書画・美術品の基礎知識

屏風の基本

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言葉の意味は知っていても、現代の日本では、あまり目にする機会がない「屏風」(びょうぶ)。しかし、昔の屏風は、日常生活の中で使われる便利な道具であるとともに、部屋を華やかに飾る装飾品であり、特別な場であることを示す舞台装置でもあったのです。
屏風の基本では、日用品としての屏風のみならず、様々な意匠を凝らした美術品としての役割を果たす屏風において、その基本となる事柄を解説します。

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屏風のほか、武将や偉人の掛け軸、装飾が印象的な合戦武具などをご紹介します。

日用品としての屏風が使われていた場面とは

屏風はそもそも風よけだった

屏風の「屏」と言う漢字は、内部を見えなくするために用いられる囲いを意味しています。このことからも分かるように、囲いを作って風を防ぐことが、そもそもの屏風の役割でした。

もともと中国で作られていた屏風は、40代天皇「天武天皇」(てんむてんのう)の時代に、新羅(しらぎ/シルラ:古代の朝鮮半島南東部の国家)から日本に伝えられており、当時の屏風は、現代の「衝立」(ついたて)のような形状をしていたと考えられているのです。

屏風は、持ち運びが可能で屋内外を問わず、伸ばしても畳んだままでも使用できます。そのため当時の人々は、屏風を便利な日用品として用いていたのです。

それでは実際には、どんな場面で、どのように使っていたのでしょうか。

屏風の様々な役割

  1. 間仕切りとしての屏風

    日用品としての屏風は、広い部屋を区切ることがその役割のひとつ。

    平安時代の建築様式である「寝殿造」(しんでんづくり)で建てられた住居には、ほとんど壁がありませんでした。そこで、屏風で部屋を区切って寝場所を確保したり、人と会ったりしていたのです。

  2. 遮蔽(しゃへい)のための屏風

    皇太后や皇女と言った高貴な女性が外出し、御輿(みこし)から屋内に入るときなどにも、屏風が用いられています。

    その姿が外から見えないようにするために、屏風を屋外に持ち出し、目隠しとして使っていたのです。また屋内でも、着替えなどの際に衝立のように立てられていました。

  3. 風よけのための屏風

    寝室において、風や冷気の侵入を防ぐための屏風を「枕屏風」(まくらびょうぶ)と言います。

    戦前まで多くの家庭で使われており、例えば「横溝正史」(よこみぞせいし)のミステリー小説「獄門島」(ごくもんとう)には、主人公の「金田一耕助」(きんだいちこうすけ)がお寺に泊めてもらった際に、枕元に置かれていた屏風が事件解決のヒントになるという場面があるのです。

    密封性の高い今日の住居では、あまり考えられませんが、過去の日本家屋は隙間風がひどかったため、屏風を用いていたのです。

  4. 人や物の背後を飾る屏風

    位の高い人や重要人物が座る場所の背後を飾るために、屏風が使われることがあります。屏風を立てることで、そこが特別な場所であることを示しているのです。

    現代の結婚式の披露宴でも、新郎新婦の後ろに金屏風が立てられているのは、屏風にこのような役割があるためです。

  5. 茶道で使う「風炉先屏風」(ふろさきびょうぶ)

    茶道で使われる風炉先屏風

    茶道で使われる風炉先屏風

    茶室では、高さが約70cmの2つ折りの屏風が使われています。

    お茶を点てるための道具と、お湯を沸かす「風炉」(ふろ)を置く畳の隅に立てる、それが「風炉先屏風」。

    これを立てることで、茶室が特別な空間であることを表しているのです。

  6. 室内装飾としての屏風

    室町時代後期から安土桃山時代にかけて城郭が巨大になっていくと、大広間を飾るために、大きな屏風が用いられるようになります。

    金箔が貼られたり、高価な顔料(絵の具)が使用されたりした室内装飾としての屏風は、この時期に大きく発展していきました。

  7. 贈答品としての屏風

    戦国時代になると、屏風は贈答品として支配者層の中で、やり取りされるようになります。また、日本国内のみならず、南蛮貿易を通じて海外にも贈られていました。

    その一例を挙げると「織田信長」は、「安土城」が描かれた屏風を、イエズス会の宣教師「アレッサンドロ・ヴァリニャーノ」に贈っています。

屏風の構造と各部位の名称

屏風は「双」が基本

屏風は、ちょうど扇のように広げたり畳んだりできることから、パネルの面は「扇」(せん)と呼ばれます。この扇を2枚、4枚と繋げていき、その面の名称は、右から「第一扇」「第二扇」となるのです。また、折れ曲がった扇の数により、屏風の形状を「二曲」(にきょく)、「四曲」などと数えます。

屏風は通常、2つで1組のセットとなっており、左右で対になった屏風を数えるときに用いられるのが、双(そう)と言う単位。有名な「風神雷神図屏風」(ふうじんらいじんずびょうぶ)は、2枚の「扇」で構成された、風神の屏風と雷神の屏風が一対となっており、このような様式の屏風は、「二曲一双」(にきょくいっそう)と数えられるのです。

また、対になっていない、片方だけの屏風を数えるときの単位は、「隻」(せき)と言う単位を使って数えます。

安土桃山時代には前述した安土城の他にも、「伏見城」や「大坂城」と言った大規模なお城が、次々に築かれました。その大広間に置かれたのが、「六曲一双」の大屏風。「六曲」、つまり6枚の扇が連なった1組の屏風が、大広間を飾ったのです。

この六曲一双の屏風には、室町時代から江戸時代にかけて作られた、有名な「洛中洛外図」(らくちゅうらくがいず)や、江戸時代の画家であり工芸家でもあった「尾形光琳」(おがたこうりん)の「燕子花図屏風」(かきつばたずびょうぶ)などがあります。

屏風(左隻・右隻)

屏風(左隻・右隻)

「扇」を取り巻く「椽」と「縁」

屏風において、その扇の周りにある黒い木枠を椽(ふち)と呼びます。

縦方向の椽は「堅椽」(たてぶち)、上部の横椽は「上椽」(じょうぶち)、下部の横椽は「下椽」(かぶち)と言う名称が付けられているのです。特に、堅椽のある「扇」は「扉」(とびら)と呼ばれ、さらには、横椽の中で扉部分にある椽を「合掌椽」(がっしょうぶち)、扇部分にある椽を「中小椽」(なかこぶち)と言います。

そして「本紙」(ほんし:屏風や掛け軸などで、本来の書画などが描かれた部分)と「椽」のあいだに、布で飾って貼られた部位が「縁」(へり)。縁の中でも、幅の広い外側部分は「大縁」(おおべり)、内側の絵や書画などに接する部分は「小縁」(こべり)と呼ばれ、ともに装飾と表装の保護をかねて、美しい布が使用されているのです。

また、屏風の折り畳み部分は「オゼ」と呼ばれ、山折りの部分には「出オゼ」、谷折りの部分には「入りオゼ」と言う名称が付けられています。

「落款」は画家や書家のサイン

屏風の落款

屏風の落款

屏風の右端、または左端に、画家や書家のサインや制作年などが記されていることがあります。これが落款(らっかん)です。

その屏風が左右で一対となる「一双」の屏風である場合、落款は、右隻の右端と左隻の左端に記されます。

屏風の制作工程で大切な「下張り」とは

屏風の土台となる骨組みに使われるのは杉材。これを組み合わせて、障子のように「桟」(さん=板の反りを防止するためにわたす横木のこと)のある木枠を作り、そこに和紙を何層も張り重ねていく工程が、「下張り/下貼り」(したばり)と呼ばれているのです。

この下張りの工程は、さらに4つの手順に分けられます。

  1. 胴張り

    下張り(胴張り)

    下張り(胴張り)

    「下張り」で初めに行なうのは、骨組みの歪み(ゆがみ)を防ぐために、全面に厚みのある和紙を貼る「骨縛り」(ほねしばり)。

    その上に、さらに和紙を全面にベタ貼りして骨組みを引き締める作業が、「胴張り」(どうばり)と呼ばれる工程です。

  2. 蓑張り

    表面に膨らみを持たせるために、横長に切った、やや薄手の和紙を重ねながら貼り付けていく蓑張り(貼った状態が蓑[みの]のようになることから)を行ないます。

    蓑張りは、屏風の大きさに合わせて重ねる枚数を変えていくのが基本。その枚数が多くなればなるほど、強度が増す仕上がりになります。

  3. 蓑縛り

    蓑張りの重ねの部分は糊が付いていないので、その浮いた面を押さえるための下張りとしての蓑縛り(みのしばり)。

  4. 袋張り

    最後に紙の四方の縁(へり)に糊を付け、袋状に貼り付けていく袋張りと言う工程を行ないます。

    これで、屏風の下張りの完成です。

このように何度も貼り重ねることによって、屏風が反り返ったり、歪んだりすることを防ぎ、表面をピンと張った状態が、長期間維持されることに繋がります。

折り畳みを可能にする紙蝶番

紙蝶番

紙蝶番

下張りの次に行なうのが、扇と扇を連結させる作業。何枚もの扇を繋げて作られている屏風における特徴のひとつが、折り畳みが可能であること。

この機能を実現している部品が、「蝶番」(ちょうつがい:丁番、ヒンジとも呼ばれる)です。

例えば、ドアや蓋のある箱など開閉できる物には、ドアと扉枠、蓋と本体のあいだに、両者を繋ぐための蝶番がはめ込んであります。この蝶番が動くことで、ドアや蓋の開閉が可能になるのです。

屏風も同じく蝶番で繋ぎ、折り畳みができるようになっています。

ドアや蓋などに用いられる蝶番は、その多くが金属製ですが、屏風の蝶番は、丈夫な和紙でできているのです。2寸×3寸(約6×9cm)の和紙を「羽根」(はね)と言い、この羽根を糊付けして、扇と扇を繋ぎ合わせていきます。

この次に行なうのが、「羽根くるみ」と呼ばれる工程。これは、糊付けした羽根をくるむように、その上から、さらに和紙を貼り付ける作業です。屏風はこのような繋ぎ方により、山折りと谷折りのどちらでもできるようになっています。

和紙を貼り重ねて得られる効果とは

蝶番で扇を連結したあとは、さらに扇に和紙を貼っていきます。ここで用いるのが、下張りの際に行なった、全面ではなく周囲だけに糊付けする「袋張り」の方法。下袋、上袋と2回以上重ねて貼っていきます。何枚も貼り重ねることで、湿気や乾燥に強くなるだけでなく、表面の張りが美しい状態に保たれるのです。

そして、仕上げとして行なわれるのが「表張り」(おもてばり)、または「上張り」(うわばり)と呼ばれる工程。表張りには、金箔を押した和紙や、「砂子蒔き」(すなごまき)と呼ばれる、金銀の箔を細かく砕いて蒔き散らした和紙などがあります。表張りの次の工程が「裏張り」(うらばり)の作業。ここでは補強のために、屏風の裏側に布や和紙を貼っていきます。

「裏張り」のあとは、縁を取り付ける作業。本紙の周りを縁取る布は、「表装裂」(ひょうそうぎれ)と呼ばれ、金糸が織り込まれた「金襴」(きんらん)が使われます。最後に椽木を取り付けて、屏風の完成です。

様々な画題が描かれる屏風絵

明治時代、いわゆる「洋画」が発展していく中で、日本に古くからあった絵画の様式を取り入れた「日本画」もまた、同じ頃に大きな革新を遂げました。

そんな日本画には、平安時代に発達した「大和絵」(やまとえ)や、鎌倉時代に中国から伝来した「水墨画」など、多種多様な様式が用いられているのです。屏風の本紙になる「屏風絵」では、これらの様式を用いて、様々な画題を描いています。

花鳥画

花鳥画

花鳥画

「花鳥画」(かちょうが)は、その文字通り、花や草木、そして鳥などの自然や動物を主体とした画題のこと。

この他にも、「花と虫」、「猫と牡丹[ぼたん] 」などを描いた作品も、花鳥画に含まれます。このような花鳥画は、室内で気軽に味わえる自然として、人々に慈しまれてきました。花鳥画には、「松」や「菖蒲」(しょうぶ)など、ひとつの画題を描いた作品や、四季の移り変わりを表現した作品などもみられるのです。

なかでも屏風に四季を描く場合は、「季節の移り変わりを右から左へと表現する」と言う決まりごとがあります。

右隻の右側から春が始まり、中央からは夏、そこから左隻の右側から秋の野の花が描かれ、左隻の左側には雪が描かれているのです。右から左へと視線を動かせるように画題を表現することで、四季の変化を味わえます。

また花鳥画では、草花や鳥、猫や蝶だけでなく、「鳳凰」(ほうおう)や「龍」など、想像上の生き物も含めて、「亀」や「鶴」と言った縁起の良い生き物も描かれました。「鳳」は雄、「凰」は雌であると考えられているため、それらをつがいで描いた鳳凰図の屏風は、婚礼などの晴れの席で使われていたのです。

風景画

屏風絵を手掛けていた日本の画家は、自然の美しさを表現するために「花鳥画」だけではなく、いろいろな風景も好んで描いてきました。

その中でも、海辺の松林を描いた屏風は「浜松図屏風」(はままつずびょうぶ)と呼ばれ、室町時代に数多く制作されています。

その他にも、屏風絵における風景画の画題としては、「富士山」が好んで描かれていました。平安時代中期頃に成立した歌物語「伊勢物語」(いせものがたり)に、その高さを称して「比叡(ひえい)の山を二十ばかり重ねあげたらんほど」と記されているように、富士山は、古くから日本人に崇められる山だったのです。

山水画(さんすいが)

山水画

山水画

多くの人が思い浮かべる「屏風」は、金箔を貼り、緑青や群青、朱など極彩色の顔料を用いた作品です。しかし、なかには墨の濃淡で描いた屏風もあります。

中国の宋画や禅画が起源となった山水画は、余白を大胆に活かし、わずかな画題を墨の濃淡で描き出しているのが大きな特徴。山水画は、戦国武将に愛され、江戸時代中期には、禅僧達にも好まれた画題です。

人物・物語

「源氏物語」や「太平記」(たいへいき)、「平家物語」などを画題とした屏風絵は、安土桃山時代から江戸時代にかけて、高い人気を博していました。

特に源氏物語を描いた屏風絵は、慶事の調度品として用いられ、また、勇壮な合戦の場面を描いた「太平記」や「平家物語」の屏風は、武将達に気に入られていた作品です。

例えば現存はしていませんが、室町時代から安土桃山時代に活躍した絵師「土佐光吉」(とさみつよし)の描いた「平家物語図屏風」は、大坂城内の調度品であったと伝えられています。

また、平家物語などに登場する、いわゆる「源平合戦」(げんぺいかっせん)は、近世までに多くの絵師によって、屏風絵の画題に取り上げられています。

これは、軍記物語である平家物語が、古くから武士のあいだで親しまれてきたことが背景にあったと考えられたため。

一方、墨の濃淡で描かれた「竹林七賢図」(ちくりんしちけんず)や「達磨図」(だるまず)は、江戸時代に入って禅僧や禅宗に心惹かれる武家に好まれました。

合戦図

源平合戦図屏風_三草山の戦い

源平合戦図屏風(一部)
三草山の戦い

「平家物語」や「太平記」など、物語に描かれた合戦の様子を想像で描く屏風とは別に、戦国時代から「大坂夏の陣」に至る合戦の様子を写実的に描いた屏風絵として、「合戦図屏風」があります。

「関ヶ原合戦図屏風」や「大坂夏の陣図屏風」などは、徳川家や黒田家など、実際に参陣した武将達が、当時の記憶がまだ新しいうちに作らせたと考えられているのです。

なかでも「大坂夏の陣図屏風」は大坂城を中心に、右隻から左隻へと合戦の経過が表現されており、逃げ惑う人々の様子や戦いの生々しさなどを詳細に描いているところが高く評価され、合戦図屏風の最高傑作と言われています。

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人々の暮らし

おそらく多くの人が目にしたことのある「洛中洛外図」は、京都市中と郊外を俯瞰しながら、同時にそこに生きる人々の姿を描き出している画題です。

本来であれば、同じ画面の中では成立しないはずの引きで映した構図と、拡大して映した構図を共存させる大胆な試みをしています。

南蛮屏風

南蛮人を描く

南蛮人を描く

室町時代後期に日本を訪れた「南蛮人」(ポルトガル人やスペイン人など)は、当時の日本人を驚かせ、憧れを抱かせるような刺激をもたらしました。イエズス会の宣教師などによって伝わった文化や習慣などが、織田信長をはじめとする日本の権力者をも虜にします。

「南蛮屏風」(なんばんびょうぶ)では、その南蛮人との交易の場面を描き、当時の様子を伝えているのです。

南蛮屏風の作品には、小さな銅版画をもとに、ヨーロッパの王侯を描いた「泰西王侯騎馬図屏風」(たいせいおうこうきばずびょうぶ)や「レパント戦闘図屏風」などがあります。

日本画の屏風絵の中でも、まったく趣の異なる南蛮屏風からは、当時の日本画家の高い画力と豊かな想像力が窺えるのです。

特別な金屏風と白絵屏風

結婚式で金屏風が用いられる理由

金色はもともと、邪気を払う色とされていました。また、金屏風に用いられる金箔が変色しにくいことから、永遠を象徴する色だと考えられています。

まさに金屏風は、お祝いの場にふさわしい美術品なのです。

江戸時代、幕府の御用絵師であった「狩野探幽」(かのうたんゆう)が手掛けた「桐鳳凰図屏風」(きりほうおうずびょうぶ)には、金箔を貼った背景に、雌雄の鳳凰が描かれた作品。

左隻には一対の鳳凰が、右隻には鳳凰の雛(ひな)も加わり、仲睦まじい親子の鳳凰の様子が表現されているこの屏風は、江戸幕府4代将軍「徳川家綱」(とくがわいえつな)の婚礼のために制作されたと考えられています。

徳川家綱のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

子どもの誕生に作られた新しい白絵屏風

高貴な人の出産の際には、枕元に真っ白な屏風が置かれました。

白い紙に「胡粉」(ごふん:貝殻を焼いて作った白色顔料)を塗り、「雲母」(うんも/きら:鉄やマグネシウムなどを主成分と鉱物の一種)で「松竹」(しょうちく)や「鶴亀」などの吉祥文様が描かれているのが「白絵屏風」です。

この白絵屏風は、これから出産しようとする女性を守り、健やかな子どもが生まれるようにとの願いが込められています。

この白絵屏風は、出産のたびに新しく作り直され、お七夜が済むとお焚き上げされていました。

当時の人々が屏風を置くことによって、一種の結界を張り、さらにそれを白くすることで、清らかで穢れ(けがれ)のない、神聖な空間を確保しようとしていたことが窺えます。

屏風の基本

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集古十種とは

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「集古十種」(しゅうこじっしゅ)とは、江戸時代後期に「松平定信」(まつだいらさだのぶ)が編纂した古宝物図録(こほうもつずろく)のことです。古宝物を10種類に分類して集めた(編纂した)ことから、「集古十種」と命名されました。制作当時から大絶賛されたという集古十種について、詳しくご紹介します。

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合戦図屏風とは

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「合戦図屏風」(かっせんずびょうぶ)は、武将達の戦いの様子を表わしていますが、すべての真実が描かれている訳ではありません。実際に起きた戦の渦中で描かれるのではなく、後世に制作された作品が多いからです。描く絵師達にとっては、依頼主に対して力量を示す絶好の機会であり、作品は芸術品であるとも言えます。正確性より、軍記などの物語から発想を得て描かれるため、架空の設定や時代背景のズレもあるのです。合戦図屏風について詳しく解説していきます。

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屏風の絵師

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鮮やかな金地に描かれる雅で風流な屏風画。日本を代表する絵師達は、幕府お抱えの「御用絵師」(ごようえし)として、その才能を発揮しました。御用絵師最大の仕事は、幕府の命で行なう城郭建設に伴っての障壁画制作です。障壁画制作のなかには、もちろん屏風も含まれ、数々の名作が生まれました。室町時代から江戸時代にかけて名を馳せたのが「狩野派」(かのうは)と「琳派」(りんぱ)と呼ばれる御用絵師達です。御用絵師のなかでも格式の高い職位は「奥絵師」(おくえし)と称され、世襲されるのが通例でした。先代の持つ画法を忠実に再現しつつも、長い年月をかけて独自の技法を編み出していく様子が、屏風の巨匠達の作品を通して見えてきます。

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博物館などで古い書物を目にしても、そこに書かれた「くずし字」を読んで意味を理解するのは至難の業。しかし、実はくずし字が読めなくても「古文書」を楽しむことができるポイントがあるのです。ここでは、戦国時代から江戸時代に書かれた「中世文書」を中心に、「古文書」を楽しむポイントをご紹介します。

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天皇の書状 宸翰(しんかん)

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