書画・美術品の基礎知識

三十六歌仙図屏風
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三十六歌仙図屏風 三十六歌仙図屏風
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「三十六歌仙図屏風」(さんじゅうろっかせんずびょうぶ)は、いにしえのすぐれた歌人、36人を描いた屏風絵です。三十六歌仙図屏風の始まりは、平安時代の宮廷社会において和歌の名手を「歌仙」(かせん)と呼んで敬い、その姿絵に代表歌を書き添えた「歌仙絵」が流行したことでした。この歌仙絵は近世に入ると宮中以外でも調度品や贈答品として広く愛好されるようになり、36人の歌仙絵を屏風に仕立てた三十六歌仙図屏風も盛んに制作されたのです。
36人の歌仙が選ばれた経緯や、屏風形式ならではのダイナミックな三十六歌仙図の魅力に触れ、現存する三十六歌仙図屏風の中から江戸時代に独自の作風を確立した2人の画人の作品を紹介しましょう。

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刀剣ワールド財団所蔵の屏風や美術品がご覧いただけます。

三十六歌仙とは

万葉歌人から平安歌人まで精鋭36人

名高い歌人達

名高い歌人達

三十六歌仙」とは、平安時代中期の歌人「藤原公任」(ふじわらきんとう)が編んだ秀歌撰「三十六人撰」に選ばれた、飛鳥時代から平安時代の36人の名高い歌人のことです。

そこには、「柿本人麻呂」(かきのもとのひとまろ)や「山部赤人」(やまべのあかひと)らの万葉歌人、また「小野小町」(おののこまち)や「在原業平」(ありわらのなりひら)などの平安歌人が名を連ねます。

出世も恋も和歌の腕前次第だった平安貴族社会

平安時代の宮廷人にとって和歌は日常的なコミュニケーションツールであり、その出来は才気と教養の基準とされ、恋の行方やときには出世を左右するほど重要でした。

このため当時の貴人は三十六歌仙を敬愛し、歌道に精進する規範にしたのです。その崇敬の念は深く、三十六歌仙のひとり、柿本人麻呂を歌聖として崇め、その像を礼拝する儀式「人麻呂影供」(ひとまろえいぐ)が行われたほどで、当時の宮廷人達が和歌の上達にかけた切実な願いがうかがえます。

三十六歌仙図屏風とは

歌仙絵を盛んにした似絵の流行

三十六歌仙図の源流になった尊い歌人の姿絵、歌仙絵は平安時代から描かれていましたが、鎌倉時代に「似絵」(にせえ)が流行したことで盛んに制作されるようになりました。

似絵とは写実性の高い肖像画のことで、それまで人物像をモデルそっくりに描くことを目指していなかった「やまと絵」に起きた新しい流れです。歌仙は似絵の格好の画題として多くの絵師が取り組むようになり、やがて歌仙絵は宮廷人だけでなく広い階層の人々に浸透していきました。

6曲1双に展開する奇想の構図

歌仙絵のなかでも藤原公任が選んだ36人の歌仙を描いた三十六歌仙図は数が多く、長大な絵巻物に歌仙が順に登場する形式や、歌仙ごとの画を綴じた画帖形式もあります。そして、屏風絵仕立てにした三十六歌仙図は、歌仙絵を屏風に貼り交ぜたり、直に屏風に描いたりと様々な趣向と仕様で制作されました。

絵巻物や画帖にはない、三十六歌仙図屏風の特色は6枚折れの屏風がペアになっている「6曲1双」の画面に、36人の群像として描いていることです。活躍した時代の異なる36人が一堂に会する、屏風絵ならではの構図に豪華でファンタジックな場面が展開します。

伊藤若冲「三十六歌仙図屏風」

遊び心で描くパロディ風の三十六歌仙図

三十六歌仙図は、和歌をたしなむ人達が先達の絵姿を身近に置いて上達を願うための物でしたが、江戸時代に入り、美術品としても楽しまれるようになると様々なアレンジが試みられました。そのひとつが「岡田美術館」(神奈川県足柄下郡箱根町)所蔵の三十六歌仙図屏風で、この中の歌仙達は料理をしたり、煙管(きせる)を吹かしたり、楽器を弾いたりしており、一向に歌を詠む気配がありません。

表情や姿態が可愛らしくユーモラスなこの三十六歌仙図の作者は江戸時代中期の画家「伊藤若冲」(いとうじゃくちゅう)です。伊藤若冲は京の裕福な青物問屋の息子に生まれましたが40歳で弟に家督を譲ると画業に専念しました。

高価な絵の具を惜しみなく使い、色彩豊かに描いた詳細な花鳥画が有名ですが、最晩年の作であるこの三十六歌仙図屏風は墨1色で描線は大らかです。絵の中で歌詠みを忘れて遊びに興じる歌仙達が、大きな商家の若旦那を早々にリタイアして絵に没頭した伊藤若冲と重なるような気がしてきます。

尾形光琳「三十六歌仙図」

コンパクトな画面に36人がにぎやかに集う

メナード美術館」(愛知県小牧市)所蔵の「三十六歌仙図」は、2枚折れの屏風1点の「2曲1隻」形式です。6曲1双よりもコンパクトな画面に描き込まれた三十六歌仙達は互いの距離が近く、肩を寄せ合い談笑しているよう。異なる時代を生き、出会うはずのなかった三十六歌仙が催す歌会のようでもあり、見飽きることがありません。

この三十六歌仙図屏風の作者「尾形光琳」は、日本美術の主要な潮流のひとつ「琳派」(りんぱ)を代表する画家です。

尾形光琳は江戸時代中期に活躍し、絵画だけでなく工芸品や着物のデザインも旺盛に手がけ、その作風に倣った意匠は「光琳模様」と呼ばれて現代でも親しまれています。

尾形光琳の卓抜したデザイン力は、ひとつの画面に36人を配したこの三十六歌仙図屏風にも生きているのです。

名古屋刀剣ワールド所蔵の三十六歌仙図屏風

名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館」(名博メーハク)は「金地三十六歌仙屏風 本間 六曲 一双」を所蔵しています。作者や制作年代は不明ですが、輝く金地を背景にひとりひとりの顔立ちや装束を丹念に描き込んだ詳細かつ豪奢な作品です。

大画面に雅やかな時間が流れる

この三十六歌仙図屏風は、向かって右の屏風「右隻」(うせき)、向かって左の屏風「左隻」(させき)のそれぞれに歌仙18人ずつを配しています。その構図は、平安時代の歌人が左右に分かれて歌を詠み、作歌の優劣を競った遊び「歌合」(うたあわせ)を楽しんでいるようです。

6曲1双のフルサイズを使うことで、ゆとりが生まれた画面の天地には金雲がふんだんに描き込まれています。これは「すやり霞」(すやりがすみ)と呼ばれる、やまと絵の手法で、画面を整理したり、時期の異なるシーンを共存させたりする狙いがあり、時を超えて三十六歌仙が集うフィクションを成立させているのです。

前出の尾形光琳作品の歌仙達が親しげに寄り添い、賑わいを感じるのに対して、この三十六歌仙屏風からは優雅な語らいが聞こえてきそうな魅力があります。

三十六歌仙図はどれも、当時の名だたる画人が歌仙像を手がけ、その時代随一の能筆家が歌を書き添えました。このため絵巻物や画帖に仕立てられた三十六歌仙図は門外不出の家宝として愛蔵されたと考えられます。

一方、三十六歌仙図屏風は実用の調度品としても愛用され、お披露目の機会も多かったのではないかと思いを巡らすと、かつて三十六歌仙図屏風に間近で親しんだ人達と感動を共有しているようで楽しくなってくるのです。

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