書画・美術品の基礎知識

掛け軸の歴史

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日本の家屋に「床の間」(とこのま)があった時代には、多くの家に飾られていた「掛け軸」。当時の掛け軸には、客人を招いたときに歓迎の気持ちを表わす役割もあったのです。現代の日本では、掛け軸が自宅にあることは珍しく、美術館や博物館、寺社などでのみ見かける伝統工芸品、あるいは美術品であると考える人が多いかもしれません。 掛け軸をより身近な物として感じて頂くために、掛け軸がいつから用いられるようになり、どのように使用法が変わってきたのかについて、その歴史を振り返りながらご紹介します。

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刀剣ワールド財団所蔵の武将や偉人の「掛け軸」を解説と写真でご紹介します。

掛け軸の誕生

掛け軸は中国で誕生し日本に伝わった

中国の晋王朝(しんおうちょう:265~420年)では、仏教を布教する際に、仏画が使われていました。これらの仏画は、持ち運ぶときに破損しやすかったため、掛け軸の原型となる、巻物型の仏画が作成されたと言われているのです。

また、絵画を巻物型にすれば、桐箱などに入れて保存することが可能。これにより、汚れが付きにくくなり、日光を遮ることもできるため、絵画の劣化を防止することもできます。現在における掛け軸の様式が中国で確立されたのは、唐(とう:618~907年[推古天皇24~延喜7年])の頃。日本へは飛鳥時代に、仏教と共に掛け軸が伝わったと言うのが通説です。

礼拝の対象であった掛け軸

もともと中国では、仏教において「掛けて拝する」ため、仏画に用いられていた掛け軸。現代では鑑賞用の美術品ですが、礼拝用として、宗教的な意味合いが強く込められていました。このような中国の影響を受け、日本でも飛鳥時代から平安時代には、主に仏画の掛け軸が、礼拝の対象として寺院などに飾られていたのです。

この当時の掛け軸には、初めは「法隆寺」(ほうりゅうじ:現在の奈良県生駒郡)に伝来し、現在は「奈良国立博物館」(奈良県奈良市)が所蔵している国宝「十一面観音像」などがあります。
また、この頃の掛け軸は、僧侶や貴族の間だけで普及しており、庶民が用いることはほとんどありませんでした。そして、平安時代にはすでに、現在見られるような表装を施した掛け軸が、日本に伝わったと推測されています。

美術品としての掛け軸の普及

鎌倉時代に普及した水墨画による掛け軸

鎌倉時代には禅宗(ぜんしゅう)と共に、水墨画が日本へ伝わりました。水墨画が日本で普及したのは、庶民に禅宗が広がったことと深い関係があります。

この時代に、禅宗を始めとする中国の文化を伝える役目を果たしていたのが、中国から来日した禅僧達。なかでも禅宗は、鎌倉幕府、及び室町幕府の保護を受け、爆発的に庶民の間で広がっていったのです。禅僧が描いていたのが水墨画で、禅の思想を表す美術品として、普及していきました。

水墨画が普及するにつれて、庶民にも掛け軸が知られるようになります。当初は、禅的思想が強く表された水墨画が、多く見られていました。しかし、徐々に「枯山水」(かれさんすい)や「花鳥風月」(かちょうふうげつ)と言った画題が取り上げられるようになり、鑑賞用の水墨画も作成されることになります。これに伴い、水墨画をより美しく見せることを目的に、掛け軸に装飾を施すようになっていったのです。

書院造

書院造

そして、室町時代になると住宅様式が変化し、床の間の起源となる「押板」(おしいた)が備えられた、「書院造」(しょいんづくり)の住宅が見られるようになります。

床の間には、客人と楽しむために花などと一緒に掛け軸が飾られ、より一層普及していくことになりました。

16世紀の後半、安土桃山時代には、「広間」(ひろま)が主君や客人を迎え入れる客間となり、「床の間」(とこのま)には、客人の立場に応じた掛け軸が飾られるようになります。客人の地位や訪問した季節、時間などを配慮して飾る掛け軸を選び、どのような空間であるのかを演出するようになったのです。そのため、1日に何度か掛け軸を取り替えることもありました。

茶の湯と掛け軸の関係

茶の湯の発達も、掛け軸の普及と深く関係しています。室町時代後期から安土桃山時代前期にあたる15世紀には、貴族や有力武士が茶室に掛け軸を飾り、鑑賞しながら茶を楽しむ程度でしたが、戦国時代になると、「織田信長」や「豊臣秀吉」などの権力者が好んだことで、庶民の間にも茶が広がりました。

千利休

千利休

また、茶の湯と掛け軸について、「侘茶」(わびちゃ)を大成した茶人「千利休」(せんのりきゅう)の下記のような言葉が伝わっています。

「掛物ほど第一の道具はなし。客・亭主共に茶の湯三昧の一心得道の物也、墨蹟を第一とす、其文句の心をうやまひ、筆者・道人・祖師の得を賞翫(しょうがん:その物の良さや美しさを味わい、楽しむこと)する也。」

「墨蹟」(ぼくせき)とは、禅僧が墨を用いて書いた筆跡のこと。千利休によるこの言葉には、侘茶が禅的思想と通じるところがあること、そのため茶席には、墨蹟の掛け軸が最も大切であると言う意味が込められています。

茶室に掛け軸を飾ることで、その茶席を特別な空間にしたいと言う、亭主(ていしゅ:茶の湯において、茶事を主催する人)の意図を表わしていたのです。加えて、掛け軸に書かれている言葉によって、客人のもてなし方についても表現していたとも考えられています。

このようにして掛け軸は、茶席になくてはならない美術品となり、茶の湯を好む武士や町人の間で普及していきました。

江戸時代に盛んになった文人画の掛け軸

江戸時代に入ると、戦がほとんどない平和な時代となり、様々な文化が栄えるようになります。江戸時代中期には、職業画家ではなく「文人」(ぶんじん:風雅を好み、書画や詩文などに秀でる人)が描いた「文人画」が流行り、町人や文化人の間でも、自身で描いた絵に表装(ひょうそう:布や紙などを貼り、掛け軸に仕立てること。「表具」[ひょうぐ]とも言う)を施し、楽しむ習慣ができたのです。

また同時期には、庶民の間でも浮世絵などが流行し、それに伴って安価な掛け軸も作られるようになりました。

近代の掛け軸

明治・大正期に身近な存在になった掛け軸

日本が開国し、西洋の文化が急速に入ってくるようになると、多くの画家は西洋画の影響を受け、競い合うようにその技術が進歩を遂げていきます。そんななか、日本画が世界でも評価されるようになり、掛け軸の人気も高くなっていったのです。

明治時代以降には、庶民にとって掛け軸が、より一層身近な存在になっていきます。この背景には、特に都市部において、庶民の住宅にも床の間を設けることが一般化したことが挙げられるのです。これにより庶民の間でも、自宅に掛け軸を飾ることが当たり前となっていきました。

住宅様式の変化による掛け軸離れの加速

ところが戦後、住宅の欧米化によって、床の間がある家が少なくなっていきます。そのため、日本人の「掛け軸離れ」が加速していったのです。

また、自宅で掛け軸を飾らなくなったことで、その美術的価値が高まっていきました。それまでの掛け軸は、家で簡単に鑑賞して楽しむことができましたが、美術館や寺院などで鑑賞する、特別な美術品へと変わったのです。

現在の掛け軸との距離

掛け軸離れが加速している一方で、現代の住宅にある洋間に、インテリアとして和風の掛け軸を飾ることで、そのアンバランスさを楽しむ人もいます。

現代の日本では、安価な掛け軸が販売され、さらには、掛け軸を展示している美術館や博物館なども身近に多くあるため、掛け軸を楽しめる環境は十分にあるのです。

日本の伝統文化の一端を担うと言える掛け軸。現代においては、日本人だけでなく、外国人にもその良さが広まりつつあります。外国人が「和」をイメージしたときに、床の間や掛け軸を思い浮かべる人も多く、日本へ観光に訪れた外国人が、そのお土産として、掛け軸を購入するケースが増加しているのです。

表装の種類から見るその歴史

掛け軸の表装には様々な種類があり、その形式は、時代ごとに変化が見られるようになりました。それらを大まかに分類すると、飛鳥時代頃、中国から伝わった表装をもとに、日本独自の工夫を加えて様式化された「大和表装」(やまとひょうそう)と、江戸時代以降、同じく中国から伝わった形式をそのまま用いた、「文人表装」(ぶんじんひょうそう)の2つ。

なかでも「大和表装」には、書道の書体に代表され、華道や能、狂言などの芸道において、その概念としても用いられる「真・行・草」(しん・ぎょう・そう:書の書体、真書・行書・草書の総称)と組み合わせることで、掛け軸の格式を表わす形態があるのです。これは、茶の湯や連歌など、多方面において活躍した文化人「相阿弥」(そうあみ)が確立したと伝えられています。

大和表装(大和表具)

「大和表装」における真・行・草の3体には、そのそれぞれに真・行・草の3体を組み合わせます。ただし、「草」の形式に「真」はないため、大和表装の格式は、全部で8種類です。格式としては「真」が最も高く、「草」が最も低いとされていますが、「真の真」が、どのような場合にも良いと言う訳ではありません。

掛け軸は絵画や書の種類、そして飾られる場所や目的によって、ふさわしい表装が異なり、適切な物を選ぶことが最重視されていたのです。なお大和表装では、すべての格式に「風帯」(ふうたい)と呼ばれる細長い裂地が、掛け軸の上部から2本垂れ下げられています。

真表装

「真」の表装とは、「神聖表装」(しんせいひょうそう)とも言われる「仏画表装」のこと。仏画や曼荼羅(まんだら)など、宗教的な絵画や書の掛け軸に用いられています。「真の真」の表装はあまり見られず、「真の行」と「真の草」の表装が一般的です。

真の真
「本紙」(ほんし:絵画や書など、掛け軸の作品そのもののこと)の周囲を、「一文字」(いちもんじ:本紙の上下に付ける裂地)や「中廻し」(ちゅうまわし:一文字のさらに下部へ付ける裂地)、「外廻し」(そとまわし:本紙のいちばん外側を廻す裂地)のすべてが廻っている形式。
真の行
中廻しと外廻しが本紙の周囲を廻り、一文字が上下にのみ付く形式。
真の草
真の行と同様に、中廻しと外廻しが本紙の周囲を廻っているが、一文字がない形式。
真表装の種類

真表装の種類

行表装

「行」の表装は、大和表装で最もよく用いられる格式。外廻しがなく、中国の書画や大和絵など、様々な本紙に幅広く施されています。

行の真
一文字と中廻しが本紙の周囲を廻っている形式。中廻しの上下に、「天地」(てんち)と呼ばれる裂地が付く。
行の行
本紙の上下に一文字が付けられ、その周囲を中廻しが廻り、その上下に天地が付けられる形式。本紙の周囲を3種類の部位で囲んでいることから、「三段表装」や「三段表具」などと呼ばれる。
行の草
「行の行」における一文字をなくした形式で、「二段表装」という通称がある。

草表装

「草」の表装は、主に茶人や禅僧が手掛けた書画などに用いられ、「茶掛け」や「輪補表装」(りんぽひょうそう)も呼ばれています。

草の行
「行の行」における「柱」(はしら:左右の中廻し)の幅を狭くした形式。
草の草
「草の行」の一文字をなくした形式。

文人表装(文人表具)

「文人表装」は、もともと中国の明王朝(みんおうちょう:1368~1644年[正平23年/応安元~寛永21年/正保元年])で流行した表装の形式。

江戸時代、人々が文人への憧れを強く持ったことで、「文人画」が多く描かれるようになり、それらによく用いられていたことから「文人表装」と言う名称が付けられました。この文人表装には、大和表装と同じく、いくつかの形式があります。

袋表装
「袋表装」(ふくろひょうそう)は、同じ裂地を用いて、上下と柱の部分を繋ぐ形式。風帯はなく、袋表装に一文字のみがある物は「丸表装」(まるひょうそう)、「筋廻し」(すじまわし:本紙の周囲にある細い裂地[=筋]が、一周廻っている状態)と一文字が施されている表装は、「本袋表装」(ほんふくろひょうそう)と呼ばれる。
袋表装の種類

袋表装の種類

明朝表装(明朝仕立て)
「明朝表装」(みんちょうひょうそう)は、掛け軸の両端に「明朝」と呼ばれる細い縁を設ける形式。中国の明王朝時代に人気を博したことから、付けられた名称である。明朝を太くした形式は「太明朝表装」(たいみんちょうひょそう)と呼ばれ、本紙の左右にある、柱が天地を貫いているのが特徴。また、一文字や天地、中廻し、風帯に同色の裂地を用い、それぞれの境目に筋を入れた明朝表装は、「唐表具」(とうひょうぐ)と呼ばれる。

その他の表装

その他の表装(くり抜き表具)

その他の表装(くり抜き表具)

掛け軸の表装には、ここまでご紹介した「大和表装」や「文人表装」以外にも、多種多様な形式があります。日本で考案された「台紙貼り表装」は、短冊や色紙と言った小さな本紙を台紙に貼ることで、大きく見せる表装の方法です。「見切り表装」は、文人表装と同様に、天地を柱で結んだ形式。風帯は付けられており、左右の柱の幅は様々な太さになっています。

また、「くり抜き表具」と呼ばれる形式は、裂地をくり抜いたところに本紙をはめ込む方法。長方形や円形など、いろいろな形状でくり抜かれている表装が見られます。

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