『新選組遺聞』を含む新選組三部作を遺した子母澤寛(しもざわかん)。その後、多くの新選組小説を生みだしていく端緒となった子母澤は、幕末に生きた実在の剣客に関心を寄せ続けました。
新選組遺聞
子母澤寛は、読売新聞社を経て、東京日日新聞社(現・毎日新聞社)勤務時代、新聞連載『戊辰物語』の執筆を担当します。昭和3年の戊辰の年にちなんだ企画でした。同年、読売新聞社時代から関心を寄せていた幕末の関係者への聞き書きを合わせ、初の単著『新選組始末記』(1928年 万里閣書房)を発表しました。
自身の祖父が彰義隊の生き残りで幕末は身近な存在だったと語る子母澤は、続いて『新選組遺聞』(1929年『サンデー毎日』連載)、『新選組物語』(1932年 春陽堂)を発表し、この新選組物は新選組小説の原典のひとつになります。
『新選組遺聞』では、新選組局長・近藤勇の愛刀とされた長曽禰興里(ながそねおきさと:江戸時代の刀工)が鍛えた虎徹の真偽について記しています。
この甲州へ行く時の佩刀は、板倉周防守から拝領物の宗貞で、鞘に五三の桐の散らし蒔絵のある立派なものであったというが(近藤勇五郎翁談)、京都在任中に佩用のその虎徹について、斎藤一(副長助勤)こと後ちの山口次郎翁の遺談に、
「すべて鉄造りで、胴の丸鍔に龍の彫物がありました。銘はなく、元、何々と在銘のものをすりへらしたようにも思われました。確かに二尺三寸五分程あったと思います」とあって、無銘説。「虎徹の話」『新選組遺聞』より
勝海舟
その後、子母澤は幕末を題材にした歴史小説『勝安房守』(1941~1946年『中外商業』他断続連載)を執筆します。2度目の単行本化の際『勝海舟』と改題されたこの歴史小説では、剣客・島田虎之助に剣を学び免許皆伝を受ける麟太郎(りんたろう:のち海舟)の場面から始め、明治新政府誕生に至るまでを描きました。のちに渡哲也・松方弘樹の主演でNHK大河ドラマの第12作目にもなりました(1974年)。
勝海舟の物語は子母澤のライフワークとなります。その後、男谷信友(おたにのぶとも:直心影流の剣客)のいとこで無頼に生き、刀剣の目利きも行なった麟太郎の父・小吉を中心とした『父子鷹』(1955~1956年『読売新聞』連載)と『おとこ鷹』(1960~1961年『読売新聞』連載)を執筆しました。
游侠奇談
子母澤は、渡世人にも大いに関心を寄せます。
読売新聞社時代、国定忠治75年祭を機に忠治の取材を行なっていた子母澤は、『游侠奇談』(1930年 民友社)を発表します。江戸時代後期に登場した飯岡助五郎・笹川繁蔵・佐原喜三郎・国定忠治・相模屋政五郎・清水次郎長ら侠客についての聞き書きを収録しました。
忠治については、忠治の弟の息子・長岡利喜松から話を聞いています。「侠客の話は、語って面白く、聴いて面白ければそれでよろしい」とした本書で、忠治の愛刀を、鎌倉時代に興った備前国の刀工一派・備前長船派(末備前)の則光だったと記しました。
忠治はこの時、両手を組んで、刀には手もかけなかったというが、その文蔵の刀が余りよく斬れたというので、忠治はその場でこれを貰って、爾来それを自分の刀にしていた。備前長船の則光、二尺三寸の長ドスで、明治になって一度火事に逢ったというが、磨きあげて、利喜松老人のところに在った。
「国定忠治」『游侠奇談』より
ふところ手帖
子母澤はその後、『国定忠治』(1932~1933年『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』連載)を執筆します。恩義ある親分の娘に惚れていた忠治が、親分の敵の仕業で行方不明となったその娘を探して奔走する物語に仕立てました。子母澤はこの連載終了を機に新聞社を退社して作家を専業とするようになり、『国定忠治』は代表作のひとつとなりました。
子母澤の渡世人への関心は生涯続き、随筆『ふところ手帖』(1955年『週刊読売』連載)では、「座頭市物語」を書きます。飯岡助五郎の子分で盲目の剣客・市は、映画化されたことで人気となっていきます。
幕末に生きる人々や渡世人を描き、聞き書きを重んじた子母澤が見出した刀剣世界は、現在の歴史・時代小説の礎になっています。