「平知康」(たいらのともやす)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて活躍した武将。「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)の「第一の側近」で、鼓(つづみ)の名手であったことから「鼓判官」(つづみのほうがん)と称されていたことで知られています。2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、俳優の「矢柴俊博」(やしばとしひろ)さんが平知康を演じ、後白河天皇の使いとして「木曽義仲/源義仲」(きそよしなか/みなもとのよしなか)と対面した際のやり取りが話題になりました。平知康の生涯についてご紹介します。
平知康
「平知康」(たいらのともやす)は、正確な生年は不詳ですが、壱岐国(現在の長崎県壱岐市)の官吏である「平知親」(たいらのともちか)の子として誕生。そののち、父とともに「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)に仕えました。
1176年(安元2年)4月に後白河天皇が比叡山へ行幸した際には、北面(院の御所の北面に詰め、警固にあたった武士)として後白河天皇に同行。
1179年(治承3年)11月、「平清盛」がクーデターを起こして後白河天皇を幽閉すると、平知康も危険因子と見なされて追補され、役職を解任されます。
1180年(治承4年)5月、「以仁王」(もちひとおう)が諸国の源氏や寺社勢力などに対して「平氏討伐」の令旨(りょうじ:皇族の命令を伝える文書)を下しました。これにより、「源頼朝」をはじめとする武士達が平氏を討つために挙兵。敵対勢力が増えたことで平氏は撤退を余儀なくされ、そののち後白河天皇が院政を再開することになります。
後白河天皇が院政を再開したことで、平知康も「検非違使」(けびいし)として復帰。そして、この時期に鼓(つづみ)の名手として「鼓判官」(つづみのほうがん)と称されるようになります。
木曽義仲
1183年(寿永2年)、平氏討伐に参加していた「木曽義仲/源義仲」(きそよしなか/みなもとのよしなか)が京に入ると、後白河天皇の使いとして平知康が出向くことになりました。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、平知康と木曽義仲が対面したとき、平知康に対して木曽義仲が無礼を働くシーンが話題になりましたが、これは鎌倉時代に成立した「平家物語」の展開がもととなっています。
平家物語でも、平知康は後白河天皇の使いとして木曽義仲のもとへ訪れていますが、このとき、平知康に下されていた命は「乱暴者と悪名高い木曽義仲の狼藉を鎮めよ」というものでした。
そして、いざ対面のときになると、平知康は木曽義仲から「鼓判官との異名が付けられた理由は、人から打たれたからか、それとも叩かれたからか」と挑発めいた言葉をぶつけられたのです。平知康はこれに腹を立てて、後白河天皇に木曽義仲の追討を進言。平知康は後白河天皇から厚い信頼を得ていたため、後白河天皇もこれに同意して木曽義仲のもとへ兵を派遣します。
平知康が木曽義仲に対して「即刻、洛外へと退去願う。応じない場合は追討の宣旨を下す」と告げると、木曽義仲は激怒。1183年(寿永2年)11月、木曽義仲は自身が引き連れてきた兵とともに後白河天皇の御所である「法住寺殿」(ほうじゅうじどの)を包囲。平知康は後白河天皇を守るために応戦しましたが敵わず、後白河天皇は再び幽閉され、平知康は検非違使の職を解かれることになります。
1185年(元暦2年)、木曽義仲が滅亡したことで平知康は検非違使に復帰し、京に入っていた「源義経」に接近。ところが、翌年の1186年(文治2年)源義経を嫌った源頼朝に目を付けられて、平知康は再び解任。
そののち、平知康は弁明のために鎌倉へ下向し、そこで鎌倉幕府に出仕します。そして、2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)の蹴鞠の相手として、源頼家の側近となりました。
北条政子
なお、軍記物語「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ)には、平知康と源頼家の母「北条政子」(ほうじょうまさこ)の関係性を示すエピソードがあります。
1202年(建仁2年)6月25日、源頼家の御所で蹴鞠の会が開催され、その夜に酒宴が行われたときのこと。
酒に酔った平知康が「北条時連」(ほうじょうときつら:のちの北条時房)に対して、「連」と言う文字は銭の単位を意味する「貫」を連想するために印象が悪い、と改名するよう勧めたのです。
これを真に受けた北条時連は「北条時房」(ほうじょうときふさ)と名乗るようにしますが、それを聞いて激怒したのが北条時房の姉である北条政子でした。
北条政子は、「木曽義仲が後白河院の法住寺殿を襲撃した原因を作ったのは他でもない、平知康が後白河院に木曽義仲の追討を願ったからだ。それだけでなく、平知康は源義経に味方をして将軍家を滅ぼそうとした。そんな平知康を側近として近くに置くだけでなく、親しくするとは何事か」と述べたのです。