北海道・東北地方の戦国大名

最上家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

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最上家は、南北朝時代に東北地方の出羽国最上郡山形(でわのくにもがみぐんやまがた:現在の山形県山形市)を支配した一族です。戦国時代末期には現在の山形県全域を治めるほどに躍進。そんな最上家を形作っていった歴史や、それを支えた家臣、最上家ゆかりの刀剣や甲冑(鎧兜)などについてご紹介します。

最上家の来歴

最上家の家紋「引両」

最上家の家紋「引両」

最上家初代は「斯波兼頼」(しばかねより)。斯波兼頼は「源義家」(みなもとのよしいえ)の子孫で源氏の名族・足利家の血筋であり、南北朝時代、北朝方であった斯波兼頼は南朝勢力を抑えるため、1356年(延文元年)に出羽国の探題(地方政治を監督する役職)として奥州大崎(現在の宮城県古川市)から最上郡に移動。翌年の1357年(延文2年)、山形城(現在の山形県山形市霞城町)を築城し、拠点としました。

またこの頃、斯波兼頼は地名から「最上兼頼」(もがみかねより)と名乗り始めます。以降、江戸時代まで山形城は最上家の居城となりました。

最上義光とは

戦国時代から江戸時代にかけて活躍した11代当主「最上義光」(もがみよしあき)は、「虎将」の異名が付くほどの勇猛さで、最上家の最盛期を築き上げました。

最上義光は、1546年(天文15年)に10代当主「最上義守」(もがみよしもり)の長男として出生。幼年は「白寿丸」(はくじゅまる)と呼ばれ、最上義光が元服の際に、将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)から一字を貰って最上義光と名乗ります。

伊達輝宗

伊達輝宗

最上義光は26歳で最上家の家督を継承。しかし、最上義光の当主就任を快く思わない隣国の伊達家16代当主「伊達輝宗」(だててるむね)らが、隠居していた父・最上義守とともに、最上義光を当主から追い落とそうと「天正最上の乱」(てんしょうもがみのらん)を起こします。

最上義光は、多数の周辺諸国から攻められながらも耐え抜き、最終的に伊達家と和睦を結び当主の座を守ったのです。数年後には、この反乱で伊達家に加担した白鳥家などを滅ぼし、最上家の領地を拡大していきました。その後、最上義光は「豊臣秀吉」の小田原城攻めに加わるなど、豊臣家寄りの立場を取ると、最上義光の娘「駒姫」(こまひめ)が豊臣秀吉の養子「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)に妻として迎えられることとなります。

しかし、豊臣秀次が豊臣秀吉に対する謀反の疑いで切腹させられると、妻である駒姫も処刑されることに。この一件が、豊臣秀吉死後に最上義光が徳川方に与した決定的な理由とも言われています。

また、最上義光は関ヶ原の戦いには従軍しませんでしたが、徳川方に反目していた「直江兼続」(なおえかねつぐ)率いる上杉軍の足止めを徳川家康から命ぜられました。この戦を「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)と呼び、最上義光は上杉軍に勝利し、見事役割を果たします。

その功績が徳川家康に認められ、57万石の領地を誇る山形藩の藩主に任ぜられ、全国有数の大名になり、最上家の最盛期を迎えました。

なお、最上義光の妹は「伊達政宗」の母・義姫(よしひめ)であり、最上義光と伊達政宗は叔父・甥の関係になります。最上家は隣国の伊達家と不仲でしたが、義姫は最上家と伊達家が争いになりかけた際、現地へ赴き、両家が和睦するよう尽力しました。

最上騒動と最上山形藩の終わり

最上義光が当主に就任する際に天正最上の乱が起きた最上家ですが、最上義光以降も御家騒動は続き、一連の騒動は「最上騒動」(もがみそうどう)と呼ばれています。

11代当主であった最上義光の後継者は、順当であれば長男「最上義康」(もがみよしやす)でしたが、父・最上義光と不仲であったこと、次男の「最上家親」(もがみいえちか)が将軍・徳川家康の近侍として仕えていたことも影響して、最上家親の当主就任にとって障害となる最上義康は暗殺されてしまうのです。首謀者は現在も謎に包まれたままで、最上義光とも家臣とも言われています。

その後、最上義光が病死すると、最上家親が家督を継ぎ12代当主となりますが、その最上家親も3年後、36歳の若さでこの世を去ります。「猿楽[能狂言]を見ながら頓死[急死]す、人みなこれをあやしむ」と、徳川幕府の公式記録「徳川実紀」にも書かれるなど、こちらも暗殺疑惑が付きまといました。

最上家親の死後、最上家親の長男「最上義俊」(もがみよしとし)が13代当主となります。しかし、最上義俊はこのとき12歳。年齢を理由に反発する家臣も多く、最上義光の四男・山野辺義忠(やまのべよしただ)を当主に据えようとする動きが起きました。逆に最上義俊側からは「最上家親の死は山野辺義忠派による毒殺である」と幕府へ訴えを起こし、双方一歩も引かなかったのです。

幕府が「最上義俊に別の地を与え、成長後に山形藩を返す」と決定しますが山野辺義忠らは納得せず、結果として山形藩は改易(大名の領地を没収し身分を奪うこと)となり、最上家は最上義光の築いた出羽国の領地を失ってしまいました。

その後、最上義俊は1万石の近江国大森藩(おうみのくにおおもりはん:現在の滋賀県東近江市)を与えられ、最上家の存続だけは許されることとなります。

南北朝時代に興り、将軍・足利家とも縁が深く、虎将・最上義光の代で大きく花開いた最上家。その最上義光の死後、相次ぐ御家騒動で10年と経たずに領地をすべて失ってしまいます。250年以上の歴史のある最上家が最盛期からわずか10年で没落してしまう姿は、諸行無常の世を体現した結果となりました。

最上家にゆかりのある刀剣・甲冑

最上家にゆかりの刀剣甲冑(鎧兜)をご紹介します。

刀剣

鬼切丸(おにきりまる)
鬼切丸は、最上家伝来の宝刀とされる日本刀です。平安時代中期、京都の一条戻橋で渡辺綱(わたなべのつな)がを切った伝説から鬼切丸と呼ばれるようになりました。

また、罪人の首をはねた際に髭まで切れる、という逸話もあり、別名は「髭切」(ひげきり)。

現在は重要文化財として、北野天満宮蔵(京都府京都市)に収蔵されています。

鬼切安綱(髭切)
鬼切安綱(髭切)
國綱
鑑定区分
重要文化財
刃長
85
所蔵・伝来
坂上田村麻呂 →
源頼光 →
渡辺綱 →
新田義貞 →
北野天満宮
正宗(まさむね)
正宗は、11代・最上義光が慶長出羽合戦の褒美として徳川家康から拝領した刀です。脇差という現代の短刀に分類される日本刀で、歴史上もっとも著名な刀工「正宗」の作。江戸時代に堀田家に渡ったのち、現在は「大黒正宗」と呼ばれ、個人が収蔵しています。

甲冑

三十八間金覆輪筋兜(さんじゅうはちけんきんぷくりんすじかぶと)
三十八間金覆輪筋兜

三十八間金覆輪筋兜

三十八間金覆輪筋兜は、最上義光が愛用していた

U字形の「鍬形台」(くわがただい)の中心に竹に雀の紋が据えられ、兜の正面には慶長出羽合戦で最上義光が直江兼続の鉄砲隊から受けた銃弾の痕が残っています。

現在は、最上義光歴史館(山形県山形市)に収蔵されています。

素懸黒糸縅胴具足(すがけくろいとおどしどうぐそく)
素懸黒糸縅胴具足は、最上義光が使用していた甲冑(鎧兜)で、「最上地方で作られた胴丸」と「右脇一箇所で合わさる形状」の2つを意味する「最上胴丸」と呼ばれます。

三日月の前立の付いた兜が特徴的なこの甲冑(鎧兜)は、現在は鶴岡市指定有形文化財として、出羽三山歴史博物館(山形県鶴岡市)に収蔵されています。

最上家を支えた家臣

氏家守棟(うじいえもりむね)
氏家守棟は、最上義光の腹心として最上家の勢力拡大に貢献した重臣です。最上義光が1580年代に、上山家や白鳥家、「鮭延秀綱」(さけのべひでつな)らを攻めた際には、敵方に内通者を作り裏切らせる調略で次々と勝利を挙げます。

頭脳で戦を有利に進める智将として君主を支え、のちに最上家が全国有数の大名となる礎を築きました。

志村光安(しむらあきやす)
志村光安は、最上義光に仕えた家臣です。勇猛な名将で、慶長出羽合戦での長谷堂城の攻防を描いた「長谷堂合戦図屏風」(はせどうかっせんずびょうぶ)でも、長谷堂城主として城を守り抜く志村光安の姿が描かれています。

また、弁も巧みで、最上義光が織田信長や豊臣秀吉に使者を送る際、志村光安を選ぶほど、最上義光からの信頼厚い人物でした。

鮭延秀綱(さけのべひでつな)
鮭延城(山形県最上郡真室川町)の城主であった鮭延秀綱は、1581年(天正9年)に最上義光の侵攻を受け敗れます。

しかし、鮭延秀綱の才覚を認めた最上義光は鮭延秀綱を生かし、鮭延秀綱もそのことに恩義を感じ最上家の家臣となりました。慶長出羽合戦の際には、上杉軍の侵攻で窮地に陥った長谷堂城へ援軍として赴き勇ましく活躍。上杉軍の進軍を阻みます。

豊臣秀吉が小田原城攻めの直後に奥羽地方へ攻め入った「奥州仕置」(おうしゅうしおき)でも、最上義光が豊臣秀吉の仕置軍に参陣したため鮭延秀綱も仕置軍の先鋒として先導役を任されました。また、最上騒動の際には山野辺義忠の側に立ちました。

最上家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

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