書画・美術品の基礎知識

集古十種とは

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「集古十種」(しゅうこじっしゅ)とは、江戸時代後期に「松平定信」(まつだいらさだのぶ)が編纂した古宝物図録(こほうもつずろく)のことです。古宝物を10種類に分類して集めた(編纂した)ことから、「集古十種」と命名されました。制作当時から大絶賛されたという集古十種について、詳しくご紹介します。

集古十種とは

制作の目的と選定方法

古宝物

古宝物

「集古十種」とは、江戸時代後期に「松平定信」が編纂した古宝物図録のことです。「古宝物」とは、古くからある財宝。「図録」とは、絵を主とした読み物のことを言います。

古製を知り、新たに製造する際の参考にするため、古宝物の消失を恐れ、それにそなえるため、後世に情報を保存し伝達するためという目的で、松平定信が多額の私財を投じて制作しました。

松平定信は、古宝物を「碑銘」(ひめい:石碑に刻まれた銘)、「鐘銘」(しょうめい:梵鐘に刻まれた銘)、「扁額」(へんがく:横に長い額)、「法帖」(ほうじょう:古人の名筆)、「古画」、「文房」、「印章」、「兵器」、「銅器」、「楽器」の10種類に分類。古宝物の模写図を大きく取り上げ、寸法などの特徴、所在地を明記し、まずは1800年(寛政12年)に「集古十種稿」(しゅうこじっしゅこう)として刊行しました。

これに修正や追加をし、1823年(文政6年)以降に、全85巻、1859点を収載した集古十種を完成させたのです。松平定信が、選定にあたって対象とした古宝物は、全国各地に所在する逸品。現在の国宝や御物も含まれています。

儒学者で幕府儒官の「柴野栗山」(しばのりつざん)、「岡田寒泉」(おかだかんせん)、国学者で幕府右筆「屋代弘賢」(やしろひろたか)と共に、全国の神社仏閣や公家などが所有する、拓本や模本などの資料を収集して調査。松平定信が選定し、白河藩儒学者の「広瀬蒙斎」(ひろせもうさい)がまとめ、序文を作成したと伝えられています。

図録でいちばん重要なのが模倣図です。描いたのは、「谷文晁」(たにぶんちょう)、「白雲」(はくうん)、「巨野泉祐」(おおのせんゆう)など、江戸時代後期を代表する一流画家ばかり。実際に現地に赴任させ描かせた力作です。

松平定信とは

徳川吉宗の孫 松平定信

松平定信

松平定信

松平定信は、1758年(宝暦8年)、「徳川宗武」(とくがわむねたけ)の七男として誕生しました。幼名は賢丸(まさまる)父・徳川宗武は、江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)の次男で「田安徳川家」を興した人物です。

田安徳川家は「御三卿」(ごさんきょう)のひとつで、徳川将軍家に嗣子がない場合は継嗣を出す役目がありました。つまり松平定信は、徳川吉宗の孫。次期将軍になる資格を持って生まれてきた人だったのです。

松平定信は、賢丸という名前の通り賢く聡明で、幼少より儒学者「大塚孝綽」(おおつかたかやす)に師事。12歳のときに「自教鑑」という修身書を著すほどの秀才に育ちました。田安徳川家では四男までが早世したため、五男「徳川治察」(とくがわはるあき)が嫡男とされていましたが、徳川治察は病弱だったため、松平定信が田安徳川家の後継者になることを密かに期待されていたのです。

ところが、1771年(明和8年)に、父・徳川宗武が死去し、兄・徳川治察が家督を継承。松平定信は、江戸幕府10代将軍「徳川家治」の命により、1774年(安永3年)白河藩(現在の福島県)藩主「松平定邦」の養子となることが決定します。これは、松平定信が次期将軍になる資格を失うことを意味しました。しかし、その半年後、病弱の兄・徳川治察が22歳の若さで逝去。

田安徳川家は後継者がいなくなるという緊急事態に見舞われるのです。そこで、松平定信の養子縁組を解消し、松平定信が田安徳川家へ復帰するように願われましたが、許されませんでした。田安徳川家はこのあと10年間、明屋形(当主不在)となるのです。

一説には、この養子縁組自体、10代将軍・徳川家治の老中「田沼意次」(たぬまおきつぐ)が仕組んだ、松平定信を次期将軍にさせないための陰謀だったのではないかと言われています。このようにして、1783年(天明3年)、松平定信は白河藩藩主に就任。倹約に徹して藩の財政を立て直し、「天明の飢饉」も乗り越え、名君と呼ばれるまでになりました。

その実績と人柄が評価され、1787年(天明7年)には、江戸幕府11代将軍「徳川家斉」の老中に抜擢。また翌年には、将軍補佐の大役も与えられました。松平定信は、江戸時代の3大改革と言われる「寛政の改革」を成し遂げた人物として有名です。

しかし、清い政治姿勢が厳しすぎると反感を買い、1793年(寛政5年)に辞職。そのあとは、隠居して「白河楽翁」(しらかわらくおう)と号し、著作活動を行うなど風雅な生活を送りました。松平定信は古物を集める趣味があり、集古十種の編纂は、最も自分の趣味を活かした活動であったと言えるのです。

兵器「刀剣」とは

集古十種に選定された刀

集古十種 兵器 刀剣(個人蔵/写真提供:桑名市博物館)

集古十種 兵器 刀剣
(個人蔵/写真提供:桑名市博物館)

刀好きの皆さんにご紹介したいのが、集古十種「兵器」の部門です。兵器は、さらに「刀剣」3冊、「甲冑[鎧兜]」12冊、「弓矢」2冊、「旌旗」5冊、「馬具」3冊に分けられ、まとめられています。刀剣の全3冊について、詳しく述べていきましょう。

刀剣3冊は、正確には、「集古十種 兵器 刀剣一」、「集古十種 兵器 刀剣二」、「集古十種 兵器 刀剣三」です。集古十種 兵器 刀剣一には、巻之一目録、巻之二目録、巻之三目録という、収載刀剣の名称が目次として書かれています。

例えば、巻之一目録には、こちらの記載が見られます。

    集古十種 後白河帝御太刀圖

    集古十種 後白河帝御太刀圖
    (個人蔵/写真提供:桑名市博物館)

  • 大和国吉野郡賀名生郷和田村堀源氏郎家蔵後醍醐帝御剣圖
  • 伊勢國大神宮藏 太刀圖
  • 後白河帝御太刀圖
  • 山城國鞍馬寺藏 源義經朝臣太刀圖
  • 伊勢国大神宮藏 俵藤太秀郷蜈蚣切太刀圖
  • 安藝國嚴島社藏 足利尊氏公短刀圖

3冊に収載された刀剣名称は、合計123振。これらの刀は、どのようにして選ばれたのでしょうか。集古十種に選ばれた刀剣は、ひと言で言えば、松平定信の好み。

しかし、全国の神社仏閣や公家が所有する、一般人ではなかなか観ることができない、現在の国宝や御物にもなっているたいへん貴重な物が多く選ばれています。寺社に伝わる奉納刀は、当時から秘宝(ひほう:大切にして他人には見せない宝)が多く、例え一般人が観ることができる物でも、1年に1度または10年に1度の開示など、かなりの「運」を必要としたのです。

松平定信は、すでに集古十種の編纂時には老中と将軍補佐を辞職し隠居していましたが、前老中という権力があったことは否定できません。この機会に多くの秘宝を観てみたいと思い、権力を楯に多くの神社仏閣や諸家に秘宝を開示させたことが考えられます。

前老中・松平定信の頼みとあっては、寺社や公家も引き受けざるを得なかったのでしょう。このように集古十種は、なかなか観ることができない秘宝が掲載されているという付加価値が付いた図録となったのです。刀剣の場合は、現在御物(ぎょぶつ:皇室の私有物)の「小烏丸」や「鬼丸国綱」。

また、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」の所持した国宝「沃懸地杏葉螺鈿太刀」(いかけじぎょうようらでんたち)や「源義経」(源頼朝の弟)の奉納刀、「足利尊氏」の刀、「楠木正成」の刀など、誰もが1度は観たいと思う著名人ゆかりの刀も選ばれ、注目されました。刀身よりも(こしらえ)が多く描かれているのもポイントです。

小烏丸
様々な「名刀」と謳われる刀剣を検索できます。
鬼丸国綱
様々な「名刀」と謳われる刀剣を検索できます。
国宝「沃懸地杏葉螺鈿太刀」鎌倉八幡宮所蔵
集古十種/相模國鎌倉鶴岡八幡宮藏 杏葉太刀圖二(国立国会図書館ウェブサイトより)

集古十種/相模國鎌倉鶴岡八幡宮藏 杏葉太刀圖二
(国立国会図書館ウェブサイトより)

沃懸地杏葉螺鈿太刀

沃懸地杏葉螺鈿太刀

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
鎌倉時代 国宝 鶴岡八幡宮
御物 小烏丸 東京国立博物館所蔵
集古十種/小烏丸(国立国会図書館ウェブサイトより)

集古十種/小烏丸(国立国会図書館ウェブサイトより)

小烏丸
小烏丸
-
鑑定区分
御物
刃長
63
所蔵・伝来
平貞盛 →
明治天皇
東京国立博物館

享保名物帳との関係は?

松平定信の祖父、徳川吉宗は「享保名物帳」の編纂を命じた人物として有名です。

享保名物帳とは、1719年(享保4年)に「本阿弥家光忠」(ほんあみこうちゅう)が調査・編集した、大名家に伝わる名刀の伝承や逸話を記録した名刀リスト。上巻、中巻、下巻の3部構成で、徳川将軍家の名刀を筆頭に、加賀藩前田家福岡藩黒田家の伝来刀など、約250振の名刀が掲載されています。

一方、集古十種に収載されている多くの刀は、全国の寺社や公家などに伝わる奉納刀。集古十種は、享保名物帳とはひと味違う切り口であったことが分かるのです。

集古十種の影響力

集古十種の評価とは

集古十種版木

集古十種版木(鎮国守国神社蔵)

集古十種は木版刷。材質はサクラで、版木1451枚が、桑名藩主「松平定綱」と松平定信が祀られる「鎮国守国神社」(ちんこくしゅこくじんじゃ:三重県桑名市)に所蔵され、重要文化財に指定されています。1899年(明治32年)には、その版木が使用され、総目録3冊を加えた88巻が、「青木嵩山堂」(あおきすうざんどう)より出版されました。

さらに、1908年(明治41年)には、洋総本4冊に再編集された物が、「国書刊行会」より出版されています。集古十種は、当時から信頼できる図録として高く評価されました。

注目したいのは、現在では消滅し、所在が分からなくなったいくつもの古宝物が収載されていること。刀剣の場合は、旧国宝の「蛍丸」(ほたるまる)が挙げられます。

集古十種/蛍丸(国立国会図書館ウェブサイトより)

集古十種/蛍丸
(国立国会図書館ウェブサイトより)

蛍丸は、刃こぼれした刀身に蛍が群がり直したと伝えられる名刀で、阿蘇神社熊本県阿蘇市)に所蔵されていました。

ところが、第二次世界大戦の終戦による混乱の中、行方不明となってしまったのです。もう鑑賞することができない名刀ですが、集古十種の中で、約200年前の美しい姿を拝むことができます。

一方、集古十種に収載された刀は、神社仏閣や公家で大切に守られ、多くの物が現存しているのも特徴です。美術史や歴史学、考古学に影響を与え続ける集古十種。約200年前の姿と見比べて、愉しんでみてはいかがでしょうか。

鎮国守国神社とは

鎮国守国神社

鎮国守国神社

鎮国守国神社があるのは、三重県桑名市の「九華公園」(きゅうかこうえん)内。「鎮国さん」または「九華明神さん」と呼ばれて、親しまれています。実は鎮国守国神社は、ふたつの神社が合祀された神社です。

ひとつは、江戸時代前期に活躍した松平定綱(鎮国公)を祀る「鎮国神社」(ちんこくじんじゃ)。もうひとつが、江戸時代後期に活躍した松平定信(楽翁公)を祀る「守国神社」(しゅこくじんじゃ)です。松平定綱は、桑名藩5代藩主。「徳川家康」の甥で、「大坂の陣・夏の陣」で武功を挙げ、桑名藩11万石まで加増されました。

一方、松平定信は、白河藩の藩主。江戸幕府の老中も務め「寛政の改革」を行ったことでも有名な人物です。元々、守国神社は白河藩の領地内にありましたが、松平定信の長男「松平定永」(まつだいらさだなが)が白河藩から桑名藩へ移封されて桑名藩15代藩主となり、そのときに、守国神社も桑名城内に遷祀されたのです。

 楽翁公百年祭記念宝物館

楽翁公百年祭記念宝物館

そしてこの守国神社と鎮国神社が、1951年(昭和26年)に制定された宗教法人法に伴って合祀され、鎮国守国神社と総称されました。なお、1934年(昭和9年)に、「楽扇公百年祭記念宝物館」(らくおうこうひゃくねんさいきねんほうもつかん)が完成し、現在は有形文化財に登録。

集古十種はもちろん、「鳴神兼定」(なるかみかねさだ)と呼ばれる松平定信の愛刀など、歴代の桑名藩主ゆかりの品、約2,000点が所蔵され、毎年5月2日と5月3日に限り拝観できます。

集古十種とは

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