「吉見左文字」はもともと、石見国の「津和野城」(現在の島根県津和野町:別称「三本松城」)の城主であった「吉見正頼」(よしみまさより)が、所持していたとされる刀剣です。 吉見正頼は当初、周防国(現在の山口県南東部)の「大内義隆」(おおうちよしたか)に仕えていました。しかし、大内義隆が自身の重臣だった「陶晴賢」(すえはるかた/すえたかふさ)によって討たれると、安芸国(現在の広島県西部)の国人領主であった「毛利家」の12代当主「毛利元就」(もうりもとなり)に付き従っています。
このような経緯から、毛利元就の孫にあたる「毛利輝元」(もうりてるもと)が同家の家督を相続した頃に、吉見正頼から献上されたと伝えられているのです。その後、毛利輝元が主君「徳川家康」に差し出し、徳川家康が亡くなったあと、その遺品として、「尾張徳川家」の始祖である「徳川義直」(とくがわよしなお)の手に渡りました。
本刀を手掛けた「左文字」(さもんじ)は、南北朝時代に筑前国(現在の福岡県西部)で活躍した名工です。本刀は、磨上げられたため無銘でしたが、1566年(永禄9年)、吉見正頼の依頼により、その表側には「左文字 吉見正頼研上之」、裏側には「永禄九年八月吉日」という銘が施されています。