書画・美術品の基礎知識

屏風の歴史

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「屏風」(びょうぶ)は、現代の日本でも地方の古い家などに残っていることがあります。かつての日本では、日々の暮らしとともにありましたが、今では結婚式の金屏風や、雛飾りで使われるぐらいになってしまいました。
しかし、美術展などで観る屏風は、その美しさと壮大さで私達を魅了します。生活用品であると同時に、日本を代表する美術品である屏風。その歴史を紐解き、奥深い世界にふれてみましょう。

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屏風のほか、武将や偉人の掛け軸、装飾が印象的な合戦武具などをご紹介します。

屏風の伝来から日本人の生活に定着するまで

日本書紀に「屏風」と言う言葉が登場

正倉院

正倉院

奈良時代の歴史書「日本書紀」の中に、686年(朱鳥元年)に「天武天皇」へ新羅(しらぎ:現在の朝鮮半島南東部)から貢物が届いたと言う記述があります。

金や銀、絹、薬などと並んで、贈り物の中に屏風がありました。これが日本の歴史に屏風と言う言葉が登場する最初の記述です。

大陸から伝来した屏風が、どのような美術品だったのかは分かっていませんが、その後、日本でもそれを手本として作られるようになりました。

正倉院」(奈良県奈良市)に残された「聖武天皇」(しょうむてんのう)遺愛品のひとつである「鳥毛立女屏風」(とりげりゅうじょのびょうぶ)は、中国風の衣装を身に付けていますが、日本で作られたとされています。

絵巻物に描かれた屏風

平安時代に隆盛した絵巻物には、屏風が数多く描かれました。

「源氏物語絵巻」では、病に伏した「柏木」が、幼馴染の「夕霧」に別れを告げる場面にて、病床と部屋を区切るために屏風が置かれています。このように屏風は、間仕切りや風よけとして使われていました。

また、「法然上人絵伝」(ほうねんしょうにんえでん)の中では、「法然上人」が誕生する場面で、赤ちゃんを産もうとする女性の周りに屏風が立てられています。

この屏風は、出産の場を遮蔽するためだけではなく、出産の無事と赤ちゃんの健やかな成長を祈願する縁起物として置かれました。

室町時代に現代へつながる屏風の様式が完成

日本独自の紙の蝶番

室町時代に紙の蝶番(ちょうつがい)が工夫され、簡単に折り畳めるようになったため、六曲一双(ろっきょくいっそう:6枚に折り畳むことができる屏風2組)の様式が完成しました。

六曲一双の屏風の場合、向かって右側の6枚を「右隻」(うせき)、左側を「左隻」(させき)と言い、それぞれ右から第一扇(だいいっせん)、第二扇と数え、第六扇まであります。

戦国の世を映し出す屏風

黒田長政

黒田長政

戦国時代には、合戦の様子を伝える屏風が制作されました。

「大坂夏の陣図屏風」は、1615年(慶長20年)に起こった「大坂夏の陣」の様子を描いた、六曲一双の屏風絵です。

大坂夏の陣に参陣した「黒田長政」(くろだながまさ)が、戦いを記録し、それを子孫へと代々伝えるために描かせました。

人物5,071人、馬348頭などが精緻に描き込まれた大作で、黒田長政自身は、右隻第二扇の中央やや上に描かれていますが、あまり目立ちません。

大坂夏の陣図屏風だけでなく、多くの合戦図屏風は単なる記録画にはとどまらず、武家の教育や家が持つ誉れなどを明らかにする目的で描かれたのです。

城郭装飾としての屏風

城内に屏風が置かれるようになると、壮大な部屋を飾ると同時に、力を示す調度品としても用いられました。安土桃山時代から江戸時代にかけては、ほとんどの城郭に屏風が置かれ、芸術品としての評価が高まっていきます。

この時代の絵師としては、「狩野永徳」(かのうえいとく)が有名です。狩野永徳は、当時の日本画壇を牽引した「狩野派」を代表する絵師であり、「織田信長」や「豊臣秀吉」といった権力者に認められ、重用されました。

代表作である、京都の町を俯瞰(ふかん)的に表した「洛中洛外図」(らくちゅうらくがいず)は、織田信長が「上杉謙信」に贈った作品と伝えられています。

茶室の世界を作り出した屏風

風炉先屏風

風炉先屏風

茶室で使われる2つ折りの屏風のことを「風炉先屏風」(ふろさきびょうぶ)と言い、室町時代から使用されるようになりました。

風炉先屏風の役割は、「道具畳」の後ろに立てて、お茶を沸かす炉の「風炉」や、茶道具を保護することです。

また、「点前座」(てまえざ:茶を点てるときに亭主が座る場所)を引き立てて、茶室全体に凛とした雰囲気を与えます。

南蛮人を描いた屏風

安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、スペイン人やポルトガル人との交易「南蛮貿易」が盛んになり、それに伴って南蛮人を描いた屏風が人気を博しました。

これらの屏風には、日本の港に入港する南蛮船が配され、宣教師や南蛮商人達の様子が精緻に描かれています。

禅の世界を表す屏風

江戸時代中期になると、禅僧の間で「達磨像」を描くことが流行しました。

「達磨」(だるま)とは、インドから中国へはじめて「禅」の教えを伝えた「達磨大師」のことで、日本における禅宗の始祖と言われています。

達磨の屏風は数多く制作され、例えば「達磨寺」として知られる「法輪寺」(京都府京都市上京区)では、達磨が描かれた様々な種類の屏風を観ることが可能です。

屏風、海を渡る

biombo(ビオンボ)とは?

日本の工芸品を眺める娘たち

日本の工芸品を眺める娘たち

ビオンボは、スペイン語で屏風のことを指します。安土桃山時代、日本とポルトガルやスペインとの交易が盛んになるにつれ、日本を代表する工芸品として、屏風が海外へ輸出されるようになりました。

江戸時代に入ると、屏風は外国の国王への贈答品とされるようになります。なかでも、幕末に幕府が蒸気船の返礼として、オランダ国王に贈った屏風10点は、ヨーロッパの人々を驚かせました。

「ジェイムス・テイソ」の描いた油彩画「日本の工芸品を眺める娘たち」を観ると、当時のヨーロッパ人にとって、日本の屏風がどれほど心惹かれる美術品であったのかが良く分かります。

現代における屏風

現代では、ライフスタイルの変化に伴って、屏風が日常的な道具として使われることは少なくなりました。しかし、特別な空間を効果的に演出できるため、結婚披露宴や、有名人の結婚を発表する会見場など、おめでたい席で多く使用されています。

また、雛人形や五月人形といった節句用の飾りとして用いられる他、風雅なインテリアとしても好まれ、モダンなデザインの屏風も見られるようになりました。

屏風の歴史

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「合戦図屏風」(かっせんずびょうぶ)は、武将達の戦いの様子を表わしていますが、すべての真実が描かれている訳ではありません。実際に起きた戦の渦中で描かれるのではなく、後世に制作された作品が多いからです。描く絵師達にとっては、依頼主に対して力量を示す絶好の機会であり、作品は芸術品であるとも言えます。正確性より、軍記などの物語から発想を得て描かれるため、架空の設定や時代背景のズレもあるのです。合戦図屏風について詳しく解説していきます。

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屏風の絵師

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鮮やかな金地に描かれる雅で風流な屏風画。日本を代表する絵師達は、幕府お抱えの「御用絵師」(ごようえし)として、その才能を発揮しました。御用絵師最大の仕事は、幕府の命で行なう城郭建設に伴っての障壁画制作です。障壁画制作のなかには、もちろん屏風も含まれ、数々の名作が生まれました。室町時代から江戸時代にかけて名を馳せたのが「狩野派」(かのうは)と「琳派」(りんぱ)と呼ばれる御用絵師達です。御用絵師のなかでも格式の高い職位は「奥絵師」(おくえし)と称され、世襲されるのが通例でした。先代の持つ画法を忠実に再現しつつも、長い年月をかけて独自の技法を編み出していく様子が、屏風の巨匠達の作品を通して見えてきます。

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戦国武将の書状・朱印状

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天皇の書状 宸翰(しんかん)

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