ると、すぐさま輿に乗り戦場に乗り込み、両軍の間に自分の輿を据えて、兄・最上義光に停戦を要求。最上義光は最愛の妹の頼みとあっては断り切れず、その願いを聞き入れると約束しますが、義姫はそれが実際に守られるまでは決して動かないと双方に睨みを利かせます。

そして何と義姫はそのまま80日間も居座ったのち、ついに兄と子とを和睦に至らせたと伝わるのです。

ある意味、並みの戦国武将以上の度胸の持ち主と思わずにはいられません。それとともに、もし義姫が暗殺を企てるほど伊達政宗を憎んでいたのなら、このような行動に出るだろうかという疑問が浮かびます。

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謎多き、義姫の心模様

義姫と伊達政宗、そして最上義光の関係性には、多くの謎があります。

実は義姫による伊達政宗暗殺計画は、一説にはもう一度起こっています。伊達政宗が家督を継ぎ、さらに義姫が夫・伊達輝宗の死後、仏門に入り、「保春院」(ほしゅんいん)となってのちのことです。

1590年6月、伊達政宗は天下統一目前の豊臣秀吉に恭順の意を表すために、小田原征伐に参陣しようとします。ただこの参陣、伊達政宗自身は消極的で、豊臣秀吉から再三の呼び出しを受ける中、いろいろな理由を付け拒み続けたため大幅に遅れていました。

義姫は兄の最上義光から、伊達政宗が今さら出立しても豊臣秀吉は機嫌を損ねているに違いなく、伊達政宗を殺さねば伊達家が危ういと入れ知恵されたとされ、出立前日の夜、送別の宴に招いた伊達政宗に毒入りの膳を与えたと言うのです。

伊達政宗はこの宴の半ばで退席し、毒消しの薬を服用したことで大事に至らなかった、あるいは毒見役が血を吐き死んだため、難を逃れたと伝わりますが、この事件により伊達政宗はさらに出立を延期し、弟の伊達小次郎(竺丸)を呼びつけて刀で成敗。これを聞いた義姫はただちに実家の最上家へ戻ったとされています。

ただ、これには別の見方もあり、伊達政宗が自分の出立後に伊達小次郎を擁立しようと動く者があることを恐れ、一芝居打ったのではないかと。もっと言えば、この事件で義姫・伊達政宗親子の間のわだかまりはそもそもなかったのではないかとも言われています。

なぜなら、この事件のあと、伊達政宗と義姫はたびたび手紙を交わしており、伊達家文書の中に残る伊達政宗の母への手紙の内容はどれも、親子の情愛を感じさせるもの。山形に逃げ帰った義姫との間でそのような内容の手紙がやりとりされるとは考えにくいからです。また、28年という時を経てからではあるものの、伊達政宗は義姫を仙台へと迎え入れてもいます。

そして、1623年、義姫は享年76歳でこの世を去ります。義姫の生涯は、その過激な行動ばかり喧伝されがちですが、ただただ伊達家と最上家双方の安泰を願い、そのために奔走した一生であったと言えるのではないでしょうか。

義姫が伊達政宗と仙台で一緒に暮らしたのは10ヵ月ほど。この10ヵ月が2人にとってどのような日々であったのか。義姫にとっては初めて平穏を感じた時間であったのかもしれません。

義姫ゆかりの地・奥羽地方を訪ねる

夫・伊達輝宗(だててるむね)と息子・伊達政宗(だてまさむね)、そして兄・最上義光(もがみよしあき)の命を守るため、2度も戦場へ馳せ参じた戦国時代の女性として知られる義姫。

一方で義姫には、息子である伊達政宗を数度にわたり暗殺しようとしたエピソードも残ります。

どれが本当の義姫の顔なのか。最も動乱が激しかった戦国末期、奥羽地方を舞台に、伊達家と最上家の安泰を願い、大切な人への情愛に突き動かされるまま76年の生涯を生きた義姫の足跡を辿る旅に出ましょう。

出羽三山総奥院 湯殿山

総奥院「湯殿山」

総奥院「湯殿山」

義姫が伊達政宗を授かるときに頼ったと言われるのが、山形県鶴岡市羽黒町にある出羽三山(でわさんざん)のひとつ総奥院「湯殿山」(ゆどのさん)です。

出羽三山とは、「羽黒山」(はぐろさん:標高414m)、「月山」(がっさん:標高1984m)、そして湯殿山(ゆどのさん:標高1500m)の総称で、いにしえよりの自然と信仰が息付く修験道を中心とした山岳信仰の場です。

三山はそれぞれ、「現在を表す山」(羽黒山)、「過去の世を表す山」(月山)、「未来の世を表す山」(湯殿山)とされ、この三山を巡ることは、死と再生を辿る「生まれ変わりの旅」とも言われています。

出羽三山の中で最も奥に位置する湯殿山には、社殿などの建造物はなく、輝石安山岩の巨岩から湧出する温泉が御神体。この湯殿山と伊達政宗誕生はこんなエピソードで結び付いています。

伊達輝宗

伊達輝宗

武家、特に大名家に嫁いだ女性にとって、世継ぎは何よりの最重要課題。伊達輝宗と結婚後、なかなか懐妊できなかった義姫は、米沢郊外に住む修験者の長海上人(ちょうかいしょうにん)を頼ったとされます。

依頼を受けた長海は、湯殿山に参籠し祈願した上、幣束(へいそく:神前に供える供物)を湯殿の湯に浸して持ち帰り、それを義姫の御寝所の屋根に安置しました。

その甲斐あって伊達政宗を宿したと伝わるのです。義姫は、長海に頼る際「必ず、知勇かね備えた男児でなければ困る」と念押ししたとも言われ、伊達政宗の傑出した活躍を考えると、この願いを未来の世を表す山とされる湯殿山が聞き入れたように見えます。

さらに、伊達政宗誕生にはこんな伝説も残されています。義姫は、懐妊の兆しがなかなかみえなかったある夜、奇妙な夢を見ます。

老僧が現れ、「体内を宿に貸してほしい」と頼まれ、夫の伊達輝宗と相談して宿を貸したというもの。その夢からほどなくして懐妊。幣束が体内に宿って懐妊したに違いないということで、修験者が幣束を「梵天」(ぼんてん)と称することにちなみ、伊達政宗の幼名を「梵天丸」(ぼんてんまる)と名付けたというものです。

義姫が眠る覚範寺

義姫は1623年7月19日、76歳で逝去。遺体は仙台市青葉区北山にある「覚範寺」(かくはんじ)で荼毘に付され埋葬されました。義姫の墓もここ覚範寺にあります。正式には遠山(えんざん)覚範寺と言い、光明寺・満勝寺・東昌寺・資福寺とともに「北山五山」(きたやまござん)と呼ばれる伊達家の菩提寺(臨済宗)のひとつです。

仙台藩祖・伊達政宗の父・伊達輝宗公の菩提寺として、1586年に山形県米沢に創建。1591年に豊臣秀吉の命により伊達政宗が岩出山へ、さらに仙台へと移るのに応じて、岩出山、愛宕山を経て現在地に移っています。義姫の墓は本堂の裏手にあり、伊達政宗の三男で黒川城主・伊達宗清の供養塔もここにあります。

義姫の菩提寺・小林山 保春院

義姫の墓があるのは覚範寺ですが、伊達政宗が母・義姫のために建立したのが、仙台市若林地区にある義姫の菩提寺とされる「小林山 保春院」です。京で義姫が亡くなったことを知った伊達政宗は、こんな句を詠んでいます。

「鳴く虫の 声をあらそふ 悲しみも 涙の露ぞ 袖にひまなき」

そして1635年の十三回忌のときに、伊達政宗は自らの隠居城・若林城の近くに母の菩提を弔うため保春院を創建。当時の建物は、1757年の「宝暦の大火」により焼失してしまい、再建された建物には往時の面影はありませんが、本堂には伊達政宗が自ら作ったと言われる母の位牌が今も残されています。

最上義光歴史館

義姫の実家に足を延ばしてみましょう。

義姫の実家・最上家が居城とした山形城の二の丸東大手門前の一等地にあるのが、「最上義光歴史館」(もがみよしあきれきしかん)です。最上義光は、義姫が敬愛した2つ上の兄で、山形繁栄の基礎を築いた戦国武将。彼の名を冠したこの歴史館は、散逸の危機にあった最上家関係の資料を収集し保管、調査研究を行なうと共に、広く一般に公開する目的で、山形市が建設した物です。

最上氏は、足利氏(あしかがし)の有力一門であった斯波氏(しばし)の末裔であり、羽州探題(うしゅうたんだい:出羽国に置かれた室町幕府の役職)を世襲してきた名門一族。戦国期に入って奥州(おうしゅう:陸奥国)の伊達氏が勢力を増してきたことから、最上氏は伊達氏と姻戚関係を結び、勢力の維持拡大を図ります。

伊達氏の陸奥国は、現在の福島県・宮城県岩手県青森県・秋田県北東部にあたり、一方の最上氏の地盤であった出羽国は、現在の山形県と北東部を除く秋田県のあたりです。

義姫は伊達家に嫁いだあとも実家の最上家にたびたび帰っており、晩年は山形で過ごしています。伊達家・最上家双方の安泰を願う生涯であった義姫の心情に思いを馳せながら、最上氏の歴史を振り返るのにピッタリの場所です。

晩年の義姫が過ごした阿弥陀堂と局屋敷

山形市村木沢地区にある「阿弥陀堂」と「局屋敷」は、義姫が息子・伊達政宗から仙台へ迎え入れられる前の晩年を過ごしたところです。

1590年、山形城の里方(最上家)に戻ります。義姫は山形に戻ったあと、阿弥陀如来の尊像を奉安して念仏三昧の日々を送っていたと言われています。

そんなある夜、本尊の阿弥陀堂如来の尊像が突如消え失せる事件が起こります。探したところ、悪戸地区の北方200mの田園に落ちていることが分かり、家来達が取り戻そうとしたのですが、義姫は「阿弥陀如来はそこに何か深い縁があるのだろう」とこれを止め、悪戸地区に草庵を結び、また、尊像の落ちたところには御堂を建てて安置したと伝わります。

直江兼続

この御堂を阿弥陀堂と、義姫の住居した草庵のあったところを局屋敷と呼ぶようになりました。現在、この屋敷跡には2軒の民家が建っており、当時の名残を語るけやきの巨木が今も残されています。

義姫はその後、上杉氏の武将・直江兼続(なおえかねつぐ)が山形城攻略のため攻め入ってきたとき、悪戸は危険とのことで山形城に帰り、田園にあった阿弥陀堂を局屋敷の前に移し、現在に至っています。

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富田信高の妻

富田信高の妻
伊勢国(三重県)安濃津(あのつ)城主・富田信高(とみたのぶたか)の妻。肥前平戸(ひぜんひらど)藩主・松浦鎮信(まつうらしげのぶ)が著した戦話「武功雑記」(ぶこうざっき)にも記される、夫の命を自らの槍合わせで救った富田信高の妻の武勇を紹介しましょう。

富田信高の妻

鶴姫

鶴姫
常山城(つねやまじょう)の城主・三村上野介高徳(みむらこうずけのすけたかのり)の妻、鶴姫(つるひめ)は、1574年(天正2年)から翌1575年(天正3年)にかけて起こった「備中兵乱(びっちゅうひょうらん)」の戦いで、三村家が劣勢に追い込まれ、常山城が敵に完全に包囲されると見るや、たったひとりで敵陣へと乗り込んでいきました。その鶴姫の姿を見ていた常山城の従女34人も団結し、「女軍」(じょぐん)として長刀(薙刀)を手に敵陣の中に飛び込みましたが、全員討ち取られてしまったのです。戦いに敗れ、自決した鶴姫と勇敢な従女達の戦いはやがて「常山女軍の戦い」(つねやまじょぐんのたたかい)と言われ、後世に語り継がれることになりました。

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中野竹子

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1868年(明治元年)8月、会津戊辰戦争(あいずぼしんせんそう)の際、新政府軍参謀であった板垣退助(いたがきたいすけ)が会津若松城(鶴ヶ城)下に侵攻。城下全域が戦闘状態となり銃撃戦が始まる中で、決死隊となる娘子隊(じょうし隊・婦女隊とも言う)の先頭に立ち、薙刀を振るって戦った女性がいました。薙刀の名手と称された中野竹子(なかのたけこ)です。不幸にもその戦いで銃弾に倒れ、22歳の若さで壮烈な死を遂げた彼女の一生を辿ってみましょう。

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吉岡妙林尼

吉岡妙林尼
豊後国(ぶんごのくに・現在の大分県)の戦国大名・大友宗麟(おおともそうりん)に仕えていた吉岡鎮興(よしおかしずおき)の妻・吉岡妙林尼(よしおかみょうりんに)は、耳川の戦いで命を落とした夫の死後、息子が城主を務める鶴崎城が島津軍に攻められたとき、女性や農民を率いて籠城戦を展開。敵を欺く見事な采配で島津軍を撃退し、城を奪還することに成功しました。その後、妙林尼は九州の女丈夫と評され、ヒロインの武勇伝として現代まで伝えられています。

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小松姫

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天下分け目の「関ヶ原の戦い」で親子・兄弟が敵味方に分かれた真田家(さなだけ)を合戦時も、さらに合戦後も武勇と思いやりで支えたとされるのが、真田信之(さなだのぶゆき)の正室「小松姫」(こまつひめ=1573~1620年)です。

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古代、朝鮮半島を服属下に置いたとされる「三韓征伐」(さんかんせいばつ)伝説を持つ「神功皇后」(じんぐうこうごう)。卑弥呼(ひみこ)と並び、古代日本の象徴的なヒロインのひとりであり、古代日本における女将軍の象徴とも言える人物です。

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