『旗本退屈男』でその名を残す佐々木味津三(ささきみつぞう)。純文学から大衆文学へ移行してきた佐々木は、当時人気を博していた『半七捕物帳』と『丹下左膳』の時代小説を巧みに換骨奪胎しました。それは当時の時代小説の人気ぶりを教えてくれます。
半七捕物帳
佐々木味津三は、純文学からスタートし、親族の借金返済のために売り上げの見込めた大衆小説を選びます。「直参八人組」、「討てぬ仇討」、「家康秘録」(1926年『講談倶楽部』)、「三河武人物語」(1926年『現代』)、「剣侠二人兄弟」、「義剣春雨潭」(1927年『講談倶楽部』)、「死にに行く武士」(1927年『現代』)、「切支丹狩り」(1928年『キング』)などの短編を発表し、大日本雄辯會講談社(現・講談社)の雑誌を拠点としていきます。
そして、岡本綺堂が創始した「捕物帳」も手がけ、『右門捕物帖』を執筆します(1928~1932年『冨士』他連載)。作品は連載中、嵐寛寿郎主演で映画化され、人気作となっていきます。
丹下左膳
佐々木は『右門捕物帖』発表の翌年、『旗本退屈男』(1929~1930年『文芸倶楽部』連載)を執筆します。連載中、市川歌右衛門主演で映画化され、こちらも人気作となっていきます。
主人公は、旗本の早乙女主水介です。眉間に三日月形の傷跡を持っています。その傷は江戸の町道場を泣かせていた長藩七人組と称された剣客集団を浅草雷門で倒したときにできた物です。
連載はちょうど林不忘の新聞連載小説『新版大岡政談・鈴川源十郎の巻』(1927~1928年『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』連載)の登場人物で隻眼片腕の丹下左膳が、嵐長三郎(嵐寛寿郎)や大河内伝次郎などの主演で映画化され、人気となっていた時期でした。
旗本退屈男
江戸時代中期、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉の時代、天下泰平の元禄年間を生きる主水介は、「退屈」が口癖です。
旗本の身分と目立つ眉間の傷を逆手にとって、退屈ゆえにどんな問題にも首を突っ込んでいきます。ときに篠崎竹雲斉を祖とする諸羽流の剣の腕をふるい、「諸羽流正眼崩し」の剣技も披露します。
「よくみい! この疵痕がだんだん怖うなって参るぞ。抜かば斬らずにおけぬが篠崎流の奥義じゃ。いってもよいか。」
(中略)
物静かに呟き乍ら、大きく腰がひねられたかと見えた途端!――きらり、玉散る銀蛇が、星月宵にしゅッと閃いたと見えるや、実にぞっと胸のすく程な早技でした。声もなく左の二人が、言った通りそこへぱたり、ぱたりとのけぞりました。同時に退屈男の涼しげな威嚇――。
「後の旗本退屈男」『旗本退屈男』より
純文学からスタートし、先行する人気作を踏まえ、自身の作品を生みだした佐々木は、刀剣世界に拡がりをもたらしました。