かねもと/まごろく
美濃国(現在の岐阜県南部)は、大和国(現在の奈良県)から「志津三郎兼氏」(しづさぶろうかねうじ)が移り住み、作刀を始めて以降、中部地方における刀の一大産地となりました。このうち関(現在の岐阜県関市)を拠点に鍛刀した刀工に、代々「兼元」を名乗る集団が出現します。
この兼元の中で最高の妙手とされるのが、通称の「孫六」を冠した「孫六兼元」(まごろくかねもと)と呼ばれる刀工です。関鍛冶の「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)、いわゆる「之定」(のさだ)と並んで、美濃鍛冶の双璧とされています。関鍛冶系図によると両者は、兄弟の契りを結んでいました。互いの力を認め合う存在だったのです。
兼元を名乗る刀工は、室町時代中期には、関で鍛刀していました。「校正古刀銘鑑」には、西暦1445年に当たる「文安二年」の年紀を切った作例がある旨を記しています。このあと、「太郎左衛門」(たろうざえもん)を通称とする初代 兼元が、文正・文明年間(1466〜1487年)に関の地で鍛刀。古調の作例を多数生産します。
この頃から関鍛冶の主流は、美濃国・赤坂(現在の岐阜県大垣市)へ移住を開始。同国内において赤坂の地が、新たな刀の生産地となっていきました。この時、「孫六」を屋号として栄えたのが、初代 兼元。赤坂居住期間は40年に及び、天文年間(1532〜1555年)の中頃に関へと帰りました。このあとも、赤坂の地に残って作刀したのが、「孫六兼元」と呼ばれる2代 兼元です。
孫六兼元の年紀銘が入った作例は、最古が「大永七年」(1527年)、最新が「天文七年」(1538年)の刀です。その前後に鍛刀した時期を加算しても、孫六兼元の作刀期間は20年以内。年数と現存刀の比率からすると、よほど精力的に作刀に取り組んだことが分かります。
「笹の露」との「截断銘」(せつだんめい/さいだんめい:試し切りの結果を表した銘)を切られた1振があることや、江戸時代の刀剣格付書「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)の中で、切れ味が最高ランクであることを示す、「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)15刀工に選ばれていることから、孫六兼元の作例が、抜群の切れ味を誇っていたことも確かです。
作風は身幅が広くて「重ね」が薄く、「鋒/切先」(きっさき)が延びています。「地鉄」(じがね)は「板目肌」(いためはだ)に「柾目肌」(まさめはだ)が交じり、地中の働きは、「白気映り」(しらけうつり)が顕著。刃文は杉木立を彷彿とさせる、頭の尖った3本の「互の目」(ぐのめ)が組み合わさった模様を得意としました。
これは、「関の孫六の三本杉」と呼ばれており、孫六兼元の作例における大きな特徴とされています。「兼元」の他に、「濃州赤坂住兼元作」などの銘を用いていました。「関の孫六」として、現代においても著名な刀工のひとりです。
「孫六兼元」刀工・刀匠YouTube動画