かげみつ
「景光」は、「備前長船長光」(びぜんおさふねながみつ)の子と伝わる刀工です。備前国(現在の岡山県東南部)で繁栄した「長船鍛冶」は、「光忠」(みつただ)を実質上の祖として発生し、長光から景光、そして景光の子「兼光」(かねみつ)へと継承されていきました。
景光は、「長船派」の嫡流における3代目に当たります。官位である「左兵衛尉」(さひょうえのじょう)や「左衛門尉」(さえもんのじょう)を称していました。景光の作刀時期は、1304~1345年(嘉元2年~貞和元年)。年数にして41年にも及びます。鍛造した日本刀は比較的多く、太刀や短刀を中心に、薙刀(なぎなた)などの作刀にも当たりました。
太刀は、父の備前長船長光ほど華やかな「丁子乱」(ちょうじみだれ)ではなく、「中丁子」(なかちょうじ)や「小丁子」(こちょうじ)の刃に、「互の目」(ぐのめ)を交えた作例がほとんど。なかには、「直刃」(すぐは)に「小足」(こあし)の入った作例も見られるのです。また景光は、「片落ち/肩落ち互の目」(かたおちぐのめ)と称される、特徴的な「乱刃/乱れ刃」(みだれば)を創始したことでも知られています。
父親の作例に比べると、豪壮さはありませんが、格調と品格の高さにおいては定評があり、特に「地鉄」(じがね)の美しさについては、長船鍛冶の中でも第一級と評されています。
短刀には、「片切刃造」(かたきりはづくり)の作例がありますが、これは、父・長光には見られません。景光の独創性と個性が窺える1振です。この短刀に限らず、景光には偉大な父と自身を差別化しようと試みた形跡が、作例の随所に散見されます。
例えば、景光の作刀に施された刀身彫。父・長光は、どちらかと言えば簡素な彫物を施していましたが、景光は、彫物の名手としても鳴らしており、「密教」の守護神「不動明王」(ふどうみょうおう)を描いた「立不動」(たちふどう)や、不動明王の変化神である「倶利伽羅龍王」(くりからりゅうおう)など、精緻な刀身彫を施しています。
銘も同様で、父・長光が作例全体の約3割に長銘を入れたのに対し、景光は、それを上回る割合で長銘を切りました。その例としては、「備前長船住景光」や「備前国長船住左衛門尉景光」、「備前国長船住左兵衛尉景光 作者進士三郎景政」などが挙げられます。景光の作例はいくつか現存しており、それらの多くが「国宝」や「重要文化財」などに指定されています。
このうち国宝指定の「小竜景光」(こりゅうかげみつ)は、最上級の出来栄えです。「樋」(ひ)の中に、倶利伽羅龍の彫物があるため、このような号が付きました。また、小竜景光には、「楠木正成」(くすのきまさしげ)の佩刀(はいとう)であったとする伝承もあるため、「楠公景光」(なんこうかげみつ)との異称もあります。
さらに景光には、嫡流の他に傍流(ぼうりゅう:嫡流から分かれて出た系統や流派)も存在します。嫡流である兼光の門人であった刀工が独立し、「景光」の名を称したのです。その作例には、「応安元年」(1368年)と「永徳三年」(1383年)の年紀銘を刻んだ日本刀があり、1代限りではなく、同銘を用いた刀工が複数存在した形跡が見られます。