書画・美術品の基礎知識

合戦図屏風とは

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「合戦図屏風」(かっせんずびょうぶ)は、武将達の戦いの様子を表わしていますが、すべての真実が描かれている訳ではありません。実際に起きた戦の渦中で描かれるのではなく、後世に制作された作品が多いからです。描く絵師達にとっては、依頼主に対して力量を示す絶好の機会であり、作品は芸術品であるとも言えます。正確性より、軍記などの物語から発想を得て描かれるため、架空の設定や時代背景のズレもあるのです。合戦図屏風について詳しく解説していきます。

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屏風のほか、武将や偉人の掛け軸、装飾が印象的な合戦武具などをご紹介します。

合戦図屏風の制作意図

鎌倉時代の後期以降、日本では多くの戦が起こりました。現代でこそ写真・映像として、現場の状況を記録することができますが、当時はそのような手段がありません。

合戦図屏風は、主に江戸時代に入ってから描かれています。つまり、直接に目で見た真実のみが描かれた作品ではないのです。一方同じ屏風図でも、当時の暮らしや風景、生き物達の姿が描かれている場合は「風俗図屏風」と言います。

かつて合戦図屏風は、それぞれが戦のあった時代そのものを表わしていると考えられていましたが、近代になるにつれ史実とは矛盾する点が発見されるようになりました。

例えば、題材となっている戦があった時代には、なかったはずの甲冑(鎧兜)を付けた武士が描かれていることや、城郭や船の形が時代考証に合っていないことなどです。当時の史料や軍記を参考に描かれたものの、合戦図屏風には、正確さよりも権威を表わすことに重要な意味と目的があったと推定されています。

乱世から平穏な時代へと変わっていったからこそ、権力者達は、過去の戦では圧倒的に強かったのだという印象を形として残す必要がありました。そこには、政治的な意図が含まれていたのです。

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合戦図屏風の素材・絵師

素材と形式

屏風絵には、絹地(絹製の生地)が使われることもありましたが、ほとんどの合戦図屏風では紙地(紙製の生地)の素材が使われています。

形状は、「六曲一双」(ろっきょくいっそう)と呼ばれる、6つ折り型です。向かって右側の右隻(うせき)6枚と、左側の左隻(させき)6枚で構成され、6枚のひとつひとつを「扇」(せん)と言い、右から第一扇、第二扇と数えていきます。

右隻左隻の2枚1組で構成される作品が多いのですが、半分の6枚のみという作品も珍しくありません。

「刀剣ワールド財団」が所蔵する「源平合戦図屏風」も、室町時代に制作された、六曲一双の見事な作品です。「那須与一」(なすのよいち)が船上の扇を射落とした「扇の的」など、「源平合戦」での有名な逸話が12枚の扇に表わされています。

那須与一
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代表的な絵師一派

合戦図屏風を手掛けた絵師として、筆頭に挙げられる一派が「狩野派」(かのうは)です。

狩野派を代表する絵師のひとり「狩野探幽」(かのうたんゆう)は、江戸時代の初期に幕府の御用絵師として活動し、「源平合戦」の有名な奮戦の逸話「梶原の二度駆け」(かじわらのにどかけ)を屏風に表した「一ノ谷合戦・二度之懸図屏風」(いちのたにかっせん・にどのかけずびょうぶ)などの合戦図屏風を描きました。

多くの芸術作品を生み出している狩野派の絵師達にとって、合戦図屏風の制作は、自らの力量を広く知らしめる格好の機会でもあったのです。絵師目線の意図も加わり、戦の正確さより華やかさを主体とした作品が後世まで残されることとなりました。

この他、純日本的な大和絵の伝法を確立した「土佐派」(とさは)が知られています。室町時代に朝廷の御用絵師として盛隆するも、安土桃山時代には狩野派の勢いに押されて衰退。一時期は狩野派の下請け的な存在となりますが、江戸時代初期に再興され、以降は幕末までその地位を堅持しました。

合戦図屏風から見る5つの戦い

川中島の戦い

上杉謙信

上杉謙信

川中島の戦い」は、1553年(天文22年)にはじまり、5度にわたって繰り広げられながら、引き分けとなった戦いです。越後国(現在の新潟県)の「上杉謙信」と、甲斐国(現在の山梨県)の「武田信玄」が、北信濃(現在の長野県北部)の覇権を争いました。2人が一騎打ちをする姿は、銅像にもなっているほど有名です。

岐阜県瑞浪市の「ミュージアム中仙道」に所蔵されている「川中島合戦図屏風」には、「第4次川中島の戦い」の名場面が分かりやすく描かれています。

六曲一双の作品で、作者は江戸時代初期から中期に活躍した「土佐光成」(とさみつなり)。戦を俯瞰(ふかん:高い所から見おろすこと)的に表わすのではなく、一部を切り取って描いた構図が特徴的です。

右隻の第四扇には、武田軍の本陣に斬り込んだ上杉謙信が、愛刀を振るっている姿が描かれています。

それを武田信玄が愛用の黒い軍配(うちわ)で防いで応戦。武田信玄の背後では、とっさに左手を差し出す武田家の家臣や、さらに後ろの旗から顔を覗かせる家臣の姿も見えます。

この屏風は、紙製ではなく絹製という珍しさだけでなく、多くの人数を配置していない分、細部まで丁寧に描かれました。実際にあった場面かどうかは、史料が残されていないため定かではありません。作者の土佐光成が、軍記類を参考に想像を膨らませて描いたのではないかという見方が有力です。

対して、山口県にある「岩倉美術館」所蔵の「川中島合戦図屏風」は、八曲一双(右隻8枚、左隻8枚)の大作。江戸時代前期に制作され、その壮大さばかりでなく、広範囲に陣を張った武田軍の配列「啄木鳥戦法」(きつつきせんぽう)が右隻に見られるのも魅力と言えます。啄木鳥戦法とは、啄木鳥がエサの虫を捕るときに、木の反対側を叩いておびき出すような陽動作戦で、敵の目を別の方へ逸らせた隙に、本軍で一気に攻略するという戦法です。

上杉軍を挑発して、おびき出されて現われるのを待っている武田軍の光景が描かれていますが、上杉軍は見事に敵の策略を見抜き、罠にはまることはありませんでした。

左隻には、戦場となった八幡原(はちまんぱら)で、敵味方が入り乱れる場面が残されています。表現されている人数が膨大なため、ひとりひとりの表情までは見分けが付きません。しかし、甲冑(鎧兜)や旗印が細かく描かれていることから、兵の身分がよく分かります。

長篠の戦い

織田信長

織田信長

1575年(天正3年)、「織田信長」と「徳川家康」の連合軍が、「武田勝頼」(たけだかつより)率いる武田軍と戦ったのが「長篠の戦い」(ながしののたたかい)です。

愛知県にある「名古屋市博物館」所蔵の「長篠合戦図屏風」は、六曲一双で、江戸時代に制作されました。

馬を防ぐ策を挟んだ先頭の白い旗印の下に徳川軍、大きく下がった後方の赤い旗印の下に織田軍を確認することができます。

柵より前方、鉄砲を構える兵に向かって日本刀で挑む敵兵の姿も見逃せません。戦国時代に初めて鉄砲を実戦で使用したと伝えられる戦いであることから、屏風図でも鉄砲が無敵であることを表わしたのです。柵の後方、織田信長の本陣に目を向けると、談笑する兵の姿も見つけられます。

これらの光景は、左隻に描かれているのですが、右隻は残念ながら現存していません。対になる構図として、徳川方の奥平氏が城主を務める「長篠城」(現在の愛知県新城市)が描かれていたと考えられています。

山崎の戦い

明智光秀

明智光秀

1582年(天正10年)6月、「本能寺の変」から11日後に起きたのが「山崎の戦い」です。織田信長へ謀反を起こした「明智光秀」は、この戦いで「豊臣秀吉」に討たれました。

六曲一双の合戦図屏風「山崎合戦」は、江戸時代後期の作品であり、豊臣秀吉が自分の天下を知らしめるために作らせた屏風図ではありません。

豊臣氏の城であった「大坂城」(現在の大阪城)ですら破壊し、その上に新たな徳川氏の大坂城を建てるほど、豊臣氏の権威を潰したかった徳川氏の時代に、豊臣秀吉が天下取りへと躍進した「山崎の戦い」を描いた作品が制作されたことは、興味深いと言われています。

明智光秀が何の目的で謀反を起こしたのかは、いまだに解明されていません。また豊臣秀吉の全軍が、「備中高松城」(現在の岡山県岡山市)から京までの約200kmを10日ほどで踏破した「中国大返し」が、どのように成し遂げられたのかも謎とされています。

そのため、この合戦図屏風では、他と比べて武具や兵の表情が簡素に描かれているのではないかとの意見もあるのです。

右隻には明智光秀の陣、左隻には豊臣秀吉の陣が描かれています。双方を合わせると、激戦の場面となるように考えられた構図です。ちょうど真ん中に「天王山」が位置するように演出されています。

山崎合戦(部分)

山崎合戦(部分)

明智光秀の誤算は、味方してくれると思っていた親交ある者達が、敵側に付いてしまったことで、その内のひとり「筒井順慶」(つついじゅんけい)が、明智軍の後方から攻めていく場面がこの合戦図には描かれました。同じ列には、橋を渡っている「島左近」(しまさこん)の姿も見られるのですが、ここには、空想が含まれているのです。実際には、このような橋は存在しません。絵師が配置した方が良いと判断して、描き込んだと考えられています。

戦の最前線では、躍動感ある武将の姿が際立つものの、勝者側の本陣では緊張感を欠いた様子も表現されました。総大将である豊臣秀吉の近くには短冊があり、和歌を詠んでいることが連想できます。

関ヶ原の戦い

石田三成

天下人となった豊臣秀吉が亡くなったあと、有力大名の間で主導権争いが勃発しました。争いは、やがて天下分け目の合戦へと発展していきます。それが1600年(慶長5年)に起きた「関ヶ原の戦い」で、東軍総大将の徳川家康と、西軍の中心人物「石田三成」が対立した戦です。

大阪府中央区の「大阪歴史博物館」が所蔵する「関ヶ原合戦図屏風」は、八曲二双、四隻三十二扇ある大屏風であったとされますが、現在は一双しか残っていません。作者については諸説あり、室町時代から安土桃山時代にかけて活躍した大和絵土佐派の絵師「土佐光吉」(とさみつよし)、またはそれに近しい土佐派の絵師と言われています。

徳川家康は、この作品を気に入っていたと言われ、他の関ヶ原合戦図屏風と比べても、緻密さや、雅な金色の使い方も別格です。

通常、合戦図屏風では、複数の武将を特定することができます。しかし、この「関ヶ原合戦図屏風」は、徳川家康の権威を示す目的で制作されているため、徳川側の者以外は判別できないように描かれているのです。

満天姫

そのなかに、徳川家康の養女「満天姫」(まてひめ)の最初の夫で、すでに故人となっていた「福島正之」(ふくしままさゆき)の姿もあり、満天姫は再婚の際にこの屏風を嫁入り道具にしてほしいと望みました。一度は断った徳川家康ですが、満天姫を不憫に思い、再婚相手の津軽家へ持参することを許したのです。「関ヶ原合戦図屏風」は、津軽家で大切に保存されたことから、「津軽屏風」と呼ばれるようになりました。

満天姫が譲り受けた屏風は、二双ある内の一双で、残りの一双に関しては不明な点も多く、現在も歴史研究が進められているとのことです。

「関ヶ原の戦い」を描いた合戦図屏風は、全国に数十点が現存していますが、この「大阪歴史博物館」の「関ヶ原合戦図屏風」が最も古いとされています。

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大坂冬の陣・夏の陣

    徳川秀忠

    徳川秀忠

    1614年(慶長19年)に、大坂で豊臣氏と徳川氏が対立する戦が起こりました。「大坂冬の陣」です。

    一旦は和睦に至るものの、翌1615年(慶長20年)に再び戦いの火蓋が切られる「大坂夏の陣」が起き、豊臣氏は滅亡。本格的な徳川氏の時代が訪れます。

「大坂冬の陣図屏風」は、六曲一双の様式で、江戸時代の後期に制作されました。東京都の「東京国立博物館」に保存されている「大坂冬の陣図屏風」は模写であると伝えられ、原本の所在は不明となっています。

徳川家康の本陣や「徳川秀忠」の陣が確認できるのをはじめ、同じ右隻に「九曜紋」(くようもん)も見られます。これは「伊達政宗」の姿であるとのことです。

「大坂冬の陣図屏風」は、合戦風景らしい描写がされていますが、「大坂夏の陣図屏風」からは、雰囲気が一変します。

福岡藩主の黒田家にあったことから「黒田屏風」とも呼ばれる「大坂夏の陣図屏風」は、六曲一双で江戸時代前期に作られました。この合戦図屏風は、以前メディアで取り上げられた際に「ゲルニカ」(スペインの内戦を描いたピカソの作品)に例えられたように、戦の悲惨な光景が繰り広げられているのです。

右隻には総大将「豊臣秀頼」(とよとみひでより)の馬標「千成瓢箪」(せんなりびょうたん)が第五扇に見られ、第六扇には大坂城が配置されています。

一方、対になる左隻は、逃げ惑う人々の光景ばかりなのです。野盗(盗賊)から追いはぎにあった女性や川で溺れかかりながらも必死で逃げる人々などが描かれています。

黒田屏風は、解釈が難しいことでも有名です。政治目的で描かせるのならば、巻き込まれる庶民の残酷な姿を表現する必要性はありません。にもかかわらず描かれたのは、まるで風刺画(ふうしが)のようです。世間、あるいは後世の者に訴えかける目的もあったのではないかとの考え方も含め、現在も検証が行なわれています。

合戦図屏風とは

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